前夜
のんびり更新。
まだ夏と呼ぶには少し早い気もするが、生きているだけで身体が溶けかねないほどの熱をオレは確かに感じていた。
これがいわゆる温暖化の影響。あるいは、この狭苦しい四畳一間のゴミみたいな空間に押し込められた挙句、母親面した相方の女が同じ布団で寝ているせいかは分からない。こいつとオレは血で繋がった家族でもなければ、仲良し幼馴染というわけでもないし、ましてや恋人や妻などと愛情のある未来志向の関係でもないのだ。
言うなれば、オレは生まれながらに罪を背負った囚人であって、こっちはオレを気まぐれに怒鳴りつけて殴りつけては性的に興奮している変態女といったところ。実際、そうなのだ。友情とか愛情だけが人を結びつけているわけではない。
むしろ、そういう曖昧な感情論ではなく、ひょっとしたら殺意や憎しみに近いものがオレたちを繋ぎ止めているのだろう。
オレには分かる。何を隠そうオレは世にも珍しいオスの魔族、すなわち魔王なのだ。すぐ隣で寝たフリを決め込んでいる人間娘の貧相な魔力からは、黒い淀みのような負の面をあまりにもはっきりと感じ取ることができた。
なんとも奇妙なものである。物心つく前に親と死に別れ、それからずっと二人三脚でやってきた仲だというのに、内心ではオレを殺しかねないほどに激情を募らせているらしい。
それもオレが全世界から畏怖される魔王ならば、仕方のないことだ。
といっても、オレには魔王としての記憶は一切ないし、この女の母親を死に至らしめたという事実も存在しない。オレが魔族の女たちに魔王と崇め奉られていたのは、生後間もない一瞬の出来事。そんなオレを殺して母親の仇が取れると思っているのなら、こいつはオレが想像するより少しバカな女ということになる。
まあ、そういうオレも偉そうに言えるほど出来たもんではないし、それが別れの理由になるのなら甘んじて受け入れよう。来るもの拒まず、去るもの追わずと昔の誰かが言った。
というより、魔王であるオレを求めてくるようなヤツは、殺し屋か魔物か魔族か。とにかく十中八九ろくなもんじゃないから、この世の果てまで追われるわけで、それなら最初から諦めて降った方が都合が良い。
逆に、オレを見て逃げ出すヤツを追いかけても、やっぱりろくなことがない。それに、オレは人生のほとんどをこの四畳一間でだらだらと過ごしてきたから、相手がカメか死にかけのババアか戦争で脚を吹き飛ばされたアル中でもないかぎり途中で疲れてしまう。
だから、努力するだけ無駄なのだ。同胞の女たちほど立派なものではないが、オレが紛れもない魔族であることを示す頭の上のツノと、先端がハートの形をしているシッポが尻からあるかぎり、オレが人並みに生きられる保証は未来永劫あり得ない。
しかし、いまオレの横にいる人間娘とはなんだかんだ十年以上の長い付き合いで、機嫌の良いときに頭を下げて頼み込めば交尾もさせてくれる。
こういう女のことを世間では優しいヤツと言うのだろう。オレも人間娘のよく締まった女体の味を思い出して、改めてそんな気がしてきた。
なんだか、たまらなく興奮する。魔族というのは常に魔力に飢えており、それはすなわち肉欲に直結しているのだ。仮にも魔族の端くれであるオレが半径六十センチ以内に女を招き入れておきながら、種族柄の旺盛な肉欲に狂わないわけがない。
当然、それはこの女も嫌というほど承知している。来る日も来る日もオレという魔王に若くて健康な肉体を弄ばれ、穢された子宮もくたびれて緩みきり、もはや他の男のもとに嫁入りできるような純潔はとっくに損なわれているのだ。
それでいて無防備な背中を晒して誘惑してきているということは、つまり、そういうことなのだろう。よく魔力の染み渡ったオレの頭脳が論理としてそれを理解した瞬間、股ぐらで蒸されていた玉袋の魔力がぐつぐつと湧きたち、オレを激しい生殖行動に駆り立てた。
