搦手門
沙魚丸が突如として姿を消した山肌では、慌てふためく次五郎が周囲をきょろきょろと見渡している。
〈なんだ、何が起きたのだ。沙魚丸様が消えたのか・・・〉
もしかしたら、沙魚丸がいたずらで身を隠しているのではないかと疑った次五郎はススキを押しやって歩く。
「これか。」、と独り言を言った次五郎は足でススキを踏みつけた。
「沙魚丸様は、ここを滑り落ちて行ったようですな。」
次五郎が踏みつけたススキの奥にはぽっかりと穴が空いていて、麓までずっと続いているように見える。
「この穴は伐った木を下に落とす時にできた穴に見えるが・・・。しかし、こんな広いススキの原っぱにできた穴を滑り落ちていくとは沙魚丸様も運がいいのか悪いのか。」
そう言った次五郎はくっくっと笑い出す。
次五郎が沙魚丸のことを心配もせずに笑ったのには理由がある。
幼いころに山肌を滑り落ちる遊びを嫌と言うほどやった次五郎の経験からして、山肌をどんなに勢いよく滑り落ちたとしても、どこか途中で止まると知っていたからである。
次五郎は自らの体験だけで考えていたが、それが誤りであることを知る。
小雨の上に、沙魚丸が付けている蓑は大人用で大きく、ソリの様によく滑ることを考えていなかったことを・・・
どこか山肌で止まっているべき沙魚丸が宙を舞っているのを見た瞬間、次五郎は、「ええっ」と叫んだ。
自らの何とも間の抜けた声に恥ずかしくなって、冷静さを取り戻した次五郎はすぐに沙魚丸の危機への対応を取るべく動く。
「ご両人とも、急いで沙魚丸様のところへ向かいますぞ。」
左右の二人に声をかけ、その穴に飛び込もうとした次五郎だが、二人から返事が返ってこないことを不審に思い、さっと源之進の方へ顔を向けた。
源之進を見た次五郎の口から、「はぁっ?」と言う疑問の声が飛び出てしまう。
沙魚丸の一大事に一番しっかりしなければいけない男が呆然と立ちすくみ、何かをぶつぶつと呟いているからだ。
〈おいおい、源之進殿は一体全体どうしたと言うのだ。もしかして、針間殿もか。〉
針間の様子を確認しようと顔を向けた次五郎は目を見開いた。
沙魚丸と話す時以外は人形のような顔をしていた針間が、地面に座り込み泣いているのだ。
次五郎は錯乱状態の二人を残して沙魚丸のもとへ行くわけにもいかず、二人を何とかしようとすることに決めた。
とは言っても、次五郎ができることなど決まっているのだが・・・
「源之進殿。しっかりされよ。」
次五郎は思いっきり平手を源之進の頬へ飛ばした。
正気を取り戻した源之進は、次五郎の胸倉をつかむ勢いで尋ねる。
「沙魚丸様はご無事ですか。」
〈しまった。ちょっと強く叩きすぎた。気づいていないみたいだな。うん。このまま、行こう。〉
口から血を流している源之進から次五郎はそっと目をそらす。
「恐らく、ご無事です。ここの穴を滑り落ちて、あの草むらに落ちたのを見ました。」
「そうですか。それはよかった。では、急いで追いかけないと。」
急かす源之進に次五郎が何か言いにくそうにもじもじしながら答えた。
「針間殿もこのような状態なので、まずは正気になっていただかないと思ったのですが、俺はちょっと力加減がおかしいので・・・」
次五郎の言っている意味がよく分からず首を傾げた源之進だが、ただ事ならぬ様子の針間を見て合点がいった。
「申し訳ありません。すぐに活を入れます。」
針間に急ぎ張り手を食らわせようと手を振り上げた源之進は、気後れしたように手を止め、針間の顔をいたわるように見た。
〈そうだよな。お前が沙魚丸様にお会いするのも糀寺騒動以来だからな・・・。百合様がお亡くりになってから、感情が無くなっていたのに。戻ったのだな。〉
針間はもとから忍びではない。
酒井家の代々の家臣として仕え、名字もあった。
針間は源之進と同じく、沙魚丸の亡き母、百合を実の妹の様に可愛がっていた。
百合が非業の死を遂げた時、針間は役目のため遠方に出かけており、百合を救うことができなかった。
そのことが胸の奥に突き刺さったトゲのように、いつまでも針間を苦しめる。
