戦神降臨
矢が地面に落ちた時、静寂が訪れた。
一人として言葉を発する者はいない。
人は大きな感動を受けると言葉を失うと言う。
まさしく、誰もが言葉を失っていた。
次五郎の矢を一本でも受けることができれば、多くの武将から敬意を示されるだろう。
だと言うのに、幼き沙魚丸は、少なくとも二本の矢を受けきった。
椎名家の若様だから、次五郎が手心を加えたとは思えない矢の強さだった。
この儀を見ていた誰もが、もし自分であれば間違いなく射抜かれていただろうと思う猛烈な矢だった。
そんな静けさを一人の少年の声が打ち破る。
「沙魚丸様!」
声の主は、小次郎だった。
小次郎は、沙魚丸を送り出してから、ずっと亡き沙魚丸に祈っていた。
野営地で沙魚丸に忠誠を誓った小次郎だったが、少なからず迷いが残っていた。
〈本当にこの人に沙魚丸様は、思いを託したのか。〉
小次郎は亡き沙魚丸から直に聞いていないのだ。
だから、この『矢つかみの儀』に賭けた。
正直なところ、亡き沙魚丸であっても、次五郎の矢を叩き落すことなど無理だと小次郎は思っていた。
しかも、三本など笑うしかない。
だが、女神の神託を受け、亡き沙魚丸の意思を継いだ今の沙魚丸なら多少の傷は受けるにしても生きて戻って来るだろうと信じた。
小次郎は今の沙魚丸が本当に自分の命を捧げるに値するのかを賭けることにした。
〈これであれが死ぬようなら、それまでのことだ。もし、あれが死ねば、この場で潔く腹を切ればいいだけだ。〉
小次郎はあっさりと割り切る。
一度は主君と誓った相手を疑い、賭けの対象とするのだ。
己にもそれなりの代償が必要なのは当然だ。
〈難しいことは、よく分からない。〉
自らの命を差し出せばよいだけだ、と小次郎は単純に考えた。
だからこそ、小次郎は驚愕した。
あの次五郎に三本も射られて、無傷なのだ。
小次郎は、満面の笑みと共に沙魚丸の元へ駆け寄る。
〈女神様のご神託のことも、沙魚丸様が枕元に立たれたこともすべて夢ではなかった。やはり、この方を私の主とするのが亡き沙魚丸様のご意思なのだ。もう迷いはない。私は、この方のために生きよう。〉
小次郎が歓喜の声を上げ、沙魚丸に跪いたのを見た者たちは、ようやく正気に返った。
呆気に取られていた者たちはざわめき始める。
そして、沙魚丸を称える声が次々と広がる。
水面に落ちた水滴が描く波紋のように、周りへ賞賛の声が広がっていく。
椎名の者たちは、今までろくな噂が無かった沙魚丸が成し遂げた快挙に驚き、戸惑った後に。
鷹条の者たちは賭けていたことすら忘れるほどの衝撃を受けた。
そもそも、沙魚丸が勝つなどと誰も思っていなかった。
彼らのほとんどは、沙魚丸のどこに矢が刺さるかを賭けていたのだ。
沙魚丸が勝つ方に賭けた者がいたとしても、冗談で賭けていただけなのだ。
次五郎の実力を知っているからこそ、彼らは鷹条にこの人ありと恐れられている茄子次郎五郎の弓を防いだ沙魚丸を賛美する。
彼らの興奮は止まるところを知らない。
人知を超える出来事は、神仏による御業と考えられている時代。
『矢つかみの儀』という戦神に捧げる儀式で、彼らははっきりと目にしたのだ。
神風が吹き、沙魚丸を助けたことを。
この場にいる者たちは、取り憑かれたように腰に差した刀を抜き、天高く突き上げ叫ぶ。
「戦神降臨!」
「戦神降臨!」
声は、天へ届くように高まり、大きくなっていく。
「戦神降臨!」
青く澄んだ空に彼らの声が響き渡る。
彼らは、沙魚丸に戦神が加護を与えたと確信し叫ぶ。
戦で負けたいと思う者はいない。
いや、正しくは、死にたくないと言う方がいいのかもしれない。
そんな者たちの目の前に戦神の加護を持つ少年が現れたのだ。
