沙魚丸vs次五郎
次五郎は、この煮えたぎる怒りをどうしてやろうかと考える。
とりあえず、刀を抜いて突っ立っている小僧の首を射抜いてやれば、十六夜に投げられた怒りは少しは晴れるだろうと考えた。
次五郎は、手に矢を三本持つと、沙魚丸に向かってスタスタと歩いて行く。
〈俺の矢の犠牲になる憐れな小僧の名を聞いておかないとな。〉
何度も小僧の名を聞いた気がするが、次五郎は、興味が無いので聞き流していた。
だが、健気に立つ沙魚丸を見て気が変わった。
自らのことを慈悲深く優しい男と思っている次五郎は、沙魚丸の墓を城の片隅に建ててやろうと考えた。
〈国に戻れば、坊主が戒名をつけてくれるはずだしな。ここの墓には小僧の名を刻んでやろう。優しいな、俺って奴は。そうだな、三国無双の弓の名手、茄子次郎五郎の弓に射抜かれし勇敢な〇〇、ここに眠る、とかがいいかな。〉
うんうんと頷きながら沙魚丸の前に次五郎は、ぬっと立った。
「小僧、お前の名は何というのだ?」
次五郎は、沙魚丸に名を聞きながら、思った。
〈ほほぅ、これは、なかなかにふてぶてしい顔をしているではないか。うちの殿様より、よほど面構えがいい。惜しい。いやぁ、殺すのは実に惜しいではないか。〉
沙魚丸の顔をにやにやと歯をむき出しにして覗き込んで来る次五郎の顔を見て、沙魚丸の心の奥底から警告が鳴り響く。
〈何、このいやらしい顔は、どこかで・・・そうだ、ザリガニ野郎だ。もしかして、こいつも転生してたの?いやいや、女神様は私だけって、言ってたし。あれは小学校の話だしね・・・それにしても似てるわね。〉
しげしげと次五郎の顔を見た沙魚丸はふつふつと怒りがこみ上げて来る。
〈相変わらず、腐った顔をしやがってぇ。〉
当人同士が何もしていないのに奇しくも怒れる二人が向かい合ってしまう。
小学校の忌まわしき事件が沙魚丸の胸を騒がせる。
沙魚丸は無意識の内に次五郎を睨む。
「人に名を尋ねるときは、自ら名を名乗るのが礼儀ではないですか。それとも、あなたの頭の中にはザリガニが詰まっているのですか?」
嫌味たっぷりに言う沙魚丸に次五郎は不思議そうに呟く。
「ざりがに?食うのか?」
※※※
今、ここに語ろう『沙魚丸ザリガニ事件』を
沙魚丸は小学生のころ、父の仕事の都合で関西のとある田舎に住んだことがあった。
ある日の放課後、クラスの悪ガキ二人は家の冷蔵庫からチクワを持ち出し、近くのため池でザリガニを釣り始める。
「今日のチクワは鯛が入ってんねん。」
「なんやねん、それ。めっちゃエエやん。」
「やろ。ほな、やるわ。」
と言って、ザリガニの餌にするのではなく、二人は持ってきた高級鯛入りチクワをパクパクと食べ始めた。
「うっわ。うっま。こんなん初めてやわ。」
ほとんどを自分たちの胃の中に放り込むと残ったわずかな部分を少しだけちぎり糸に結わえるとようやくザリガニ釣りを始めた。
「めっちゃ釣れるやん。ザリガニもうまいもんは分かんねんなぁ。」
喜ぶ二人は次々とザリガニを釣り上げる。
餌のチクワがすっかりなくなった時に二人はハタと悩んだ。
釣り上げたザリガニをどうしようと。
噂では、釣り上げたザリガニを焼いて食った強者がいたらしいが、救急車で病院に運ばれたと聞く。
食すのは、もちろん、却下となった。
「俺さぁ、ザリガニ飼ってみたいねんけど、あかんかな?」
「ええやん。増やして売ろうや。」
