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義父

沙魚丸に愛娘との結婚を持ちかけた武蔵の顔は、まさしく肉食獣が獲物を前にして舌なめずりしている顔であった。


この時の沙魚丸の頭脳はもしかしたら過去一優れていたのかもしれない。

〈ふっ、よめたわ。武蔵様は、斎藤道三になるつもりね。〉


沙魚丸の頭には、かつて嗚咽しながら読んだ斎藤道三の歴史小説のことが思い起こされる。


愛娘の帰蝶が信長に嫁ぐ前、道三に別れの挨拶を告げようと部屋に訪れた。

〈時が経つのは早いものだ・・・〉

道三は赤ん坊の頃から可愛がった帰蝶との過去を思い出し、帰蝶の前に懐刀をそっと置く。

『信長が愚かな男であれば、この懐刀で殺すがよい。』

懐刀を大事そうに持ち上げた帰蝶は父、道三に優しく微笑んだ。

『これで殺すのはお父様になるやもしれません。』


信長の領国、尾張を乗っ取るつもりだった道三に釘を刺す帰蝶のくだりを思い浮かべた沙魚丸は、

〈なら、私は信長になってやろうじゃない。〉

と決心した。


なんていい考えなのかしら、と自賛する沙魚丸は、腹黒い笑顔を浮かべている武蔵に勝ち誇った笑みを返すのであった。


思いもよらない方向へ話が飛んで行ったために呆気に取られていた源之進が、遅まきながらではあるが、ようやく正気に返った。


〈このような大事なことをお一人で決めてよいわけがない。〉

国の大事とも言えることを沙魚丸の独断で決めれば、後々、沙魚丸にどのような叱責が飛ぶか分からない。

いや、叱責どころでは済まないだろう。


沙魚丸の話を無かったものにしてもらおうと源之進が口を開こうとした時、障子が音を立てて勢いよく開けられ、叱責するような声が部屋に鋭く響いた。


「絶対になりません!」


あまりの声の勢いに座にいた者は少なからず驚いたのだが、最も驚いたのは沙魚丸であった。

驚きのあまり、座ったまま空中にわずかに飛び上がってしまったのは、何を隠そう沙魚丸だけだったからである。


恐々(こわごわ)と声の主へと振り向いた沙魚丸の目線の先には、仁王立ちで武蔵と沙魚丸を睨みつけるお辰がいた。

お辰の鬼のような形相に震えあがった沙魚丸は、「ひいっ。」と情けない悲鳴をわずかに漏らしてしまう。


幸いなことに、同時に発せられた羽蔵の声が沙魚丸のみっともない声を消してくれたようで、沙魚丸は心の底から羽蔵に感謝する。


〈ありがとう、羽蔵様。あんな声を源之進さんと次五郎さんに聞かれていたら、沙魚丸君に申し訳なかったです・・・〉


この場にいない小次郎を思い浮かべ、

〈小次郎さんが、いなくてよかったわ・・・〉

と、胸をなでおろすのも、もはやお約束となっている。


「お辰。ここをどこだと思っている、それに何だ、その格好は。」


すっかり狼狽した羽蔵の声で、沙魚丸は冷静さを取り戻す。


そして、気付いた、お辰が甲冑姿であることに。

お辰の(きよ)げなる姿に沙魚丸は目を輝かせる。


〈まぁ、かわいい。紺色と浅葱色(あさぎいろ)威糸(おどしいと)の配列が巧みね・・・。ふーむ、お辰さんって、ボーダー柄がすごく似合うのね。お顔がフレッシュタイプだからなのかしら。私が選ぶお洒落ポイントは、浅葱色の鉢巻ね。浅葱色のすがすがしさのおかげで、口に差した紅がより一層あでやかに映えてるわぁ。〉


しげしげとお辰の甲冑姿を愛でる沙魚丸だったが、周りはそれどころではない。

特にお辰が。


「武蔵殿。私に一言の相談も無く、お江様の縁組を勝手に決めるなど言語道断でありましょう。」


お辰から憤怒の炎がごうっと巻き上がるように沙魚丸には見えた。


「どうして、姉上がご存じなのですか。」


お辰の迫力に気圧された武蔵が動転した声を上げるかたわらで、沙魚丸もまた驚いていた。

〈姉上ですとぉ・・・。どういうこと。〉


沙魚丸が目を見開いて羽蔵に顔を向けると、沙魚丸からの何やら訴えかけるような熱い視線に気づいた羽蔵は苦笑しながら、認めるように大きく頷いた。


〈二人が姉弟とはねぇ。あの二人の間に挟まれてるのかぁ。羽蔵さんも色々と大変ねぇ。〉


沙魚丸が心中で羽蔵に対して同情していると、お辰が姉としての物言いでやんちゃな弟に言い聞かせるように話していた。


「まったく。お馬鹿さんですか。秘密のお話なら、もっと声をひそめなさい。ただでさえ、武蔵殿の声は大きいのですから。式台を上がったところから、武蔵殿の声が聞こえていましたわよ。」


