鐘の音
『登場人物:多い、位置関係:複雑、主人公:あまり出てこない』
こんなお話を読んでいただき、とても感謝しています。
超簡単な位置図を作ってみました。
よろしければ、お使いください。
本当にありがとうございます。
中石川は顔についた雨を勢いよく払う。
〈なんだって、あいつは稀に不器用になるのだ。〉
中石川は妻のお陸の顔を思い出し、うっかり悪態をついてしまう。
亭主が妻の陰口を叩くなど決して許されるべきことではない。
一目惚れの上、拝み倒して妻になってもらったという弱みがある中石川は、これまで口に出してお陸のことを悪く言ったことがない。
心の中で文句を言うことは多少あるが、夫婦となってからは一度たりとも口に出したことはない。
夫婦喧嘩なんてものは犬ですらあくびをして無視するものらしいから、どっちが悪いとは決めつけられないのだが、今回ばかりは中石川に分があるだろう。
出陣前の中石川の身だしなみを整えるのは、お陸である。
侍女や小姓に任せることは絶対に無い。
理由は簡単。
戦支度をしている中石川の姿がお陸にはえも言われぬほど格好よく見えるらしく、
『旦那様の魅力をさらに引き立たせるのは私しかいないわ!』
と決めているからなのだ。
そんな信念を持つお陸だが、んんんん、ととても重大なことに気づいてしまった。
〈旦那様の見栄えが良すぎてはいけないのでは・・・〉
悪念を起こしたお陸は中石川の右眉をさっくりと剃り落とすという暴挙に出る。
「すべっちゃった。」
てへぺろ、とお陸は自分の頭をこつんとする。
右眉だけを剃り落とした理由は、中石川の浮気防止のためなのだが、そのことは口が裂けても言うつもりはない。
墓まで持って行く覚悟はできている。
右眉が無くなった中石川は、ひきつった笑いをお陸に向ける。
「とりあえず、眉を書いておいてくれるか。」
右眉を失った中石川は、眉のありがたみをこの戦場でひしひしと感じていた。
〈水は眉毛に沿って動くのだな。雨水や汗がまっすぐ垂れて目に入る。痛くてかなわん。〉
顔が濡れないよう、兜を目深にかぶるなどの工夫に励む中石川は旗を見ることができない。
不自由さに焦れた中石川は、ついつい新堂に怒鳴ってしまう。
「おい、あの旗は何だ。」
「何を言っているのだ、兄者。千鳥に月。椎名家の旗に決まっているではないか。」
冷めた口調で新堂が答えた。
〈やれやれ、そんな目深に兜を被っていたら、見える訳ないだろう。兄者は誰にもバレてないと思っているが、全員にバレてるんだよなぁ・・・。〉
右眉のことを告げた方がいいのか新堂は悩む。
「なぜ、あそこに椎名軍がいるのだ。本当に椎名家の旗なのか。」
「あんな単純な家紋を見間違えるわけがないだろう。眉毛が無いことは分かっているから、眉庇を上げて自分の目で見ればいいじゃないか。」
人に聞いておいて、答えを疑ってかかる中石川にムカッとなった新堂が言い返す。
〈バレてる!〉
新堂の不貞腐れた顔をちらりと見た中石川だが、すぐに眉庇を上げて旗を見た。
「椎名家だな。」
「ほれ、見ろ。俺が言っていた通りだろう。」
新堂の勝ち誇った声をあっさりと無視した中石川が独り言ちる。
「あそこに椎名軍がいるということは、じいさまが危ない。」
中石川が苦虫を嚙み潰したような顔になる。
軽く無視された新堂だが、そんなことより彦左衛門を心配する気持ちが勝る。
「兄者、そいつはまずい。すぐに戻ろう。」
「椎名軍が街道から来ている以上、ここを捨てることはできん。野句中軍の方が椎名軍より兵が多いのだ。前軍で対応できるだろう・・・」
中石川は弱々しい声で話す。
〈後軍のみで三日月に対応できるのか。いや、それよりも中軍が椎名軍に横っ腹を突かれた・・・。ん、椎名軍だと。〉
違和感に気づいた中石川は、怒りで柿を握りつぶしてしまう。
「椎名軍に嵌められた。」
中石川のあまりの剣幕に新堂が驚く。
「どうしたのだ、兄者。」
「どうもこうもあるか。街道を進んでいる椎名軍は囮だ。」
中石川の激しい口調に新堂は、とりあえず頷くことにした。
〈こいつの悪い癖だ。分かっていないのに、分かってる風に頷きやがる。〉
新堂の反応に、中石川の声は大きくなる。
「椎名軍は500しかおらんのだぞ。中軍を少数で攻める馬鹿がいるか。椎名軍はほとんどの兵を中軍にぶつけたはずだ。街道にいる椎名軍など軍ですらないかもしれん。」
あぁ、と新堂は手を叩く。
「で、どうするのだ。」
「陣を捨てる。寒山では無理だ。じいさんを救いに行く。」
真っ青な顔で立ち上がった中石川は、足を踏み出そうとして、自分の足に絡まり倒れた。
「兄者。大丈夫か。」
慌てて中石川を助け起こそうとする新堂だが、中石川が嗚咽しているのが分かり、自身も地面にべたりと座り込んだ。
「彦左衛門様は、俺たちに優しかったな。」
地面に顔をつけたまま、中石川は何も言わず肩を震わせている。