誰に売るのか、誰が買うのか・・・そんなことは考えてもいない。
何かを始める時の二人の口癖である。
阿吽の呼吸でザリガニの飼育を決めた二人は、大きめのザリガニ数匹を裏山に作った秘密基地へ持ち帰り、用意した水槽に入れて飼いだした。
しかし、二人がザリガニのことを覚えていたのは、わずか二日。
その後、サッパリとザリガニは忘れ去られ、放置されたザリガニは餌を求め共食いを始める。
水槽内の水が腐り果てたのが先か、ザリガニが死んだのかが先かは、誰にも分からない。
臭気漂う腐水ができあがったころ、久しぶりに秘密基地に遊びに来た二人はあまりの臭さにようやくザリガニのことを思い出す。
二人はこのグロテスクな水をただ捨てるよりは有効利用しようと、その哀れな脳みそで考えた。
数日後、友達の家に遊びに行こうと走っていた沙魚丸は不幸にも二人のケンカ相手Aを追い抜いてしまう。
Aと間違われた沙魚丸は、待ち構えていた二人からその腐水を頭の上からドシャリと掛けられる。
腐って姿を保てなくなったザリガニらしきものが沙魚丸の頭の上から地面にペシャッと落ちたときに爆笑を始めた二人とAは、この事件をきっかけとして仲良くなったらしい。
ただし、女子の間にこの事件はあっという間に広まり、主犯の二人は女子から相手をされるどころか、もっと悲惨な運命を数十年に渡ってたどっていく。
その後、沙魚丸と母は、父を一人この忌まわしき土地に残し、風のごとく去った。
沙魚丸は、この事件以来、腕白で乱暴な男子に近づくことも近づかれることも一切を拒否する。
沙魚丸には、彼らが徘徊するサルにしか見えなくなってしまったのである。
※※※
そんな主犯の一人にそっくりな顔をしている次五郎。
見ようによっては、野性的な雰囲気を漂わせるイイ男は、
「よく分からんが、まぁいいか。ざりがにはうまいしな。」
と呟く。
「俺は茄子次郎五郎と言う。次五郎と人からは言われている。一応、よろしくとは言っておくが、すぐにさようならだな。はっはっはぁ。」
小馬鹿にしたように笑う次五郎を沙魚丸は、総力をもって睨みつける。
「私は、椎名沙魚丸。あなたのヘロヘロな弓を叩き落す者です。恥ずかしくて二度と私に顔を見せられないと言う意味で、私からもさようならと言っておきましょう。」
次五郎は腹を抱えて笑い出した。
あまりにも可笑しかったのだろう。
目には涙まで浮かべている。
「いやいや、沙魚丸殿は、とても愉快なお方ですな。最近、不愉快なことが多すぎて、これだけ笑ったのは久しぶりだ。感謝申し上げますぞ。」
次五郎は恭しく沙魚丸に礼をする。
そんな笑わせるようなこと言ったかな、と沙魚丸は首を捻っている。
「さて、これだけ笑わせていただいたのだ。俺からも豪華な礼を差し上げないといけませんな。そこでだ。」
次五郎は持っていた三本の弓を取り出す。
「沙魚丸様もお聞きかと思いますが、俺は貴方様にこの三本の弓を射ることになっております。」
次五郎はにやけた顔で語り始めた。
〈えっ、三本。一本じゃないの。何それ。聞いてないよ。〉
沙魚丸の顔に驚きが広がったのを見た次五郎は不思議そうな顔をする。
「おや、どうしました。沙魚丸様は、三本とは聞いておられなかったようですな。」
うーんと唸った次五郎は、ニッコリと笑う。