針間は仮面を被ったように感情をあらわにせず、いつからか作り笑いを浮かべるだけになっていた。
一族郎党を支える立場の針間は常盤木家へ仕官が決まるのだが、常盤木家の力が増大するのを恐れた重臣たちが酒井家の旧臣を常盤木家が取り込むことに難色を示す。
そのため、忍びに身分を落とし針間と名を変え、雨情のために影働きをするようになった。
しかし、此度の任務で沙魚丸に会った針間はトゲが消えた気がした。
〈お前も沙魚丸様に百合様の面影を見たのだろう。お前がこれほど嬉しそうに笑ったのを見たのは、百合様がお亡くなりになって以来だな。私も同じだから分かる。沙魚丸様が急にいなくなって、百合様の死と重ね合わせてしまったのだよな。〉
源之進の考え通り、沙魚丸が死んだと勘違いした針間の胸の奥のトゲが暴れ、針間はすべての思考を停止させていた。
針間の気持ちを奮い立たせるべく源之進はあえて強く叩く。
「しっかりしろ。沙魚丸様は生きておいでだ。お前がしっかりせねば、また繰り返してしまうぞ。」
源之進は、自分に言い聞かせるように針間に叫んだ。
目に力が戻った針間は、源之進の肩をつかみ立ち上がった。
二人の記憶が無い間に何があったかを次五郎に告げられ、針間は次五郎に詫びた。
〈二人がここまで正気を失うとは・・・。何か重たい理由があるのだろうが、聞かない方がいいだろうな。いつか、酒を呑みながら笑い話で教えてくれるのがいいな。〉
次五郎は手をかざし、二人を急かす。
「沙魚丸様が見廻りの兵らしき男たちに囲まれましたな。さぁ、急ぎましょう。」
◆◆◆
どさっ!
沙魚丸が落ちた先は運よく、草むらだった。
「いったぁ。」
草むらから這い出た沙魚丸は体のあちこちを触ってみるが、大きな怪我はしていないようだった。
〈助かったぁ。〉
ほっとしたのもつかの間。
「おい、お前、そこで何をしている。」
五名ほどの兵が沙魚丸に槍を突きつけている。
〈おっとぉ、一難去ってまた一難。さて、どうしましょう。すぐに殺すのではなくて、話は聞いてくれそうね。〉
「人に名前を尋ねる時は、自分の名前を言うものでしょう。」
したり顔で言う沙魚丸だったが、兵はキレた。
「馬鹿か、お前は。俺たちは城に近づく怪しい奴がいないか、こうやって見廻りをしているんだ。お前みたいな怪しい奴に名乗るわけがないだろう。面倒だ、殺すか。」
五人の親玉と思われる兵が周の兵に言うと、残りの兵がうんうんと頷く。
〈初手からやらかしたぁ。でも、見廻りってことは三日月家の人ってことよね。鷹条の人でなくって、よかった。〉
安堵のため息をついた沙魚丸の手に当たったものがあった。
〈これよ。さすが、小次郎さん。やっぱり、私のことをよく分かってるわね。〉
「まぁ、聞きなさい。私を殺すと皆さんはきっと困ることになりますよ。」
「うるせぇ。ガキのくせに偉そうな口の利き方をしやがって。むかつくんだよ、てめえのようなガキは。」
〈あぁ、この人、私と全く肌が合わないのね。のんびりしてる場合じゃないわ。〉
「これを見なさい。」
じゃーん、とばかりに沙魚丸が取り出したのは、龍禅からもらった脇差、その名も『蓮華一文字』だった。
「なんだ、その脇差がどうかしたのか。」
胡散臭いものでも見るかのように兵たちは毒づき始める。
〈もうっ、少しは人の話を聞きなさいよ。大人のくせに、短気なんだから。〉
心の中で憤りながらも、沙魚丸は優しい声で話す。
「ここに西連寺家の家紋が入っているでしょ。つまり、私は西連寺家の密使として三日月家に来たのよ。」
「さいれんじけぇ、ってなんだ。そんな家紋も見たことがねぇよ。」
兵が吐き捨てるように言った。
〈ええっ。龍禅様って有名じゃないの・・・。これは予想外だわ。水戸黄門作戦はおじゃんだし、どうしよう。〉
「大体、密使をお前みたいな糞生意気なガキにやらせるって言うのがおかしいんだよ。」
〈糞生意気って、初めて言われたわね。この人はきっと天敵よ。こんな分からず屋を相手にするだけ時間の無駄だけど何とかしなきゃね。〉
沙魚丸は覚悟を決めた。
「子供だからこそ、そんな重要な役をしているとは思わないでしょう。」
