小次郎
激しく突き上げられるようにこみ上げてくる思いを口にするのを小次郎は必死で耐えて来た。
しかし、小次郎の忍耐はもう限界を超えていた。
主君の言うことに昂然と異を唱えるなど家臣として許されるべきことではないことぐらい小次郎だとて知っているのだ。
だが、小次郎の口から耐えに耐えた思いが吐き出される。
「沙魚丸様、どうして、今まで一言もお話してくれなかったのですか。」
上気し上ずった声で詰め寄る小次郎に能面のような表情となった沙魚丸が突き放すような口調で答える。
「我は母のかたきを討つと決めたのだ。そのために、神に願をかけた。かたきを討つために誰とも口を利かぬと。」
沙魚丸の機嫌が一気に落ちたことは小次郎にはすぐに分かった。
ずっと一緒にいたのだ。
沙魚丸の表情を見るだけで、沙魚丸がどんな気持ちなのかすぐに察知できるぐらい、濃密な時間を共にしたのだ。
だからこそ、小次郎はさらに踏み込む。
「かたき討ちのことをなぜ打ち明けてくれなかったのですか。私はそれほど、沙魚丸様にとって信の置けない者だったのですか。」
「うるさい。黙れ。」
顔を真っ赤にして座から立ち上がった沙魚丸が、手にしていた扇子を強く握りしめる。
扇子はかすかに悲鳴を上げた。
「黙りません。私は沙魚丸様の良き臣となるべく仕えて参りました。されど、私は沙魚丸様にとって、お考えを打ち明けるに値しない者だったのでしょうか。」
小次郎は沙魚丸の燃え上がるような目に怯むことなく、しっかと見つめる。
沙魚丸も小次郎に鋭い眼差しを送る。
「もう黙れ。かたき討ちは我が一人でやると決めたのだ。お前には関係ない。」
小次郎には関係ないと沙魚丸が言いつのる様子を見て、小次郎は心の奥底で何かが壊れる気がした。
沙魚丸と小次郎は、文字通り共に死線をくぐり抜けて来た、足りないところを補い合いながら一緒に生きて来た。
小次郎は、そう思っていたし、沙魚丸もそう思っているに違いないと確信していた。
〈独りよがりだったのか・・・〉
小次郎は生きているのが無性に嫌になった。
「そうですか。」
一言呟いた小次郎が折れるように頭を下に落とした。
そのままの姿勢で小次郎は力なく話す。
「そうですね。分かりました。沙魚丸様がお一人でかたき討ちをされるおつもりと気づけなかったのは、臣としてあり得ぬ不忠でございました。お詫びにこの場で腹を召します故、お目汚しをお許しください。」
穏やかに話した小次郎は座から一つ下がると、腰に差した脇差を手前に置き、沙魚丸の前に静かに平伏した。
いきなり鞘から刀身を抜き放ち、沙魚丸の許しを得ずに腹に突き刺すのも、主君に対する礼に失すると小次郎なりに考えた上での行動だった。
微動だにすることなく平伏する小次郎を見て、沙魚丸はため息をついた。
「分かった。分かったから、もう脇差を戻せ。」
小次郎はピクリとも動かない。
心の中で、『こいつは、本当にもう・・・』と内心で沙魚丸は苦笑する。
「時が来たら、今までのことを全てお前に打ち明けようと思っておった。そして、我のかたき討ちを助けてもらおうと考えていた。だが、やめた。やめたのだ。お前と一緒に過ごすうちに、我のかたき討ちにお前を巻き込むのはいけないと思ったのだ。」
沙魚丸は座りなおすと、腕を組み、冷静に話そうと努力する。
沙魚丸の言葉に小次郎は弾かれたように起き上がった。
「何と情の無いことをおおせになるのか。臣たる私が沙魚丸様のかたき討ちに加わらなくて、臣と言えましょうか。もしや、私が沙魚丸様のかたき討ちの足手まといとお考えですか。」
沙魚丸は、手を振って答える。
「そうではない。かたき討ちは我一人でやると決めただけのことだ。お前に他意は毛頭ない。ただ単に、我の憎しみにお前を巻き込むのが嫌だっただけなのだ。」
沙魚丸の答えに小次郎は涙をうっすらと浮かべ、声を励ます。
「沙魚丸様のかたき討ちから私を外すことの意味をお考え下さい。迫りくる敵を前にして沙魚丸様を残し私だけ逃げろとおっしゃっているのと同じではございませんか。沙魚丸様は、私を卑怯者にしたいのですか。」
顔を覆い、突っ伏して泣き始めた小次郎を沙魚丸は悲痛な面持ちで見ていた。
小次郎は基本的に泣き虫である。
とはいっても、肉体的な痛みには顔をゆがませることすら無い。
沙魚丸を目掛けて走って来た猪から沙魚丸をかばって体当たりを身に受けた時もニッコリと笑う余裕すらあった。
沙魚丸は知っている。
小次郎の体は涙で出来ているといっても過言ではないことを。
母のお琴から泣かないように言われていることもあるが、小次郎は歯を食いしばって泣かないよう堪えているだけなのだ。
だから、泣き始めると本人にもどうしようもないくらい涙は後から後からあふれ出て止まらない。
沙魚丸は立ち上がると、小次郎の横に座り、肩に手を置き、口を開いた。
「我とお前は君臣の関係を超えている。我にとって、お前は唯一の友なのだ。我が抱く憎しみに友に染まって欲しいと思う訳がなかろう。憎しみは、何といっても暗い。暗すぎて、お前には似合わん。」
