ハイヨーミヤマー
登山技術もないし、何より体力も無い沙魚丸は、雪山は怖いため対象外にした結果、虫が見えなくなった十二月の初めに大鍬形城に登城することにした。
お城仲間から絶対に行きなよ、と繰り返される通知にサヨナラするためにも。
ひんやりとした空気が山を包み、うっそうと高く生い茂った木々が日の光を遮る。
昼間にも関わらず薄暗い山道をザクッ、ザクッと軽快な音をたてて落ち葉を踏み分けて沙魚丸は進む。
時折、主のいなくなったクモの巣らしきものを頭のかなり上に発見し、絶対に接触することはないと分かっているが、念のため、屈んで歩く。
軽やかな足取りで進む沙魚丸の目の前に、土橋と堀切が広がる。
土橋の横には堀底に降りることができるよう脚立がロープなどで頼りなげに固定されている。見たところ、埼玉県にある鉢形城の角馬出しぐらいの高さがある。
そのまま土橋を渡り進んでも良いが、堀底から見上げる景色の誘惑に沙魚丸は負けてしまう。手すりらしき地中に打たれた鉄杭を持ち脚立に足を掛けるとグラグラと揺れる。一歩降りるごとに揺れる脚立にビビリながら慎重にゆっくりと堀底に降り立つ。数百年を経た風化と土砂の堆積によって往時の堀底ではないと分かっていても、壁のそそり立つ様子に心が震える。
降りてきた方と反対側の壁を沙魚丸は嬉々として見上げる。
「私が攻め手の兵士なら、上から長槍でザクッと突かれて即退場だわ。」
守り手側の堀を見上げながら、沙魚丸はうっとりと夢見心地の顔になる。
〈堀底を移動できそうだし、少し進んでみようっと。〉
堀底をテクテクと歩き出す。
朽ちた木々が堀に横たわり枯れ木や草が堀底を進む沙魚丸の邪魔をする。しばらく進んだ所で『危険のため立ち入り禁止』の看板が現れ、諦め悪くウロウロとしていた沙魚丸だったが、
「ちぇー、ここまでかぁ。」
と呟くと脚立の所まで引き返した。
〈この脚立、まじで怖いんだよね。どこか他の所から上がれないかなって思ったけど甘かった。〉
脚立に手を掛けると、相変わらずユラユラ震える脚立にビビりながら慎重に上る。
堀から這い上がると胸の奥底から湧きあがる生への喜び。
〈そんなに高くないけど、上っている脚立が途中で倒れたら恐怖しかないよね。倒れなくてよかった。〉
しみじみと思う沙魚丸だった。
***
自宅を朝五時に出て電車を乗り継ぎすること四時間を費やし、沙魚丸は大鍬形城の最寄り駅に降り立った。
いつもであれば、輪行してきた愛用のクロスバイクを駅前の片隅でコッソリと組み立て颯爽と走り出すのだが、メンテナンスのため偏屈で頑固かつ不愛想だが愛すべき自転車屋のオジサンに預けており、今回は身一つでの登城である。
沙魚丸はタクシーを使えるのは裕福で選ばれた身分の人間と羨望と嫉妬の混じった感情を抱いており、一人でタクシーに乗ったことがない。
学生時代のある日、家族団欒中に免許を取ろうかなと笑いながら言った沙魚丸に、白蝋のように青ざめた顔をした家族に反対され、レンタカーを借りることもできない。
かといって、徒歩で一時間かかる城跡にテクテクと歩くほど歩くこと自体が好きでもない。
そんなわけで、沙魚丸は事前にこの駅の観光案内所でレンタサイクルがあることを調べていた。
人生初のレンタサイクルである。
緊張に震える手で自動ドアのボタンを押し、観光案内所の赤いハッピを着た女性スタッフにレンタサイクルのお願いをする。すると、初老の男性が沙魚丸と女性との会話に割り込んで来る。
白髪混じりではあるが、今どきの若者がしていそうなおでこが見えるほど短めの前髪の髪型をしている。一方で、わざと残しているであろう無精ひげは、人によっては好ましいワイルド感となるのだろう。
クラシカルな雰囲気がするラウンドフレームの眼鏡をかけ、よく分からない前衛芸術家が描いたような極彩色のプリントシャツを着用し、右手の小指に銀色のピンキーリングをはめている姿は、どう見てもお洒落な男性と認識されたいのだろう。
だが、タバコと缶コーヒーが混じった息を吐く男性スタッフに沙魚丸は忌避感を覚え、少しあとずさる。
先程まで沙魚丸ににこやかな笑みを浮かべていた女性スタッフは『やれやれ、女の子が来ると張り切るんだから』とでも言いたげな表情に変わった女性スタッフは音もなく消えていった。
去っていく女性のハッピには、山城の上でウインクをして笑っているクワガタ虫が描かれているが、沙魚丸の目には憎たらしい顔をしたクワガタ虫が沙魚丸を嘲笑うようにしか見えなかった。
