山あり谷あり
沙魚丸がやらかしたこととは、言ってしまえば、権威を否定したのである。
西蓮寺家は幕府から国の統治を正式に任命された守護であるが、三日月家は悪党から身を起こし実力で支配地を広げていった小領主である。
武蔵の数代前の三日月家当主が主馬頭という官位を自称した際、当然ではあるが朝廷から任じらたわけではない。
後に鷹条家に服属するに当たり、鷹条家から主馬頭を名乗ることを許されるのだが、結果、三日月家の領国支配は正当性を得て、より一層堅固のものとなった。
要するに、三日月家は公的権力を無視して土地の占有者となったが、土地の支配をより確かなものにするために公的権威が必要となり、鷹条家の傘下に入ったとも言える。
権威をしたたかに利用しようとする武蔵にとって、権威の代理人として武蔵のもとに訪れた沙魚丸の発言は到底、聞き流せるものでは無かった。
例えるならば、豊臣家を滅ぼした後の徳川家康が外様藩の上屋敷へ出向き、陪臣を上座において、家康は下座で頭を下げるぐらいのことを沙魚丸はやらかしたのである。
ここに上位者が下位者に簡単に頭を下げてはいけない理由の一つがある。
権威が重要な世界で、守護職西蓮寺家と言う三日月家にとってはるか高みの権威を否定した沙魚丸のことを武蔵が怪しむのは当然なことであった。
とは言っても、沙魚丸にも同情すべき点はある。
21世紀の日本で一般庶民の家庭で育った沙魚丸は、マナーとして箸の持ち方ぐらいは厳しく指導されたが、上座が何なのかとか、お辞儀の仕方とかなど教わったことなど無い。
社会人になってから小さな会社で働き始めた沙魚丸は、社内で礼儀など気にすることなく仕事をしてきたし、他社の社長に会った時は、常に下座でにこにこと愛想よくしておけばよかったのである。
さらに、コロナウイルスによりオンラインでの打ち合わせになった結果、対面の際に必要な礼儀作法など沙魚丸の頭からはすっかり抜け落ちていたのだ。
とは言っても、この時代の人たちに沙魚丸の理由など関係ないのだが・・・
憮然とした武蔵の様子を見て、沙魚丸はどこかの領主が作った分国法を唐突に思い出す。
〈そうよね。席次を争って殺し合いをするなって法律にするぐらい席次が大事な時代なのよね。私ったら、言ってから思い出すなんてどうしようもないわね。ダメよ。落ち込むのも反省も、後、後。今はどう乗り切るかに集中しなくっちゃ。〉
沙魚丸の爆弾発言の後、立ちすくんでいた源之進と次五郎の思いは奇しくも同じであった。
〈沙魚丸様には、何かお考えがあるに違いない。〉
遠征中の沙魚丸は数々の失敗をしてきたように見えるが、結果的にはすべてうまくおさまっていた。
だからこそ、二人は武蔵が上座を譲ろうとしたのを沙魚丸が断ったのも何かしら意図があってのことなのだろうと解釈した。
いや、多分に希望を含めていいように解釈したかったのだ。
二人は沙魚丸の斜め後ろに大人しく座り、沙魚丸が武蔵をどのように口説き落とすのかを期待し祈るように見つめた。
視線を一身に集める沙魚丸の心の中は慌ただしい。
〈社長が交渉心得の条とか言ってたわね。何だったっけ。確か、交渉時に最も大事なことは交渉相手のことを好きになること、だったかしら。そりゃそうよね。不貞腐れた顔が前にいたらムカつくもんね。よし、私は武蔵さんが好き、好き、好きです。うん、暗示成功!〉
にっこり笑った沙魚丸に対して、何とも言えない冷ややかな笑顔を浮かべた武蔵が沙魚丸に尋ねた。
「それでは、西蓮寺様の書状をお見せいただきたいのですが・・・。」
沙魚丸はこれでもかと言うぐらい笑顔を保っていた。
本丸に来るまでの打ち合わせでは、源之進が武蔵との受け答えをすべてやってくれることになっていたのだ。
しかし、待てど暮らせど源之進が一言も話さない。
焦った沙魚丸は、おほん、と軽く咳払いをしてみた。
だが、期待の源之進は何も言わない。
〈源之進さん。どういうこと・・・。もしかして、私がやらかしたから呆れちゃったの。馬鹿な上司の尻ぬぐいなんて、ごめんだぜって思ったのかしら。その気持ちは、よく分かるわ。〉
などと、源之進に同情する沙魚丸だったが、武蔵に再び返事を促され覚悟を決めた。
〈オッケーよ。こうなれば、私がやり切ってあげようじゃないの。〉
念のために言うと、源之進も次五郎も沙魚丸を見捨てたとかではなくて、沙魚丸の邪魔をしないよう気を遣っただけなのだが・・・
「龍禅様は証拠を残すのを良しとされず、此度は書状を用意しておりません。」
沙魚丸の答えに武蔵は眉根を寄せた。
「なるほど。さも親し気に龍禅様とお呼びになるか。だが、西蓮寺様の書状はない・・・」
静かに呟いた武蔵は手にした木槌で鐘を叩きかけるが、〈待てよ。〉と手を止めた。
〈羽蔵は何をもってこいつらを信じたのだ。狂言だとしても、もう少し付き合ってやるか。〉
武蔵は沙魚丸に凄みのある笑顔を向けた。