「彦左衛門様が死んだのは、俺たちのせいか。」
新堂の声に中石川ががばっと起き上がり、泥だらけの顔で叫ぶ。
「まだ死んだと決まっておらん。」
「なら、兄者はなんでこんなところでヘタレているのだ。」
言うなり、新堂は中石川の頬をぴしゃりと打つ。
雨が二人を包み、死を前にしたような静謐な時間が流れる。
むくりと起き上がり、新堂の横に座った中石川は頭を下げる。
「すまん。情けないところを見せた。」
「兄者は気を張り過ぎなのだ。もう少し、力を抜いたほうがいい。」
手拭いで中石川の顔を拭いていた新堂だが、手拭いをぽとりと落とす。
目を見開き、震える手で奥の山を指さす。
「兄者。あっちの山にも幟旗が立っている。」
「何だと。」
新堂が指さした旗を見た中石川は立ち上がる。
座ったままの新堂がわめく。
「野句中の兵が俺たちの方に走って来るぞ。」
叫ぶ新堂の頭を叩いた中石川が大きく息を吐き出す。
「やめだ。やめ。逃げるぞ。」
「彦左衛門様はいいのか。」
「よく見ろ、あいつらは何の秩序も無く逃げて来てるんだ。どいつもこいつも逃げるのに必死だ。じいさまが生きていたら、正規兵だろうと傭兵だろうとあんな不細工な真似を晒すわけがない。」
一言一言を噛みしめて話す中石川を見上げていた新堂が、ゆっくりと立ち上がる。
「彦左衛門様のことは分かった。鷹条の軍法では、逃げれば死罪だ。椎名軍に投降するのか。」
不満げに話す新堂の肩を抱いた中石川はニヤリと笑う。
「馬鹿を言うな。俺たちは椎名軍と堂々と戦い、勝利するのだ。」
「何を言ってるのか分からん。」
「椎名軍がいるのは後だけではない。前にもいるではないか。そいつらと戦えばいい。」
眉間に浮かんでいたしわが消え、新堂の表情は明るくなる。
「なるほど。やはり、兄者の悪知恵は追い込まれた時に輝くな。」
感心する声を出す新堂に嫌そうな顔を向けた中石川が口を開く。
「悪知恵とか言うな。」
「その話は、後日にするとして、街道にいる椎名軍の兵は少ないと言っても100はいるのだろう。」
新堂の問いかけに、突如、中石川が発狂したように叫ぶ。
「くそ忌々しい。野句中軍の物見の体たらくよ。500人と報告を受けたが、実際は50人ぐらいだ。」
新堂が笑いながら手を左右に振る。
「ないない。それはない。いくら何でも一桁も間違える物見がいるものか。」
呆れたように中石川が笑う。
「お前、どれだけ都合がいい頭をしているのだ。初めて物見に行った時のことを忘れたとは言わさんぞ。」
はぁ?、と言う顔をした新堂が、「あぁ、あれね。」とぽつりと言った。
「兄者。そんなつまらないことを思い出すより逃げる方が先だ。」
きりりと表情を変えた新堂が、口調まで凛々しくなる。
「お前、本当にいい性格をしてるよな。」
「さぁ、さっさと命令してくれ。彦左衛門様の敵討ちをするまで無駄死にはごめんだ。」
無い右眉毛をピクリと動かした中石川が、大きく頷く。
「お前の言う通りだ。ところでだ。さっき、兵の引き締めは終わったと言っていたな。」
「あぁ、いつでも出撃できる。」
「よし、すぐに出るぞ。家臣の50名がいれば十分だ。」
「50名では、椎名軍と同数では無いか。敗残兵の俺たちでは勢いが無いぞ。」
「傭兵たちの中で、俺たちより先行して逃げるやつらが出て来る。椎名軍の相手はそいつらに任せればいい。」
「そうなのか。」
「生存本能の塊みたいなやつらだからな。大半は俺たちにくっついて逃げようとするだろうが、けつに火が付いたやつは死に物狂いだからな。馬並みの速度で走るかもな。」
考え込んだ新堂が、小声で呟いた。
「それは、見てみたいな。」
中石川軍は、崩れる野句中軍を放置して一目散に街道を進む。
予想していた通り街道には、椎名軍が待ち受けちていた。
だが、街道にいた椎名軍は、先行する傭兵を見ただけで一目散に山の中に逃げた。
「兄者の言っていた通り、50ぐらいだ。だが、何もせず、逃げて行ったな。」
「あいつらの逃げっぷりが変だ。おい。全速力で逃げるぞ。」
中石川軍は、ここで速度を上げる。
案の定、山の中から飛んできた矢と石によって、傭兵に多数の被害が出る。
しかし、中石川軍には数名が軽傷を負っただけで、そのまま街道を進み、丸根城まで逃げきった。
城に到着した中石川はすぐに海徳へ口達者な者を使いとして送る。
使いが海徳のもとへ着いた時には鶴山城の戦いは終わっていた。
使いは誇らしげに海徳に語る。
「街道を突き進んで来る椎名軍と一戦し、勝利いたしました。逃げまくる椎名軍を追いかけましたが、残念ながら途中で見失いました。野句中軍が椎名軍の別動隊に打ち破られたことを知り、鶴山城へ戻るのは危険と考え、丸根城に入城いたしました。現在は、椎名軍の攻撃に備え、丸根城の守備についております。今後の方針が決まりましたら、ご命令ください。」
海徳は笑うだけで何も言わなかった。