「まぁ、そうとも言えるが・・・」
〈よし。きたぁ。論破したわ。〉
沙魚丸は、こっそりぐっと拳を握る。
「だが、一人ってのがおかしいだろう。」
〈ふふふ。その質問は、すでに想定済みよ。〉
「私には護衛がいるのです。」
「いねぇじゃねぇか。いるなら早く連れて来いよ。」
「いいでしょう。さぁ、出てきてください。皆さん。」
沙魚丸は思いっきり腕を広げて、後ろを振り向いた。
だが、誰も出てこなかった。
〈えっ、何で。山肌を滑った私を追いかけて来てくれたんじゃないの・・・。うそよ。〉
「はーい、皆さん。もうそろそろ出て来ていいですよ。」
沙魚丸は手を振るが、赤とんぼが宙を軽やかに舞うだけで、人は誰も出てこない。
ポンと妙に優しく沙魚丸の肩を兵の親玉が叩いた。
「まぁ、そういうこともあるよな。あんまり気を落とすなよ。捨てる神あれば拾う神もあるさ。」
さっきまで沙魚丸を警戒し疑っていた兵たちが沙魚丸に憐憫の目を向けている。
「いや、違うから。ちゃんといるから。ちょっとした手違いなの。」
沙魚丸が必死に訴えれば訴えるほど、兵たちが優しくなっていく。
「よく見れば、お前、怪我してるじゃないか。手当してやるから、ついてこい。」
「坊主、腹減ってるんだろ。これでも食え。」
「ありがと・・・」
気がつけば沙魚丸は兵たちの優しさに涙ぐんでいた。
「よし、坊主。お前はそこを飛び越えて来たみたいだが、どうやったんだ。」
「あの上から滑り落ちてきたら、勢いがついていて飛び越えたのかな。」
沙魚丸は山肌を指さすが、どうやって飛び越えたかは自分でも今一つ分からない。
「坊主、そこをよく見ろ。お前が飛び越えたところはな、崖になっているんだ。飛び越えなかったら、今ごろお前は崖下でお陀仏だったな。」
兵のお頭が言うと、周りの兵がどっと笑った。
〈うわ、ほんとだ。ここからだと下が見えないわね。私って、やっぱりもってるよね。〉
自らの運の良さに鼻を膨らます沙魚丸に兵の親玉が話を続ける。
「だから、お前の護衛が後ろから登場するなんてことは無理なんだよ。」
兵たちは腹を抱えて笑い出す。
〈こいつらぁ。最初っから、私をからかっていたのね。隙を見てやっつけてやるのは・・・、無理よね。源之進さんたちに説教してもらおう。〉
ニンマリ笑う沙魚丸に兵の親玉が言う。
「とりあえず、俺たちについてこい。もしかしたら、お前の護衛に会えるかもしれないしな。」
「それは助かります。よろしくお願いします。」
「それでだ、お前はどこに行こうとしていたんだ。」
「搦手門に行こうとしていました。」
「そうか、そうか。じゃぁ、俺たちと一緒に搦手門に行くか。」
〈何よ、この人、凄くいい人じゃない。男は顔じゃないって言うけど、その通りなのね。よかった、この人と一緒に行けば、みんなに会えるわね。〉
ほっとした沙魚丸は男たちと歩き出す。
「ところで、お前の護衛は何人いるんだ。」
三人と、言いかけて沙魚丸は口をつぐんだ。
〈針間さんは、忍びよね。私の知っている忍びは正体を知られず生きる影の者だから、人前に出るのはご法度よね。うーん、どうしよう。はったりをかませて十人とか言っちゃう。〉
「二人ですよ。」
「まぁ、そんなもんだろうな。十人とか言ったら、密使とは思えないよな。」
兵の親玉に言われて、沙魚丸は笑顔を返した。
〈よかった。十人って言わなくて・・・〉
搦手門が見えてきた。
〈おぉ、あれが搦手門なのね。まぁ、ちっちゃくてかわいい薬医門。木の柵でぐるりと囲っているわ。それにしても、しっかりした本柱を使っているのね。男のロマンね。〉
沙魚丸が薬医門にうっとりしていると、二人の男が草むらから飛び出してきた。
「沙魚丸様、ご無事でしたか。」
源之進と次五郎が息を荒げて言った。
「この人たちのお陰で全然平気ですよ。」
沙魚丸の明るい声に、源之進は大きく安堵する。
兵の親玉に礼を言おうと、一歩前に出た源之進に兵の親玉が槍を突きつけた。
「はっはっは。よし、お前たち。刀を捨てて、大人しくしてもらおうか。」
兵の親玉が勝ち誇ったように源之進たちに叫んだ。




