沙魚丸に決定
次五郎は楽しんでいるが、他の者は龍禅をどう説得すれば、このはた迷惑な思い付きをやめてくれるだろうかと考えている。
もちろん、雨情にしても同じことだ。
次五郎が考えるように、龍禅が沙魚丸の烏帽子親を務めれば、確かにメリットはある。
だが、デメリットが大きすぎる。
沙魚丸には、腹違いの兄が二人いる。
長兄の菖蒲丸は龍禅が烏帽子親となり、龍の字を拝領し龍久と名乗っている。
次男の桔梗丸は、落馬で負った怪我により僧となることを提案されたが、母である正室の茜御前が猛反対を続けているため、今のところ有耶無耶になっている。
そのため、桔梗丸を差し置いて沙魚丸の烏帽子親を龍禅が務めるようなことになれば、鬼と変じた茜御前により領内は修羅場と化すだろう。
その様子を思い浮かべた雨情は、思わず身震いする。
〈沙魚丸が茜に殺されるだけなら問題は無いのだが・・・〉
雨情は嘆息する。
龍禅のお気に入りとなってしまった沙魚丸を害そうものなら、怒った龍禅の命令一下で鷹条だけでなく国内の有力な国衆、いや、最悪の場合、近隣の国々からも機会到来とばかりに椎名の領国を侵し略奪を始めることが予想できる。
その危機に椎名の者たちが一致団結して対抗できるかと言えば、
〈無理だな。〉
と、雨情は深いため息を吐く。
糀寺騒動後、椎名家の統治は今一つの感がある。
そのため、国内で不平や不満を抱える者たちが敵へ内通する恐れが十二分にある。
加害者は実にあっさりと忘れるが、被害を受けた者たちがあっさりと恨みや怒りを忘れることはない。
表面的には平静を装ったとしても、何らかのきっかけをつかまえて、彼らの不満はいつでも爆発する。
ほんの少し考えただけで、これほど頭が痛くなるのだ。
より深く考えれば、精神を保っていられる自信がない。
雨情は覚悟を決める。
「龍禅様。しばしお待ちください。」
龍禅は笑顔を絶やすことなく、雨情を見つめる。
「どうしたのだ、雨情。其の方も嬉しかろう。龍久の烏帽子親に続いてだからな。椎名を随分と優遇してしまうが、余のかわいい沙魚丸のためであるから仕方ないのう。」
〈龍禅様は、やはり、全て分かっていて申されておるな。この笑顔が白々しくて、余計に腹が立つ。この方としても、我ら守護代の力を削ごうと努力なされているのだろうが、我らとしても座して死を待つわけにもいかん。とりあえず、国に戻ったら龍禅様のことを相談せんといかんな。〉
雨情はまたしても大きなため息をつきそうになる自分を戒める。
床几から地面に平伏し雨情は嘆願する。
「椎名の家にだけ龍禅様から破格な厚遇を受けるなど恐れ多きことにございます。我ら西蓮寺家に仕える守護代は、昔から守護家より烏帽子親になっていただいておりますが、その栄誉を受けることができるのは嫡男一人でございました。なにとぞ、ご高察をお願いいたします。」
ニコニコと雨情の言うことを聞いていた龍禅だが、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「そちも随分といやらしい言い方をするのう。確かに余は、正式な守護ではないからな。」
雨情は額づいたまま、何も言わない。
「まぁ、よい。興も冷めたことであるし、そちの言うことももっともだ。だが、ここで引き下がるのも雨情の言うことを認めたようで、余としては癪ではある。」
そう言って、龍禅は目をつぶり考え込む。
龍禅が何を言い出すのか誰もが固唾を呑んで見守っていると、龍禅がゆっくりと目を開けた。
「代わりと言っては何だが、余が沙魚丸の家紋を考えてやろう。それならば、守護だの本家だのと言った話にはならないであろう。」
龍禅の話に雨情は頭を捻った。
〈家紋を考えると仰せになったが、考えるとは、どういう意味なのだ?〉
「考えるとは、どういう意味なのかお教え願えませんでしょうか。」
雨情が恐る恐る尋ねる。
「言葉通りの意味である。余が、沙魚丸の家紋の意匠を考えてやると言ったのだ。何も問題ないであろう。」
「恐れながら、考えると仰せられますが、沙魚丸は庶子にございます。しかも、元服もしておりません。この先、沙魚丸が、どのような立場となるか何も決まっておりませんが、どうあがいても沙魚丸は龍禅様にとって陪臣でしかございません。龍禅様に家紋をお選びいただくなど、沙魚丸には分不相応でございます。」
雨情が必死で訴える。
沙魚丸は感動した。
〈叔父上が、ここまで私のことを考えていてくれるなんて。私は叔父上のことを誤解してました。これから、ちょっとだけ優しくしてあげます。〉
龍禅は哄笑する。
