忍び兄妹
槍組頭の内畑雷は山を駆け降りていた。
道なき道を獣のように疾走する二郎の背中を内畑は必死で追いかける。
降り続く小雨は、生い茂る木々の葉に阻まれ山肌を濡らすに至っていない。
それにも拘わらず、配下の一人が踏んだ草に足を滑らせ、斜面を転がり落ちて行く。
内畑は手を伸ばすが届かない。
「ちくしょう!」
内畑が叫び終わる前に、およそ人とは思えない動きを取った二郎が転落しつつある配下を助けた。
やれやれ、と言いたげに首を横に振った二郎が内畑に問いかける。
「もう少し、速度を落とそうか。」
内畑は五十名の足軽を率い、この辺りを熟知しているから連れて行けと雨情に言われた二郎を先導役として街道に出るべく山を下っている。
〈こいつの言う通り速度を落とすべきか。〉
雨情から与えられた任務を内畑は思い出す。
〈雨情様の命令は、鷹条が示した道順通りに椎名軍が進んでいると誤認させること。その狙いは、椎名軍が依然として鷹条の計略に騙されていると思わせ、鷹条の兵を油断させた上に、椎名軍を探させないことにある。そのためには、少しでも早く山を降り街道へ出て、隊列を組まなくては。〉
そこまで考えた内畑は、二郎をじっと見る。
〈こいつの仲間による調べでは、鷹条軍が何か動き始めたらしい。こいつぐらいの腕利きの忍びが鷹条にいると考えた方がいいのでは・・・。〉
もしかしたら全て鷹条の術中なのでは、と内畑の心に一抹の不安がよぎる。
「おい。余計なことを考えるな。」
二郎が内畑の胸を小突いた。
我に返った内畑が自嘲する。
〈今は雨情様の命令に従わなくてはいかんのに、何を考えているのだ。〉
首を横に数回振った内畑は、二郎を見て笑った。
「すまん、お前の言う通りだ。」
内畑は、何をすべきか考える。
鷹条軍を慢心させるためには、少しでも早く山を降りなければならない。
今のところ、内畑の配下に大きな怪我を負った者はいない。
と言うよりは、二郎がすんでのところで助けてくれているお陰でと言った方がいいだろう。
〈出会いは最悪だったが、優秀な男だ。沙魚丸様が忍びにも関わらず三人を士分に取り立てるわけだ。実際に会ったのも女忍者だけだと言うから、噂に聞く奇行が始まったのかと思ったが、どうしてどうして・・・〉
そこまで考えて、内畑の頭の中で突然腑に落ちた。
「いや、このままの速度で頼む。数名なら脱落してもかまわない。」
強い言葉を発した内畑に二郎はわずかに目を細めた。
幸いにも、脱落する者は一人もいないまま街道近くにまで山を降りた一行に対して二郎が待ての合図を出す。
「俺はこの辺りの様子を見て来るから、待っていてくれ。」
静かに頷いた内畑をちらりと見た二郎が身を隠している草むらから街道へと出て行った。
内畑は二郎の腕についた縄の跡を見て思い出し笑いをする。
〈あれは、悪いことをしたな。戦が終わったら謝るとするか。〉
二郎が去って間もなくして、草むらがガサガサと音を立てる。
内畑たちは身構えるが、姿を現したのは二郎だった。
「ずっと先に鷹条の物見を見つけた。今すぐに街道に出れば、行軍している姿を勝手に発見してくれるだろう。」
「分かった。お前たちは、急いで街道へ出ろ。」
内畑の命令に全員が街道へと出て、いかにも行軍しているふりを始める。
「物見とすぐに分かるものなのか。」
不思議に思った内畑が聞いた。
「一目で物見と分かる格好をしている忍びなど、聞いたことが無い。」
疑いの眼差しを向ける内畑に二郎はニヤリと笑った。
「あんたたちは運がいい。鷹条で忍びとして働いているのを見たことがある男だった。忍びとしては、半人前だ。随分と怯えた様子だったから、旗を多めに立てておけば、あんたたちの五十の兵を百とも二百とも見間違えるかもしれん。」
「そうか。それは凄く運がいいな。しかし、半人前を物見に使う理由が分からんな。何か裏があるとかではないのか。」
「あんた、相当に捻くれているのだな。鷹条家が半人前を使う理由など、金に決まっているだろう。あいつら、物見は誰にでもできると思ってるから、そんな仕事をする忍びにたくさんの金を使うのが嫌なのさ。」
「そうだった、そうだった。鷹条の殿様は吝嗇で有名だった。」
二人は声を殺して笑った。
◆◆◆
山を降り鷹条軍へと向かう四葩はどうにも釈然としなかった。
愛すべき沙魚丸から引き離され、雨情の命令を実行することになった経緯を思い出し、四葩は思わず悲痛な声を上げた。
〈あたしの馬鹿。沙魚丸様があたしの手を握りしめて『お願い』って言うから、二つ返事で引き受けるなんて・・・。〉