男性スタッフがレンタサイクルについて話す必要がある内容と、どうでもいい内容の割合は、3対7。三十分の間、二十一分も沙魚丸の貴重な時間を奪い続ける。沙魚丸の愛想笑いは尽き、もう無理ですと謝ろうとした時、ようやく話が終わった。
〈やれやれ、ようやくお城に行ける。〉
と思った沙魚丸に次なる難題が押し寄せる。
男性スタッフが、用意し始めたのは電動自転車である。
〈困る。とても困る。私、電動自転車に乗ったことがない。〉
「電動自転車しか無いですか?乗ったことないんですけど。」
お土産コーナーで品物をいじくっていたおばさんがいきなり会話に入ってくる。
「大丈夫よ。私だって乗ってるんだから。若い人ならお茶の子さいさいよ。すすすぃーって。あはははは。」
〈誰、おばさん、誰なの?お茶の子さいさいって何?これじゃぁ、もう電動自転車に乗るしかないじゃない。〉
「そうなんですかぁ。じゃぁ、頑張ってみます。ありがとうございます。」
沙魚丸は余計な親切に遭遇した時、断れた例がない。諦めた沙魚丸は、とても爽やかな笑顔で電動自転車を借りることにした。
貸し出された自転車には、テプラで作ったと思われる黄色いシールに黒いフォントに大きく『ミヤマクワガタ号』と貼ってある。
「ハイヨーミヤマー」
沙魚丸は自転車にまたがると周囲に誰もいないことを確認し、ボソッと呟きペダルに足をかけた。
グンと前に進む。
上半身が置いて行かれそうになる推進力に沙魚丸はヒッと軽く悲鳴をあげ続けて、
「こぇー、何これー」
と喚く。
あまりに軽く進む電動自転車に過去の恐怖体験を思い出し、今日は絶対にのんびり行こうと決める。
あれは学生時代。
原付免許試験合格後に、原チャを買おうかどうしようか悩んでいると、友人が晴れの日しか乗らないほど可愛がっている原チャリを貸してくれた。
加減が分からずアクセルを勢いよくグイッと回すと、前輪がグッと持ち上がる。ウィリー状態にパニックとなった沙魚丸は「ウキャァー」と猿のような叫び声をあげ恐怖のあまり手をパッと放し地面をゴロッと転がる。友人の原チャはバタリと横に倒れ、先程まで着ず一つついていなかった綺麗なボディーカウルの右側をボロボロにしたことを咄嗟に思い出す。
数ある黒歴史の一つに浸りつつ、ペダルを踏む。沙魚丸は自転車が好きである。ペダルを無心で踏むと叫んで転がりたくなるような衝動に襲われる黒歴史を忘れることができるから。
男性スタッフに教えてもらった道を進んで行くとなだらかな上り坂に入る。
更に進むと徐々に坂の角度が急になってきたので、変則を軽くしようと一段軽いギアに切り替える。
ガリガリガリ
異音が発生。
〈嚙み合わせが悪いのかな?〉
沙魚丸は三段変速の中で最も軽いギアに目盛りを切り替える。
ガリガリガリ
変わらず異音が発生し続ける。
異音がするだけでペダルの重さは全く変わっていない。
肝心のギアが切り替わっていない。
男性スタッフに聞こえて欲しいと呪いながらため息をついた沙魚丸はギアの目盛りを最重に戻す。
「まじかぁ。未整備のチャリを貸し出すのやめてよ。」
ブツブツ言いながらペダルを踏み続ける。
坂道は更に勾配が強くなり、自転車を漕ぐのが辛くなってきた沙魚丸は、立漕ぎをするしかないと考える。
普段からクロスバイクでするように立ち上がり、
「ふんぬ」
と、ペダルを踏んだが、すぐに漕ぐのを止める。
〈立漕ぎできないよぉ。〉
座り直して一生懸命に踏みこむと電動自転車の重さが足にのしかかってくる。
「うぉー、おもいー。なんでー。」
〈もう降りて押そうかな。〉
諦めて力を抜くと楽に進み始めた。
沙魚丸はようやく気付いた。
電動自転車というものの乗り方に。
こぎ続けずに、頑張らずに、ちょっと踏んで自転車に走らせればいいことに。
それからの沙魚丸は気持ちよさげに鼻歌交じりでペダルを踏んでいく。
駐車場に到着した沙魚丸はグルリと周囲を見渡す。
誰もいない駐車場。
一台の車も停まっていない駐車場。
砂利が敷いてある駐車場には雑草が幅を利かせていて、妙な物寂しさを覚えた。
〈秋草や兵どもが夢のあと、なんちゃって。〉
物思いにふけっていると唐突に受付の男性の言葉が頭をよぎった。
「自転車を紛失したら十万円ね。」
ご丁寧に誓約書まで書かされたことを思い出し、きちんと鍵をかける。
〈鍵、大丈夫かな・・・〉
少し不安になった沙魚丸は、もう一度鍵がかかっているか確かめると、安堵の鼻息を鳴らし駐車場から少し離れた登城口に向かった。