魔王として
こう言うと難しく聞こえるけれど、魔王という存在は概念である。この大陸では、古来より魔王が魔族の女たちをひとつの旗の下に結集させ、その恐るべき魔力によって世界を侵略するものだと古い世代ほど固く信じているらしい。
世代によって認識のばらつきがあるのは、かつて大陸全土を支配していたエルフ族が表舞台から綺麗さっぱり消え去るほどの衝撃を与えた最後の侵略。つまり、オレの前に誰かが魔王をやっていた時代まで遡る。
オレだって詳しくは知らないが、およそ百年ぐらい前の話だ。一世代分の期間が丸々と空いてしまっているわけだから、魔王そのものを知らない若者も少なくない。
もし、オレがエルフの息が掛かった決死隊によって魔王城から攫われていなければ、オレの玉袋の魔力を元手に魔族が幾度目かの戦争を始めていたかもしれない。世の中の歴史というものは、そういう些細な出来事によって成り立っているのだ。
オレという魔王が世界の片隅に生まれ、危うく大陸が滅びかけたことを知る者はほとんどいないだろう。
特に、こういう中央からだいぶ離れた辺境の小都市にあって、さらに下層の掘っ立て小屋とゴミと死体と糞尿にまみれたスラムにあっては、誰もオレが魔王だとは気付かない。魔王や魔族の歴史について学ぶ機会もなければ、そもそも読み書きができるのかも怪しい最底辺の落伍者たちが住民の圧倒的多数を占めていた。
それに、百年も前に魔王軍が自然的に解散したとはいえ、未だに社会から隔離されている魔族も多く住み着いている。
こういう場所は、ただの犯罪者連中はもちろん、オレのような魔族をはじめとした敵性種族が身を隠して住むにはうってつけなのだ。
さすがはオレのお目付け役を務める相方。その名をミカという人間娘は、顔と真面目だけが取り柄の女らしい仕事ぶりである。
いつかオレを殺す気でいるとしても、それは――少なくともミカの脳内では――殺人ではなくエルフという現人神どもから賜った使命であり、そのときが来るまでは、オレと共に生活しなければならない。
できるだけ面倒が少なくなるように図らうのであれば、こういう小汚い犯罪都市が最も合理的な答えのように思われるのだが。
実際は、オレもミカも単純に貧乏だから、他に住めるところがないというのが正直なところなのであった。
「いつまで寝てるの。起きて」
「うーん」
玉袋に古い魔力が詰まっていると、まぶたまで重くなってしまう。ほとんどタダ同然で買った中古の継ぎ接ぎだらけの布団にくるまっているオレとは違い、ミカはもう自分の布団を片付けて、長い髪を後ろに結んで家事まで行っていた。
もうちょっと待っていれば、お茶ぐらい出てくるだろう。そうして振り返れば、これまた寝起きの悪いオレには毒すぎる眩しい太陽が、ビルのように積み上がった掘っ立て小屋の隙間から力いっぱいに輝いている。
魔王だろうが人間だろうが平等に朝は来る。起きて顔を洗って歯を磨いて、まずいパンを口から身体の中に押し込んだら、行きたくもない仕事に行かなくちゃならない。
オレは時々、自分が魔王であることを忘れそうになる。
いや、実際のところ、オレは魔王ではない。オレを魔王として担ぎ上げ、世界征服の野望を実現しようとした一部魔族の企みは、十年以上前に脆くも崩れ去った。
すでに魔王ではないオレをミカが恐れ、強いては、その背後にいるエルフどもがオレを完全に抹殺しようとする理由。それは、この大陸の歴史上にして統計学上、オレより強力な魔力を玉袋に納めているオスがこの世に存在しないという一点に尽きる。
というか、魔族やエルフといった魔力に特化した種族は、例外なく女しか生まれない種族であり、そういう生物学的な見地からも魔族のオスというのは大陸にオレだけなのだ。
あるいは、ただ珍しいだけなのかもしれないが、オレは魔族として並々ならぬ肉欲を常に持て余している。そうした事実からも、そこらへんの人間程度のオスが持つような貧弱で貧相な魔力。それとは比べ物にならない高度な性能を有していることは、まず間違いない。
この魔力がある故に、オレは望みさえすれば、いつでも魔王を名乗ることができる。それと同時に、オレの玉袋の中には大陸を破滅に導く力があるわけで、それを悪用したり危険視する勢力から追われる身でいるのだ。
そう思えば、オレは確かに魔王なのだろう。
だが、いつも決まった時間に叩き起こされては、生きるための小銭を稼ぐために仕事へ行かなければならない。どれだけ掃除しても、窓の外からドブのニオイが入り込んでくる臭くて狭いボロアパートに住まされて、外国軍から横流しされた賞味期限切れのパンを食べて日々の生命を繋いでいる。
ついでに言えば、少し前まで交尾させてくれる看守のような存在だったミカに、ああでもないこうでもないと毎日毎日、口うるさく言われて尊厳も踏みにじられている現状だ。
それでも、オレは本当に魔王だと胸を張って言えるのだろうか。
まあいい。何日も前から、ぱんぱんに張り詰めて重くぶら下がっている玉袋とは裏腹に、ふくろ違いの胃袋は空っぽでいる。そろそろ、起きて何か食べたい気分だった。