四葩はとぼとぼと歩く。
軽いはずの雨情に持たされた荷物が妙に重たく感じる。
何度も何度もため息をつく内に、素晴らしい考えが閃いた。
〈さっさとこんな任務を終わらせて、沙魚丸様のところに行けばいいのよ。〉
とてつもなく優れた考えだわ、と四葩の足取りは軽くなった。
鷹条軍の前まで来て、どうやって潜りこもうかと少し考えたが、スタスタと歩き出した。
〈こそこそする方が逆に怪しまれる。〉
大木村の者だと告げると鷹条軍の見張りはすんなり通してくれた。
想像以上に警戒が緩いことに四葩は驚く。
陣中を歩く内に、女だと見て取った足軽の中でも特に質が悪そうな者たちが執拗にちょっかいをかけてくる。
〈もう、面倒くさいわね。こいつら一匹残らず駆除しようかしら。〉
にんまり笑いかけた四葩の胸に沙魚丸の凛々しい姿が浮かぶ。
〈ダメよ、あたし。こんなところで騒動を起こしたら、沙魚丸様にご迷惑をおかけしてしまうわ。〉
四葩は沙魚丸のために皆殺しにするのを泣く泣く諦めた。
その躊躇する様子が彼らの嗜虐性をしてしまったのか、さかりのついたサルのような顔で近づいて来る男たちを見て四葩は諦めた。
〈仕方ない。少し相手をして適当に眠らせるか。〉
「花。待ってたぞ。こっちだ。」
ぬっと現れた四葩の兄一郎が、性獣と化した兵をまるっと無視して、花の腕をつかんだ。
獲物を持って行かれそうになった性獣たちは、歯をむき出しにして一郎に食ってかかる。
「その女は俺たちのもんだ。後から来て邪魔すんじゃねぇ。」
四葩は心の底から大きなため息をついた。
〈私は沙魚丸様に身を捧げたのに、なんてお馬鹿なおさるさんたちなのかしら・・・。そうだ。いいものがあったわ。〉
「ごめんよ、おさむらいさん。おら、この人と約束があったのを忘れてただ。早く行かねぇと、軍奉行の清水様が激怒なさるだ。また、遊ぼうよ。」
四葩が言った軍奉行と言う言葉に彼らの猛り狂った性欲が一気に萎える。
「軍奉行様の御用ってんなら仕方ねえな。今日は勘弁しといてやらぁ。」
〈おやおやまぁまぁ、言動も行動も何から何までほんとに三下の中の三下ね。〉
四葩は懐から出した物を足軽たちに笑顔で差し出す。
「お詫びに、これ食べておくれ。おいしいからさ。」
差し出された餅を彼らは奇声を上げて四葩からひったくるように奪うと、飛び跳ねて去って行った。
「花。お前、あれ、大丈夫なのか。」
「死にはしないよ。下痢が止まらなくなるだけだよ。それより、雨情様から命令。早くみんなの所へ案内して。それから、あたしは四葩って言うの。花じゃないから。」
さっきまで知恵の足りなそうな農婦を演じていたのに、きびきびと話す四葩に一郎は苦笑する。
「こっちだ。」
歩きながら四葩は雨情から預かった荷物を一郎に渡した。
「軽いな。中身を聞いてもいいか。」
「椎名家の旗印が入ってる。」
四葩は雨情に言われたことを話し始めた。
「二郎兄者は足軽を案内して街道へ向かったわ。鷹条軍は山の上から麓へと陣替えをしたって聞いたけど、間違いないの。」
「仔細は分からんが、いきなり陣替えの命令があって、大騒動だったらしい。」
頷いた四葩が荷物に手を置いた。
「あっちの山から狼煙が上がったら、陣中に火を付けろって。この旗印を山の陣跡に立てたら、後は潜伏し決して出て来るな、と言う命令よ。」
「火を使うのか。これぐらいの小雨ならどうってことはないが・・・。兵糧はどうするのだ。奪わんでいいのか。」
手の指をバキバキと鳴らす一郎の腕を四葩は思いっきりはたいた。
「兄者。その癖は体に悪いと何回言ったら分かるの。いい加減、やめなさい。兵糧は全部燃やして。ここにあるものは一切合切燃やして。」
キレ気味に話す四葩にしょげこんだ一郎は答えた。
「分かったから、そう怒るな。燃やすのはいいのだが、俺たちは戦わなくて良いのか。」
「鷹条の兵と間違えるかもしれないし、何より沙魚丸様に会う前に死ぬのも辛いだろうってさ。椎名家は鷹条と比べて優しいよね。」
「鷹条みたいな底辺と比べるのは、どうかとも思うが・・・。お前がそこまで変わった原因の御方に早く会いたいな。よし。皆と必ず生き延びて、沙魚丸様にお会いしよう。」
「ところで、狼煙が上がらない場合はどうするのだ。」
一郎の質問に四葩がきっと目を吊り上げた。
「そんなことはあり得ない。絶対に上がる。」
妹の様子に少し首をかしげた一郎は、四葩の背中を軽く叩いた。
一ヶ所に集まっていた大木村の者たちに一郎は作戦を告げ、どう動くかを話し合い決めた。
そして、彼らは狼煙が上がるのを今か今かと待つのだった。