「こら、お辰。武蔵様に向かって、馬鹿とは・・・」


羽蔵が慌ててお辰に注意をするが、お辰は羽蔵に涼しい笑顔を向けると、溺愛する妻に笑顔を向けられた羽蔵はすとんと大人しくなってしまう。


お辰は形のいい唇から実に滑らかに言葉を奏でた。


「亡き奥方様の忘れ形見、お江様を沙魚丸様の嫁にするなど、私は絶対に反対でございます。」


昔からお馴染みとなっていて、武蔵が言い負かされると言う結末は既に分かっているのだが、武蔵は必死であがらう。


「沙魚丸殿は椎名家の直系なのです。それに隣に領地を持つと言っておるのです。これほどの良き相手は、そうそうに見つかりません。隣地であれば、姉上も思いついた時にお江に会いに行けるではありませんか。」


そんな武蔵を残念そうに見たお辰は、頭を横に振って答えた。


「私が見るに沙魚丸様には、まだ男の覇気がございません。さきほど拝見いたしましたところ、確かに、体は鍛えられていて申し分ございませんでした。はい。体はよろしゅうございました。」


うつむき、ほんの少しだけ考えごとをしたお辰が、ぱっと顔を上げた。

その目に断固たる決意の光を宿したお辰がまくしたてる。


「ですが、男として、燃えるような熱き思いが感じられないのです。沙魚丸様は領主として立たれる身。平々凡々として妻を愛でて生涯を終える身ではございません。そばにいて面白みのない地位ある男への嫁入りなぞ、女にとって不幸でしかございません。母代わりとして断固、反対でございます。」


野望が無い男とお辰にダメ出しをされた沙魚丸。

男たちは一斉に思った。

〈これほどのことを言われたら立ち直れないのでは、と・・・〉


男たちはボンヤリと話を聞いている沙魚丸が落ち込んでいると勘違いしたが、当の沙魚丸はお辰の発言に納得していた。


〈お辰さん、さすがに勘がいいわね。男って言われてもねぇ。下についているモノの制御方法に困っている段階なのよ。前世では男と付き合うことすら無かったのに、そんな私が女性と結婚なんて・・・。どう考えたって無理でしょ。信長になるとか、さっきは考えたけど、私って馬鹿かしら。あはは・・・〉


忠臣の源之進は、打ちひしがれていると思い込んだ沙魚丸のために声を張り上げた。


「お辰様の言う通りです。沙魚丸様には、もっと覇気を身に着けていただきます。それまで、結婚のお話は保留にしてください。」


沙魚丸様の一の家臣である源之進が沙魚丸様に覇気が無いと認めてしまった以上、もう結婚の話を進めることはできない。


武蔵はしぶしぶ頷いた。


「分かった。結婚の話はしかるべき時まで待とう。」


そう言うと、悔しそうに武蔵は独り言ちる。


「情けない領主の方が、乗っ取るには楽だと言うのに。姉上め・・・」


「武蔵殿。訳の分からぬことを言っている場合ではございません。この書状を早くご覧ください。」


ぶつぶつ言っている武蔵にお辰は書状を突き出した。


「いや、姉上がしゃしゃってくるからでしょう・・・」


お辰に聞こえないように口の中で言った武蔵は書状を手に取り読み始めた。

読み終わると、武蔵は黙って目をつぶりお辰にゆっくりと聞いた。


「姉上。これをどこで手に入れられた。」


「沙魚丸様のご家臣、針間様なるお方が搦手門付近で怪しき者を捕らえたところ、その者が持っていた書状と聞いております。」


持っていた書状を羽蔵に渡した武蔵は、お辰をじっと見て諦めたように笑った。


「姉上の甲冑姿が理解できた。屋敷からここまで、その姿で来られたのですね。」


「そうです。屋敷の者すべてを引き連れ、本丸に乗り込みました。」


お辰が沁みるような笑顔で答えた。

武蔵とお辰が話している間に、沙魚丸たちも三宅の書状を読んだ。


まさしく、三宅が野句中に注意を促したものであり武蔵を討ち取ることが書かれた書状であった。


緊迫した空気の中、武蔵が何を言うのか全員が武蔵に集中する。


「瓜生家が武装した兵を引き連れ本丸に入城した。このことを三宅が知ったら、すぐにでも本丸に乗り込んで来るであろう。有難くも、姉上は優柔不断な俺のけつを思いっきり蹴り上げてくれた。これより合戦に入る。」