「沙魚丸様。俺からの礼が決まりましたぞ。大いにお喜びなさい。私はこの矢を連射いたしますが、最初の一本目だけは狙いをつけるふりをして、ゆっくり射ることにしましょう。さらに私が狙う順番をお教えしましょう。最初は、胸。次は目。最後に首、と射続けますからな。来る場所が分かっているのですから、しっかりと叩き落としてください。」
「ちょっと聞きたいのですが、あなたは私を射殺すつもりですか?これは、戦の神に捧げると聞いていましたが、私が死んでもいいのですか?」
沙魚丸に聞かれた次五郎は、少しだけ悩んだ。
〈まぁ、そうだよな。儀式とか言って殺すとかいつの時代の話だよな。うちの殿様との話を教えると、小僧も憐れだよなぁ。〉
「うちの殿様から、あなた様を射殺すと我が軍の士気が高まるからと命じられたのでな。俺個人としては、あなた様には何の恨みもないが、主命なので諦めて成仏してくれ。南無南無。」
次五郎は沙魚丸に手を合わせ、おごそかな声で唱えだす
「あなたは、何を言っているのです。私が叩き落すに決まっているのに、なぜ成仏と言う言葉がでてくるのか分かりません。」
沙魚丸の答えに目を点にした次五郎が、高笑いをする。
「いやー、沙魚丸様は、本当に最高ですな。もし、あなた様が私に射殺されなければ、私はあなたの言うことを何でも聞きましょう。」
〈こんなサルみたいなザリガニ野郎に負けるもんですか。それに、来る場所が分かっていれば、沙魚丸君ならきっと大丈夫よ。なんたって、飛んでくる矢を避けるどころか、つかんでたのよ!〉
人任せの自信を胸にニヤリと沙魚丸は笑う。
「武士に二言はありませんよ。」
「もちろん。」
二人は、距離を取り向かい合った。
間に小旗を持った武将が立ち、叫ぶ。
「始め。」
上げた旗は振り下ろされた。
次五郎は、宣言通り、弓をゆっくりと構え、沙魚丸の胸に狙いを定める。
手には続けて射るための矢を二本持っている。
〈本当に面白い小僧だったな。まぁ、俺が苦しめないよう成仏させてやるからな。〉
ギリギリと引き絞った矢は、沙魚丸の胸めがけて飛んでいく。
続けて、目。
首と狙いを定め、次五郎は、連射した。
一本目を無事に叩き落としたとしても、あっという間に二の矢、三の矢が沙魚丸に突き刺さっているほどの高速な連射である。
沙魚丸は、小次郎の言う通りに体に任せた。
予告通り正確に胸に飛んできた矢を沙魚丸は刀の頭で受け止めた。
そのまま、刀を振って頭に飛んできた矢を叩き落とそうと動こうとする沙魚丸の体だが、凄まじい矢の勢いに刀は腕もろとも後ろに吹っ飛ばされ、刀を振るうことなどできない。
〈え、どうして?〉
沙魚丸は、大事なことを忘れていた。
体の大きな次五郎が放つ弓がまだ少年の小次郎が放つ弓よりも桁違いな威力があることを。
まして、次五郎は知らなき者はいないと言われるほどの弓の名手。
子供の沙魚丸が簡単に受け止めることなど不可能なのだということを。
沙魚丸にとって、唯一幸運だったのは、射かけられる場所が分かっていたことかもしれない。
沙魚丸の体は諦めない。
飛んで来る場所が分かっているかのように無意識に沙魚丸の頭が動き、矢が当たる瞬間に兜で斜めに受け流し、矢をそらす。
だが、最後の一本が沙魚丸の喉元をめがけ唸りを上げて襲いかかる。
刀は、もう間に合わない。
体をずらすのも、もう遅い。
沙魚丸には、矢を止めることができない。
誰もが、沙魚丸の喉に矢が突き刺さったと思った時、一陣の風が吹き込んだ。
まるで、風が矢を止めたようだった。
矢は勢いを失い沙魚丸の足下にぽとりと落ちた。