だが、堪らなくなったオレが布団の中で女を強く抱きしめ、そのまま痩せこけた人間らしい小振りの片乳に手をかけた瞬間。発情したオレが一瞬で我に返らされるほど、不機嫌極まりない女の声が聞こえた。そして、その胸を揉み解そうとしたオレの手に容赦なくツメが突き立てられ、心底気だるそうに振り返った女の眼光がオレを睨みつけていたのである。
「何してんの」
「え。あ、あの・・・すんません」
こういうときは、とっとと素直に謝っておくにかぎる。これが愛情であったなら、ほんの些細なことで心が離れてしまうこともあるけれど、オレたちをオレたちたらしめているのは憎悪に近い感情なのだ。
心なんて最初から冷めきっている。この女がオレをつかず離れず大事に見守ってくれているのは、ひとえに、オレを殺すにふさわしい然るべき瞬間を待っているのだ。何度目かの母親の命日か、世界が滅亡する直前かは知らないが、それは確実だった。
だから、たとえ天変地異が起きようとオレたちが離れることはない。この人間娘を勢いあまって懐妊出産させたとしても、オレを気が済むまで痛めつけて拷問した後で、ため息まじりにまた仏頂面で横に立ってくれるのである。
実際、もう何度もあったことだ。男と女が裏路地のボロアパートの一室にいれば、そのうち交尾をして女が孕み、孕めば股ぐらから子供を産み落とす。
こんなにも弱々しい華奢な身体で何匹も子供を産んだ人間娘にも驚いたが、母親の仇と思い込んでいるオレと交尾を繰り返し、果ては母親になるとはどういう気持ちなのだろう。
それはさておき、ここ数年で一番怖い顔をされて玉袋も完全に沈黙してしまい、オレという魔王も形無しといったところ。もともとオレは魔王だなんて大層なものでいる自覚は微塵もないのだけれど、この女はオレをそう見ているわけだし、おそらくはオレを手にかけて肉片を川に捨てるまでその認識は変わらないだろう。
とにかく、今夜は無理そうだ。この様子だと明日も難しいかもしれない。きのうもおとといも今夜ほどではないにしろ遠回しに断られたし、ここ最近はしばらく人間娘と交尾をしていない気がする。
いったい、どういうことなのだろう。ここまでこいつが腹を据えかねる理由としては、単にオレが気に入らないか、愛すべき母親の悪口でも言われたか。はたまた、月経の不順なんかも大いに考えられるけども。
やはり、この真面目で融通の利かなくて魔族嫌いで敬虔な人間娘が仕えているエルフ族の連中がまた何か余計なことを言ったのだろう。
全く勘弁してほしい。この大陸を二分するエルフと魔族は、それはそれは仲が悪いとウチの相方にも説教されてきたけれど、オレにとってはどうでもいいことなのだ。
ただ、この女は何千年も前からエルフの奴隷として尽くしてきた一族の末裔で、家族や親戚が死に絶えた後も非常に熱心なのである。
まだ産まれたてだったオレを誘拐して監禁し、いつか盛大に儀式を執り行ってからオレの心臓に銀の短剣を突き刺すというわざとらしい筋書きまで、すべてはエルフの手によるもの。それを忠実に完璧に滞りなく果たす。それをこの人間娘は心から誓っているらしい。
全くもってどうでもいいが、いまのところオレを殺す計画は順調に進んでいるのだから、もう少し喜んで見せればエルフも気持ちが良いと思うのだが。この女の信心が満たされてハイになれば、それだけオレがこいつと交尾できる可能性が指数関数的に増加する。
そのはずなのに、何故、この人間娘はこんなにも不満を隠そうとしないのか。歴史のある種族だからこそ硬直化して単純でいるエルフや魔族と違い、人間という種族は本当に複雑でワガママに出来ているようだった。