沙魚丸の不敬
そこには、自ら作った涎の池があった。
何とも言えないねっとりした冷たさが踏み入れた足裏から伝わり、ハッと我に返る。
沙魚丸は何事も無かったかのようにすっと一歩後退すると、濡れた足裏を床にさりげなく擦りつけ、大きく開けっ放しになっていた口をおもむろに閉じると口元の涎を手の平で拭った。
その様子を何とも言えない顔で見ていた女神はボソリと呟いた。
「後で掃除するのは妾なんじゃからな。もう少し丁寧に扱って欲しいのう・・・」
女神の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか首をこてりと傾げる沙魚丸に女神はため息をついた。
「さて、ばっちぃ娘よ。そろそろ妾の言うことを聞いてくれるかの?」
疲れた声で話す女神に目を輝かせ沙魚丸は答える。
「はい、もちろんです。」
「では、改めてじゃが、妾は女神の秋夜叉姫じゃ。よろしくの。」
「よ、よ、よ、よろしくお願いいたします。私は沙魚丸と申します、しがない事務員でございます。」
既に女神の容姿の虜となっていた沙魚丸であるが、包み込むような優しい女神の美声に気づき、思わずひざまづいた。
「女神様。私は貴方様の下僕でございます。女神様に私の全てを捧げますので、どうかその麗しいお姿をお守りにさせてください。」
沙魚丸は女神に許可をもらうため、上着のポケットにしまったスマホを取り出そうと探すのだが、無い。
どこにも無い。
スマホではなくポケットが無い。
山城に行くために給料を少しずつ貯めたお金でようやく買ったオレンジ色の防水シェルジャケットではなく、襦袢を着ていることに沙魚丸はようやく気付く。
〈えええぇ、着替えさせられてる!もしかして、むかれちゃったの?これは貞操の危機というやつですか?
なんてこったぁ、あたしの初めては女神様ですか?
んーと、冷静に考えると、ヘタな男より、顔キレイ、髪キレイ、性格いいかは分かんないけど、多分いいはず、と全てが揃っている女神様の方が、いいんじゃない?いや、積極的にいくべきね。〉
沙魚丸は狼狽えつつ湧き出る涎を拭い不謹慎な目で女神を見上げた。
邪な光を発する沙魚丸の瞳に女神は嫌そうな顔をし、そっぽを向く。
「其の方が、何かふしだらなことを考えているのがヒシヒシと伝わってくるのじゃが、すべて違うと断言してやろう。それから、先ほども言ったが、口元の涎をしっかりと拭け。口をきちんと閉じろ。私を邪な目で見るな。」
マシンガンのように一息に話した女神は、更に言葉を重ねる。
「前の世界で神隠しにあった其の方の魂を妾がこちらの世界にもらい受けてきたのじゃ。ここまではよいかの?」
女神に邪な妄想が止まらない沙魚丸は、キリッと答える。
「すいません。聞いていませんでした。申し訳ないのですが、もう一回お願いします。」
「あぁぁぁ、こやつ切り捨ててやりたい。」
呻くように呟き、頭を抱え込んだ女神は、目を吊り上げて沙魚丸に向き直った。
「よいか、その腐った耳をかっぽじってしっかりと聞けい!其の方は神隠しに遭ってこちらの世界に転生したのじゃ。」
〈まぁ、女神様ったら、かっぽじってなんてお下品ですわ。でも、美女の下品な言葉づかいも尊いのね。あれ?何だか説明のセリフが短くなった気がするけど、まぁ、いっか。〉
女神の神経を逆撫でする言葉を沙魚丸はさらっと返す。
「全然、よくありません。神隠しって何ですか?こちらの世界とかって不思議ワード連発ですよ。というか、本当に女神様なのですね?」
眉をしかめた女神は、軽く腕を左右に振り空間から2つ床几を取り出し片方を沙魚丸に渡すと、力が抜けたように床几の上に宮座りをした。
「妾は疲れた。全くもって話が進まん。其の方、もちろん、神隠しぐらいは知っておるよな?」
疲れと呆れが入り混じった表情で問いかける女神に、少し考えたふりをした沙魚丸は胸をはって答える。
「女神様、いくら私でも神隠しぐらい知っていますよ。突然行方不明になることですよね。それよりも、最も問題なのは、なぜ私が神隠しされたのかということですね。」
見えるような鼻息を荒く立て、沙魚丸が自らの胸を叩く。
沙魚丸の名探偵気取りなウザイ話し方に少しイラっとした女神は、肩をすくめ沙魚丸に静かに語りかけた。
「たまたまじゃな。あやつは、神隠し用の神社を霧の中に出現させるんじゃ。普通はな、霧の中に忽然と現れた神社に入る人間はおらんらしい。そんな妖しい神社に平然と入ってきた人間を神隠ししても大丈夫か色々と演出を施すことで、返ってきた反応によって見極めると言っておった。で、其の方じゃが、賽銭が入らず本堂に飛んで行っても全く気にもせず社で拝んでおったそうじゃな。しかも、神にフランクに話しかけたりして。という訳でじゃな、其の方の屈強なメンタルなら何が起きても大丈夫とピッピーンと閃いたと言っておった。」
「いや、女神様にそんなに褒めてもらうなんて激しく光栄です。」
今の話のどこに褒めた部分があるのか不明だが、照れてモジモジしている沙魚丸を女神は横目で見ながら唇に手を当てた。
〈こやつ、本当にメンタル強者だな。こういう奴ほど長生きするんじゃよな。もっとも、転生の時にあちらの世界では死んでるけど・・・〉
フッと微笑むと女神は会話があまり成り立たない沙魚丸に諦め先を続ける。
「前の世界というのは、其の方が今まで谷沢結衣として生きておった世界。で、こちらの世界というのは、これから其の方が沙魚丸として生きていく世界。そして、この世界の神の一柱が妾じゃ。」
女神は会話に今一つ歯応えが感じられない。
なぜなら、沙魚丸は女神との遭遇をまだ現実のものととらえていないから。
霊視体験など一切ない沙魚丸だからこそ、沙魚丸は女神と会話をしている非現実的な行為は夢の中の出来事と考えている。
そんなことを考えているのだろうな、と呆けた顔を続ける沙魚丸の表情から鋭く読み取った女神はズバッと言い切る。
「瞳孔が開いているところ申し訳ないのだが、これは夢ではないからの。すべて現実。リアルじゃ!夢でないことを証明してやろう。」