沙魚丸の声音は優しく、小次郎の胸に沁み込んでいく。
〈沙魚丸様は、私を友と呼んで下さるのか。何というありがたきお言葉。こんな私を友と認めて下さるとは、このお方にお仕え出来て良かった。しかし、・・・〉
小次郎は、激した。起き上がった小次郎は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を沙魚丸に近づけ、声を上げる。
そう、小次郎は沙魚丸の身勝手さに腹が立ってしょうがなかったのだ。
「私を友と呼ぶのなら、どこまでも一緒に連れて行けばよいでしょう。なぜ、お一人で討つとなるのですか。」
沙魚丸は弱り切った表情となる。
小次郎は、うつむき弱々しくささやいた。
「それに、もっと早くお話しいただければ、よかったのではありませんか。」
小次郎の言葉を聞いた沙魚丸様は、拗ねたようにソッポを向いた。
「お前は勘違いをしている。我はお前を友と思っているが、我はお前の友ではないのだ。」
「何をおっしゃっているのですか。意味が・・・」
泣き疲れて腫れた目を小次郎はしばたたかせる。
「まぁ、聞け。我は思うのだ。一方的に頼るだけの者を友とは呼ばん、とな。そんな者は、人の価値すらない。ただの寄生虫だ。」
ここまでは、分かるな?という表情を沙魚丸がするので、小次郎は頷く。
言葉が無い時は、いつもそうしていたように。
「我は、出会った時からずっとお前に頼って生きて来た。だから、がむしゃらに修行に励んだ。まぁ、残念ながら、お前が我を頼ってくれることは一度もなかった。お前が我を友とする時は、お前が我を頼ってくれる時と決めていたのだ。」
「何をおっしゃっているのです。私は、ずっとあなたを頼って生きて来たではないですか。それこそ、二人で共に生きて来たではないですか。」
小次郎は、思わず叫んだ。血を吐くような思いで叫んだ。
小次郎の言葉を聞いた沙魚丸様は、嬉しそうに笑った。
「なんだ、そうだったのか。では、我もお前から友と認められていたのだな。それは嬉しいな。」
「あなたというお方は、なんという・・・」
小次郎は言葉を続けることができない。
「そう言うな。我は恥ずかしかったのだ。こんな話、死ななかったらできなかったわ。ふふ、でも、本当に嬉しいな。」
あどけなさの残る横顔を見せた沙魚丸は、既に空となった茶碗を手に取り、手の中で転がし始めた。
そして、茶碗をじっと見つめて、言った。
「すまなかったな、小次郎。我がもっと早くお前に相談すればよかったのだな。」
小次郎はかなづちで頭を殴られたような衝撃を受けた。
沙魚丸が、小次郎の言葉を受け入れて謝ったのだ。
過去に沙魚丸が誰かの意見で謝ったことなど一度もない。
まして、小次郎の意見など、いつも鼻であしらわれていた。と小次郎は思っていた。
しばらく茫然としていた小次郎は、慌ててひれ伏した。
「私こそ出過ぎたことを申し上げ、申し訳ございません。」
必死で謝る小次郎を起き上がらせ、沙魚丸が言う。
「いや、いいのだ。最初からお前にだけは我の思いを伝えておけば・・・」
途中で言葉を切り、目頭を押さえた沙魚丸は、フッと笑う。
「もはや、詮無いことだ。これ以上のことを言うのは野暮の極みというやつだな。」
沙魚丸は、小次郎の肩を叩く。
「我からの最後の願いだ。我の体に入った転生者の面倒を見てやってくれ。」
「お断りはできませんか。」
「うーん、願いだからなぁ。断っても良いが、お前はどうするのだ。」
「追い腹を切り、沙魚丸様と共に極楽でも地獄でもお供させていただくつもりでございます。」
沙魚丸は、困ったように首を捻った。
「それは、却下だ。源之進にもお琴にも我が恨まれるではないか。」
小次郎は大きく頭を横に振る。
「父母ならば、沙魚丸様のお供をしろと喜んで私の介錯をしてくれましょう。」
「そうか?うーん、そうかもしれんが、やはりダメだ。お前の気持ちは嬉しいが、転生者はちょっと間抜けだが、なかなかの大物になる・・・と思う。だから、手伝ってやってくれ。それに、我の体で悪徳な者となってもらっては困るから、お前に見張ってもらいたいのだ。」
「しかし・・・」
沙魚丸にどう説得されても小次郎は首を縦に振りたくない。
何と言われようと、小次郎は沙魚丸と一緒にいたいのだ。
そんな小次郎を見て、沙魚丸は頭をかく。
「あまり言いたくなかったのだが、我は、これから母と一緒に過ごすのだ。我が母に甘える姿をお前に見せるのは、ちょっとな・・・」
言いにくそうに話す沙魚丸を見て、小次郎はようやく笑った。
笑顔となった小次郎の肩を沙魚丸も嬉しそうに叩く。
「お前は、もう少し後から来い。こちらの世界の時間の少しは、人の一生をゆうに超えるらしい。だから、お前は存分に活躍して、手土産代わりにお前の活躍話を我に聞かせよ。よいな。」
「沙魚丸様は、本当にズルいお方です。それでは、沙魚丸様の言うことを聞かざるを得ないではありませんか。」
小次郎は泣き笑いのような表情を顔に浮かべた。




