ハゼ?沙魚?
女神は言うや否やスックと立ち上がると手に持った薙刀をブンブンと二、三回振り回し歌舞伎でやるような見得を切るポーズをビシッと決めると、女神の立ち回りを惚けた眼差しで追いかける沙魚丸の頭を薙刀の柄で軽くコンと叩いた。
〈痛い。女神様、こういう場合はほっぺたでしょ。かなり痛かったです。でも、分かりました。夢ではないんですね・・・。
よし、切り替えよう。〉
沙魚丸は、決意の火を目に灯し左手を心臓の上に置きキッパリと女神に告げた。
「女神様。ご指導ありがとうございます。それでですね、私は前の世界にいつ、どうやったら帰れるんでしょうか?私がいないとあちらの世界では色々と不都合が起きる可能性があります。なので、できるだけ早く帰りたいのですが。」
「帰れんよ。其の方はこちらの世界で沙魚丸として生き、死んでいくのじゃ。」
どっこいしょと座りなおし、真面目な顔で返事をする女神にがっくりと肩を落としうなだれる沙魚丸。
〈んー、聞きたくない答えが返ってきたか。やっぱりなぁ。帰れないかぁ。仕事は、まぁ、私がいなくても何とかなるよね、会社の、みなさん、お世話になりっぱなしで、ごめんなさい。恩返しできませんでした。しかしなぁ、一人暮らしのあの部屋を誰かに見られるのはちょっと嫌かも。ここのところ雨が降っていたし洗濯物が溜まっているんだよねぇ。しかも、部屋の至る所に転がっている一升瓶とか四合瓶にビール缶。お城関係のコレクションとか。完全にトホホですよ。乙女の部屋ではなくおっさんの部屋になってるし。お姉ちゃんに見られるのは避けたい。一番やばいのは妄想だらけの日記を誰かに見られるのは絶対に勘弁だよね。そうだ、まだだ、諦めるな、私。〉
「女神様。心からのお願いです、自宅を片す時間だけいただけないでしょうか。絶対に戻って来ますから。私をメロスと呼んでもいいですから。」
床几ごとぐっと詰め寄る沙魚丸に、立ち上がって後ずさりながら顔を背けた女神は視線を泳がせ答えた。
「メロスは知らん。気持ちは分からんでもないが、諦めろ。暫く向こうの神とは連絡が付かん。付くとしてもずーっと先のことで、少なくとも其の方が生きている間には無いな。」
〈むごい。女神様も女性だから分かってくれると思ったのに・・・あたい、情けなくって涙が出ちまう。〉
両膝から崩れ落ち四つん這いになってうなだれてしまった沙魚丸に、ちょっとおろおろした様子の女神は、何かを思い出したかのようにポンと自分の頭を叩くと優しい声で囁く。
「まぁ、あれじゃ。向こうの神も優しい奴でな。其の方の部屋の中身は、眷属神の『蛙』に一切合切残らず回収させてから燃やしきって塵一つ残さんと言っておった。よかったの。」
四つん這いの沙魚丸の腕はプルプルと震える。
〈えっ、何気にひどくない。地球の神様。回収して燃やすって、神様には私物の概念は無いんですか?しかも、蛙ですか?どう考えてもあの姿勢では荷物を持てないよね。待って。蛙って、あの神社に居た蛙!ってことは、あの立派な口の中に荷物を入れるの。かわいいとか取消よ。私は無事に家に帰してってお願いしたのに、塵にかえるのは愛しき私のコレクションですかぁ!何よ、閃いたとか神隠しとか。もうさぁ、神様のやってることって変質者と同じじゃん。あの、電信柱に隠れてコートをおっぴろげる奴と同じよ。
その心は何を考えているのか分からないってだけだけど・・・神様め。SNSで変な顔にしてアップしてやる。ダメだ。スマホがなかった。いやぁー、なんかちょっと泣けてきた。くっそぉ、こんな理不尽に負けるもんか。〉
ひとしきり文句を考え終わった沙魚丸は四つん這いの姿勢のままで、女神に顔をグリンと向ける。
「で、私は、これからどうすればいいんでしょう?」
沙魚丸を見下ろしていた女神は手を差し出して微笑む。
「そんな姿勢では話しにくかろう。まぁ、立つがよい。」
女神の優しい声に調子の乗った沙魚丸は女神の手をがっしりと両手で握り立ち上がると、上下にブンブン振りながら早口でまくし立てる。
「女神様、異世界とおっしゃっていましたが、どんな異世界ですか?異世界と言えば定番になっているチート能力をもらってヒャッハーをできるんですか?」