武蔵が言い終わった時、渡り廊下から大山崎の声がした。


「伊織様より兵50を借り受け、大山崎、ただいま戻りました。」


大山崎の朗報に武蔵の声に明るさが戻った。


「戻ったか。兵が増えたようだが、どうしたのだ。」


「はっ。伊織様が本丸の様子がただならぬことを心配され、50連れて行けと申されました。」


「伊織め、気が利くでは無いか。」


「武蔵様。私もお聞きしたいことがございますが、よろしいでしょうか。」


大山崎が思いつめた声で武蔵に尋ねる。


「許す。」

と、武蔵が短く答えた。


「本丸に入ろうとすると、瓜生家の者が一の門を守備しており誰何されました。さらに、お屋敷の前には近習の者がすべて縛られ地面に転がされております。何があったのでしょうか。」


「姉上!」


武蔵が悲鳴に近い声を上げると、お辰が微笑んだ。


「近習と言うから期待したのに、皆さまちょっと触れただけで転がっていきますの。武蔵殿、これが落ち着いたら、近習の方たちをもっと鍛えなければダメですわ。何でしたら、私が直々に鍛えて差し上げますわよ。」


頭を抱えた武蔵が苦しそうに言う。


「全員ですか。」


「全員でございます。私には誰が三宅に(くみ)する方かなど分かりませんからね。そう言えば、木下秀俊なる者があまりにも(かまびす)しいので、念入りに可愛がってから矢倉に縛り付けておきましたわ。」


ころころ笑うお辰に武蔵はため息をついた。


「大山崎。聞いた通りだ。俺たちに味方する者の縄は解いてやれ。それから、一の門は・・・。少し、待て。」


武蔵が沙魚丸に向き直った。


「お聞きの通りだ。逆にこちらが援軍をお願いすることとなってしまった。偉そうなことを縷々(るる)と述べたくせに、格好がつかぬが、どうか俺たちを助けて欲しい。」


沙魚丸に対して頭を床につけるまで下げた武蔵が目の前にいた。

横には姿勢を正した瓜生夫妻も同様に頭を下げている。


「困った時はお互い様です。力を合わせて、乗り切りましょう。」


沙魚丸の言葉に武蔵は頭を上げ、頭をかいた。


「こういう時は、色々と条件を吹っ掛けないとダメですぞ。」


「未来の義父上に貸しを作っておくのも良いと思いますが、いかがでしょう。」


沙魚丸が小首をかしげて言うと、武蔵は微笑み答えた。


「なるほど。そういう考えもあるのかな。」


「武蔵様。そろそろ、三宅様に対する手立てを考えませんと。」


羽蔵がこわばった表情で話す。


「分かっておる。」


頷いた武蔵が沙魚丸に言う。


「誠に勝手な話だが、源之進殿と五郎を貸してもらいたい。何と言っても、二人の実力がこの中では傑出している。できれば、二人の知恵を借りたい。もちろん、先頭には俺が立つ。」


沙魚丸は、二人を見た。

二人は笑って頷いた。


〈二人とも、かっこいいねぇ。私も頑張らないと。〉

二人を家臣にもつ沙魚丸は胸をぐっと反らした。


「もちろんです。ご存分に二人をお使いください。」


「感謝する。」


再び頭を下げた武蔵が、大山崎に命じる。


「よし。俺が行くまで城門を固めよ。瓜生家の兵にも俺の命令を聞くように言っておけ。」


「かしこまりました。」


元気な声で答えた大山崎が勢いよく走り去って行った。

大山崎の若々しい姿に感化された沙魚丸も張り切って武蔵に言った。


「私もがんばります。さぁ、何でも言ってください。」


やる気満々の顔をした沙魚丸を見た武蔵は困った顔となり、ついで、言いにくそうに答えた。


「いや。お気持ちは嬉しいのですが、沙魚丸殿の御助成は結構です。」


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