「沙魚丸様は髪型からして元服前とお見受けする。そのような幼き方が、守護様の御使者として我が城へ前触れもなくふらりと現れ、しかも、上座と下座をどうでもいいと申される。某には沙魚丸様が西蓮寺様の御使者と名乗る狐か狸に思えて仕方が無いのです。」
沙魚丸がくすりと笑った。
〈まぁ、武蔵様は狐とか狸が人を化かすって思ってるのね。そっか、戦国時代だものね。〉
「これは失礼いたしました。私が上座をお断りしたのは簡単なことです。この離れの中は無礼講を望まれておいでなのだろう、と思ったからです。」
〈自分でも無茶苦茶言っている気がするけど、室町時代の武士は礼儀作法に疲れ切っていたって聞いたからこの論法でいけるはず。ここが茶室だったらな、とは思うけど・・・〉
沙魚丸の笑いに気を悪くしたのか、不機嫌な顔で武蔵が答える。
「そんなことは一言も申し上げておりませんが。」
「私たちが商人であることをご覧になって、開口一番に礼儀は無用と申されたではありませんか。それに酒の用意までしてくださっていることが何よりの証拠でございます。」
忌々しそうに口元を歪めた武蔵が焦れたように言った。
「流石に御使者を名乗るだけあって、受け答えが上手いですな。それでは、守護様の御使者と言う証を見せていただけませんか。」
「羽蔵様。こちらを武蔵様にお渡しいただけますか。」
沙魚丸は差していた脇差を羽蔵に渡した。
〈よーし。計算通り。今度こそ、水戸黄門作戦は成功するわ。仁平さんは龍禅様のことを知らなかったから失敗したけど、いくらなんでも武蔵様は知っているよね。〉
ドキドキしながら見つめる沙魚丸。
受け取った武蔵が、ためつすがめつ脇差を眺める。
顔を上げた武蔵が勝ち誇ったかのように沙魚丸に話す。
「確かに。西蓮寺家の家紋が入っておりますな。失礼を承知で申し上げるが、このような家紋は偽造も可能でありますし、これが証になるとは思えません。」
〈おいおい。その拵えを見て偽造は無いでしょう。前世なら鞘だけでも絶対に国宝展示級のお宝よ。やっぱり、修羅道を行く人は刃を見ないとダメなのかしら。〉
少し感情的になった沙魚丸がぴしりと言い返す。
「抜いてみれば、分かります。」
「それもそうですな。では、失礼して。」
笑顔が消えた沙魚丸を薄く笑った武蔵がすらりと脇差を抜いた。
武蔵は感嘆した。
青みを帯びた刃は、しっとりと濡れている。
しかも、血を吸った様子がない。
〈これは、名刀だ。いや、不殺の刀か。これほどの刀をただの子供が持つわけがあるまい・・・〉
惜しむように刃を鞘に戻した武蔵は沙魚丸に静かに頭を下げた。
「眼福ものでした。これほどの名刀、西蓮寺様に所縁のものに間違いございません。某の非礼をお許しください。」
沙魚丸はふふんと鼻を高くした。
〈分かればいいのよ。でも、私だって拝領してから一度も抜いてないのに。なんで、この人が先に抜くのよ。〉
少しばかり、いや相当に沙魚丸は悔しく思うのであった。
「そう言えば、付き添いのお二人のお名前を聞いておりませんでした。名をお教えいただけますか。」
武蔵は、源之進に顔を向けた。
「私は、千鳥ヶ淵源之進と申します。」
頭をすっと下げた源之進に対して、武蔵は愕然とした。
「千鳥ヶ淵と言えば、もしや、椎名に槍の源之進ありと言われる源之進殿か。」
「その通りです。」
源之進が当たり前のように頷くと、武蔵は身を前に乗り出し早口となって行く。
「これは驚いたな。まさか、源之進殿が我が城に参られる日が来るとは・・・。源之進殿には聞きたいことは山ほどあるが、先にもう御一方に名乗っていただこう。」
そう言った武蔵は、次五郎を見て首をかしげると羽蔵を見た。
「どこかで見たことがあると引っかかっていたのだが、羽蔵とそっくりではないか。貴殿は、瓜生家と何か関係があるのか。」
武蔵の言葉に次五郎がため息をついた。
「羽蔵の息子の五郎です。茄子家に養子に行ったとはいえ、武蔵様が私のことを覚えていらっしゃらないとは傷つきましたな。幼少の頃、武蔵様のお相手をあれほどしたというのに・・・」
泣く真似をする次五郎を武蔵は口をあんぐりと開けて見入った。
「えっ、お前、五郎なのか。あんなに愛らしかったのに影も形も無いではないか。いや、それにしても羽蔵そっくりだな。どれほどの美男子になるのかと思っていたが・・・。時の流れとは、かくも残酷なものなのか。」
相当な衝撃だったのか、武蔵は次五郎をしばらく食い入るように見つめた。
そして、大きくため息をついた武蔵は、沙魚丸に話しかける。
「さて、お手前はどこのどなたかお教え願えますか。椎名家と鷹条家の強者に守られた西蓮寺様の御使者を務める御方とはさぞや名のある御方なのでしょうな。期待に胸が膨らみますな。」
武蔵は表情から期待を隠そうともしない。
〈ふっふっふ。我が名を聞いて驚くな。〉
沙魚丸は胸を張って名乗りを上げた。
「私は椎名家三男の椎名沙魚丸と申します。」
「椎名の三男だぁ。」
吐き捨てるように言った武蔵の機嫌は見るからに最悪だった。