つかまれた手を必死に振りほどいた女神は不思議そうな表情を浮かび上がらせる。
「何なんじゃ、其の方は、一体。さっきまでボンヤリしとったのに、いきなり積極的になりおって。どれだけ切り替えが早いんじゃ、まったく。」
沙魚丸は、女神にビシッと音が出るような敬礼をし、にっこり微笑んだ。
「ウジウジしていてもしょうがないですし、異世界に憧れていたので、どんとこいです。なので、サクサクご説明をお願いします。」
「うーん、この娘で大丈夫かな。」
沙魚丸の笑顔に狂気を感じた女神は、スッと沙魚丸から顔を背けうつむきボソッと小さく呟いた。
「どうかしました?」
女神の小さな声を聞き取れなかった沙魚丸は、女神の挙動不審な様子に疑問を感じ、うつむいている女神の顔を下から覗き込み問いかける。
「いやいや。何にもないぞ。ちょっと近いから。離れんか。其の方は、前の世界で言う日本の室町時代~戦国時代にそっくりな世界に転生することになる。其の方が知っておる人や物なども多くあるから安心じゃろう。転生先は椎名家の沙魚丸、十二歳じゃ。」
「おー、戦国時代っていいですね。私、戦国武将が大好きで、お城巡りが趣味なのでとっても楽しみです。ありがとうございます、女神様。」
ぴょこんと飛び跳ねた後に深々とお辞儀をして女神に感謝をする沙魚丸だが、両指をこめかみに当て首を傾げると女神をねめつける。
「んんんん、今、沙魚丸って言いました?沙魚丸って私の名前ですよね?」
「ややこしいのじゃが、其の方は女沙魚丸で、転生先は男沙魚丸になるぞ。それに、其の方の沙魚丸はペンネームとか言うやつじゃろうし、どうでもよかろう。」
女神様にどうでもいいと言われた沙魚丸は、どうでもよくなかったはずと沙魚丸と言うペンネームの由来を思い返す。
数年前、親友がイラストコンテストで入賞した。その際に仲間内で企画した行きつけの居酒屋を貸切にした祝賀会で沙魚丸は運命の出会いをする。
店の大将が釣ってきたハゼが刺身に姿を変えテーブルに並べられる。
ハゼのビフォーアフターを興味深げに観察していた沙魚丸は生まれて初めて食すハゼによって新たなる食の扉を開かれるのである。
可愛いサイズの刺身を一切れおずおずとつまみ、ハゼの肝を醤油にとかした肝醤油にちょんちょんとつけ口に入れる。
「うんまい。」
思わず顔がほころぶ。
ハゼの余韻が消えぬ内に、上燗にした純米酒をチロリからお猪口に注ぎ、グビリとやる。
「あぁ、たまらんです。」
お猪口を右手に持ったまま、左手で太ももをパシンと叩き顔を下に向け、思わず感嘆の言葉をこぼす。
生きていて良かったと思わせる食べ物との出会いに感謝しつつ。
次は、ハゼの刺身の一切れを小皿に取り、横に添えてあるスダチを絞り、口へ運ぶ。
口の中に清々しい匂いが広がり、ハゼの甘さがよりしっかりと味わえる。
そして、また、一杯。
スダチとハゼと純米酒の香りがふんわりと鼻からぬけていく。
ハゼの美味しさにすっかり心を奪われた沙魚丸は『次にハゼを食べるのは己の力で』と誓いをたてる。その誓いを忘れないために、自分のペンネームに沙魚を入れる。
丸は絵描きになった時からペンネームに入れたいと考えていた。
『絵描きである以上、丸を綺麗に描けるようになる』とずっと前から考えていたから。
そんな訳で、沙魚丸と命名したと思い出した沙魚丸は、女神の言う通りちょっとどうでもいいかもしれない名づけだったかもと悩む。
〈まぁ、転生前も後も同じ名前なら受け入れやすいし、楽でいいのかな?しかし、実名に沙魚丸とは。〉
「私が言うのも何ですが、沙魚丸って変わった名前をつけたんですね。」
「うむ。色々あったようじゃが、端的に言うと生まれた時の顔がハゼに見えたからだようじゃな。」
「自分の子供がハゼに似てるから名付けたって酷くないですか?」
女神に憤る沙魚丸だが、戦国武将好きとして一人の武将を思い出す。
〈そういえば、結城秀康はギギ(ナマズの一種)に似ていて気味が悪いから於義伊だっけ。
うーむ、ありがちなのかな?あれ、ちょっと待って・・・〉