「何を言うかと思えば・・・其の方、沙魚丸を元服前と繰り返し言っておるが、その元服前の者を大将として連れてきておるのは、どこの誰なのだ。それに加えて、分不相応な庶子を主君である我が前に何の断りもなく堂々と披露しておる馬鹿者を余はどうすればよいのだ。」
雨情の全身から汗が吹き出る。
「申し訳ございません。そのような意図はまったくございません。沙魚丸を大将として・・・」
雨情の言い訳を龍禅が待ったをかける。
「待て待て。雨情よ。そのことはどうでも良い。沙魚丸に免じて許してやろう。それほど、今日の余は気分がよいのだ。それに、余は考えると言ったのだ。選ぶとは言っておらん。沙魚丸の身分のことなど百も承知だ。余は守護として家紋を授けるつもりはないし、格式など関係ない家紋にすればよい。誰も使っておらん家紋を余が直々に考えてやるのだ。今までにない家紋を創るのじゃ。分かるか?雨情。」
「はっ、いや、それはよろしいのでしょうか。浅学の身ゆえ、主君に新たな家紋を一からお考えいただくなど聞いたことがございません。椎名の者は、田舎侍ばかりゆえ新しきことを受け入れるのが難しき地にございます。なにとぞ、今一度お考え直しを。」
「そうじゃな。確かに、雨情は浅学であるな。」
ニヤリと龍禅は笑う。
「椎名の家紋は、何か申してみよ。」
「月に千鳥にございます。」
「そうじゃ。我が西蓮寺家の家紋は千鳥。我が先祖は、月明かりの夜に襲撃者から椎名の者に一命を助けられたことがある。それを賞して、我が家の千鳥に月を加え、椎名にお渡しになったのだ。当然、知っておろうな。」
「いえ、初めて聞く話でございます。」
龍禅は肩をすくめる。
「恩に着せる方は覚えておるが、着せられた方はさっさと忘れる。それも仕方あるまい。もうずーっと遠い昔の話だからな。それより、このような先例があるのだ。椎名の者であるなら、誰も反対できんぞ。どんな田舎者であろうとな。」
「仰せのことは分かります。されど・・・」
「雨情。話には続きがある。この家紋には、今宵の月夜を忘れずいつまでも我が家を守れという意味が込められておる。椎名の子孫たちは、意図した方向から逸脱してしまったようだがな。」
龍禅は高らかに笑い、平伏する雨情をじっと見る。
「だんまりか。まぁ、良い。昔は主君が家臣の家紋を考え、授けるのはよくあったことだ。今は、昔からある家紋を少しいじる程度になってしまったが、余が沙魚丸に授けるのは違う。余の独創である。楽しみにしておれよ、沙魚丸。」
〈えっ、ここで私に言うの。叔父上と話してたでしょ。叔父上も何ちらちらとこっち見てるのよ。ちょっと、何その目。あっ、私にかぶせる気ね。ちょっと、次五郎さんも何でこっちを見てるの。まったく、どいつもこいつも大人ってやつは・・・〉
平伏していなければいけない次五郎は、背筋をまっすぐに伸ばし、龍禅が次にどんな無茶を言いだすのか楽しくて仕方がない顔をしている。
「龍禅様。今から楽しみで眠れなくなりそうです。龍禅様からいただいた家紋を掲げて、戦場を闊歩するのが待ち遠しい限りです。」
ツヤツヤした顔を作り沙魚丸はにこやかに笑う。
前世での沙魚丸の得意技は、笑顔だった。
〈新入社員時代に、社長から笑顔を制す者は、大体を制すって言われて、素直に練習してきたけど、良かった。社長、役に立ちましたよ。命の危機を回避できそうです。〉
「あっはっは。本当にそちはかわいいやつじゃ。そうだ。そちは、元服しても沙魚丸と言う名を変えてはいかん。よいな。」
「はい?」
「余の記憶が正しければ、魚紋は無いはずじゃ。どうだ、じい」
「はい。私も見たことも聞いたこともございません。」
「そうであろう。誰か魚紋を知っている者はおるか?」
全員、黙って首を振る。
鼻高々と龍禅は沙魚丸に言う。
「うむ、やはり、余は天才だ。そちの家紋はハゼの意匠とする。よって、元服しても沙魚丸と言う名を変えてはならん。」
横に控えている次五郎は、ぶるぶると震えて笑いを必死で堪えている。
〈沙魚丸で決定か。しかし、元服後も沙魚丸って、弱そうだな。それに、家紋までハゼなのか。せめて、めで鯛とか登竜門の鯉とか、運を呼び込む魚も色々あるだろうに、よりにもよってハゼかぁ。いやぁ、今日は本当に楽しい日だ。この小僧も面白いし、周りでも面白いことが起きて、実に楽しい。〉
呆然とする沙魚丸を横目で見ながら、龍禅はきびきびと言う。
「よいな。雨情、そちが証人じゃ。誰が烏帽子親になるか知らんが、これは決定である。」
「はっ、しかと承りました。」
〈まぁ、沙魚丸の名ぐらいで済んでよかった。〉
雨情はホッと胸をなでおろした。