彼らは、少年の加護にあやかろうと沙魚丸を囲み、刀を突き立て力の限り叫ぶ。
ある意味、狂気の集団に囲まれた沙魚丸は、戸惑っていた。
本人としては、何もしていないのだ。
体が勝手に動き、一本目の矢を刀の頭で受けたと思ったら、万歳みたいなカッコになったのは覚えている。
その後は、覚えていない、と言うより何も知らない。
〈頭がズキズキして、痛いのはなぜ?〉
沙魚丸は兜の上から触ってみると、へこみができている。
〈この兜は確か、中古だったっけ・・・〉
と、記憶をたどろうとした時に、小次郎が駆け寄って来た。
とても嬉しそうである。
思わず、大きくフリフリする尻尾が見えるほどに・・・
沙魚丸は、子犬のような目をして沙魚丸を見上げる小次郎の頭を撫でたくなったが、必死の思いでこらえた。
小次郎が凄い勢いで話しているが、早口過ぎてよく分からない。
〈なんか、キャラが変わってる?〉
どうしたんだろうと悩む沙魚丸に、声がかかる。
「沙魚丸様。まさか、ご存命とは恐れ入りました。」
声の主を見た沙魚丸は、ニッコリと笑いかける。
「だから、言ったでしょう。あなたのヘロヘロ弓は叩き落すと。」
「それは、どうですかなぁ。俺としては叩き落された気はあまりしていないのですが・・・まっ、それを言うのは負け惜しみですな。今回は私の負けです。何なりとお申し付けください。」
次五郎が楽しそうに話す。
「そうですね。じゃぁ、今度、弓を教えてください。ここにいる私の小姓、小次郎と一緒に。」
小次郎がわたわたとして、何か言っているがちょっと無視する。
「それは、永久にと言うことですか?」
次五郎が興味深そうに聞いて来る。
〈何、この人。私は、男なのよ。なんで、結婚するみたいなこと言っているの?〉
即座にあなたはタイプではありませんと返事をしようとした沙魚丸は、言葉を止める。
茄子旭が音もなく次五郎の横に来ていたのだ。
旭は、沙魚丸に微笑む。
「沙魚丸様、おめでとうございます。兄様にも仕留められない強者がいらっしゃいましたことに旭はとても感動しております。ぜひ、この後すぐに旭と手合わせをいたしませんか。」
「おい、旭。余計なことを言うな。沙魚丸様は、俺が唾をつけたのだ。お前にはやらん。」
次五郎が旭の顔すら見ずに冷たく言い放つ横で、沙魚丸がよろめく。
〈唾って、何。この人、もしかして、変態なのかしら。早くお断りしないと。〉
沙魚丸は口を開こうとすると、旭がまたもや話を始める。
「まぁ、兄様は本当にケチですわね。そんなことだから、いつまでたっても独り身なのですよ。旭はいつも兄様のことを思っておりますのに、悲しいわ。ねぇ、沙魚丸様もそう思うでしょ。」
「あはは、そうなんですね。」
〈なんで兄妹ケンカに私を巻き込むの?旭さん、ずっと目が笑ってなくて、怖いです。あまりこっちを見ないで。蛇に睨まれたカエルの気持ちになるの。それはそうと、やはり独身なのね。〉
沙魚丸は妄想を始めそうになるが、茄子兄妹の会話に現実に戻される。
「ふん、よく言うわ。真っ黒な腹をしおって。」
「まぁ、兄様は私の着替えを覗きましたのね。本当にモテない男と言うのは、ダメですわ。沙魚丸様もお気をつけ遊ばせ。」
「旭、俺がいつお前の着替えを覗いたと言うのだ。それに腹と言うのは、そういう意味ではなくてだな・・・」
次五郎があたふたと言い返していると、陣太鼓が鳴り出した。
陣太鼓の音は大きくなっていき、沙魚丸を称える者たちの声をかき消す。
そして、とうとう、人の声は無くなり陣太鼓の音だけが城内に轟く時、海徳が軽やかに中央へと躍り出て来た。
海徳は陣太鼓をやめさせると、冷たく響く声で言った。
「今の儀は無効である。再度やり直しとする。」




