【幕間】二人の女神
一方、天界では。
何の連絡も寄こさずに遊びに来た神友の八上姫が秋夜叉姫の住まう社殿の四脚門を優しくコンコンと叩いている。
社殿と門とはかなり距離があるのだが、八上姫の発する音は意中の相手へ届く神力を持っているので、秋夜叉姫は八上姫が訪れたことを知っている。
だが、今は八上姫の相手をするよりも重要なことがあるので、居留守を使おうか悩んでいた。
応答の無い秋夜叉姫が居留守を使っていることを気づいた八上姫は、眷属の兎が持っていた白兎と書かれた樽から液体を手の平に少し注ぐと、ぱっと宙へ撒き散らした。
そのかぐわしい匂いに釣られて、秋夜叉姫が門をいそいそと開けた。
「遊びに来たわ。入ってもいいかしら。」
「うむ、ちょうど掃除を終えたところじゃ。早う入れ。」
「ありがと。はい、おみやげ。」
「いつも手ぶらのくせに、今日はどうしたのだ?しかも、銘酒『白兎』とは、天変地異の前触れではないのか。」
「まぁ、意地悪ね。そんなこと言うなら、あげないわよ。」
「いや、すまん。妾としたことが口が滑ってしもうた。」
連れ立って軽口をたたきながら歩く二人は、御殿に入る。
秋夜叉姫は、眷属の兎から渡された酒樽をピカピカに雑巾がけした床の上にそっと置いた。
そんな秋夜叉姫の様子を楽しそうに見ながら、八上姫は、持参した風呂敷の中から折詰を取り出し、慣れた手つきでちゃぶ台の上に並べていく。
取り出したのは、
・鰯の塩焼き
・焼き蛸
・蕎麦味噌焼き
・板わさ
・香の物
以上の五点。
秋夜叉姫は酒樽からお銚子に酒を注ぐと、酒燗器に入れる。
二柱は、燗酒派なのである。
『純米酒は燗もお勧めでーーす!』
とある新酒の利き酒会に登壇した主賓のマッチという酒の神がドヤ顔で叫んだ言葉を聞いて以来、燗酒派となった。
ただし、酔うと燗をするのが面倒になり、そのまま呑む程度の燗酒派である。
銘酒『白兎』が飲み頃な温度は、上燗と勝手に決めた二柱は、酒が温まるのを息を凝らしじっと待つ。
一言も話さず、酒燗器を食い入るように四つの目で見つめる。
この待つ間も燗酒の楽しみらしいが、眷属の兎たちにはよく分からない。
なぜなら、彼女たちはお酒を飲まないから。
ただ、この二柱が大切にしている『二柱だけで過ごす美味しいお酒に舌鼓を打つ刻』を邪魔しないように、彼女たちは縁側でポリポリとニンジンをかじり、秋夜叉姫が用意してくれたニンジンジュースを舐めながら神界の噂話に花を咲かせている。
燗酒がいい温度になったと感じた二柱は、それぞれ徳利を持ち、自らのぐい呑みに酒を注ぐ。
差しつ差されつつといった年配の神々が楽しそうに(?)飲む行為を二柱は苦手としており、基本的に手酌で自分のペースで呑むのが好きな二柱である。
秋夜叉姫は、地球の神から贈られた刷毛目のぐい呑みにトクトクと酒を注ぐ。
8㎝の口径と4㎝の高さを持つぐい呑みは飲み口が波を打ったように柔らかく歪んでいる。
織部焼にあるようなグニャッとした歪で自由な形を秋夜叉姫は楽しんでいる。
大海原を感じさせるフォルム以上に、秋夜叉姫がこのぐい呑みを愛してやまないのは飲み口の厚さが秋夜叉姫の唇にちょうど良いのである。
こればかりは感覚の問題なので、秋夜叉姫にしか分からないことであるが、秋夜叉姫曰く、酒を口に含む時の口当たりが厚すぎず薄すぎず、とにかく抜群にいいらしい。
向座に着いた八上姫は、釉薬をわざとかけなかったせいでできた焼き物の素地がウサギに見えるらしい持参の粉引ぐい呑みに上品に酒を注ぎ、口元に持ち上げる。
「お先に。」
一言発した八上姫はクピクピと喉を鳴らし始めた。
「美味しい・・・」
艶やかに唇を濡らした八上姫は、秋夜叉姫の数少ない神友の一柱でお互いのことをアッキー、やがぴょんと呼び合っている。
数千年前に初めて出会った頃、酔った八上姫が、兎がどうのこうのと延々と繰り返し言ってくるのをほろ酔い気分で聞き流していた秋夜叉姫が、八上姫様と呼びかけるのが面倒になり、
「お前は、うさぎだからぴょんじゃな。」
と、呂律が回らない口で断言して以来、やがぴょんとなった。
「相変わらず、マイペースな奴じゃのう。」
秋夜叉姫は笑いながら、空中に大きな水鏡を浮かべ、下界の様子を写し出す。
「その子が、アッキーが転生させた子なの?」
八上姫は、香の物をぼりぼりとかじりながら秋夜叉姫に尋ねた。
「うむ。何というか、妾がこの世に転生させたから、ちょっと様子を見ておかんと神としてどうかと思っての。」
「心配なら心配と言えばいいのに。だ、か、ら、居留守を使おうとしたのね。」
ぐい呑みの酒をキュッとあおると、弾けるような笑顔を秋夜叉姫に向けた。
八上姫は心を許している神友以外の前では、奥ゆかしい雰囲気たっぷりに口元を扇で隠しながらオホホと笑うのだが、ことに気心の知れた秋夜叉姫の前では大口を開けてケタケタと笑う。
八上姫の言う通り、確かに秋夜叉姫は沙魚丸のことを心配している。
だが、真正面からズバッと言われると、なんだかモヤッとして違うと言いたくなる。
かといって、ここで沙魚丸のことを心配だと言うのも何かこう八上姫に屈した気がして言いたくない。
悩んだ秋夜叉姫は話題を変えればいいのだと閃いた。
それも強引に・・・
秋夜叉姫は、作っておいたワサビをごってりと板わさの一切れに手早く入れ込み、箸でつまみ上げると、カパッと大口を開き笑っていている八上姫の口へ素早くねじ込んだ。
板わさをいきなり口に入れられた八上姫は驚いた顔をし、何かを言いかけつつも、もぐもぐと口を動かす。
噛んでいる間に鼻から空気を抜いたのであろう。
哀れ、八上姫は、目に大粒の涙を浮かべながら陸に上がったエビの様に床の上で悶絶し始める。
のたうちまわる八上姫の姿に気持ちが晴れ晴れとした秋夜叉姫は会心の爽やかな笑みを浮かべる。
「心配というか、転生早々に間抜けなことをしそうな奴なんじゃ。やがぴょんの背中のあたりなんか、先程まであやつの垂らした涎で水溜りができておったからの。」
〈まぁ、涎の水溜りは妾が座っている隣にできていたのだがな。〉
「本当にアッキーは、嘘が下手よね。ここじゃないんでしょ。それにアッキーは綺麗好きだから、そんな水溜りがあってもすぐに掃除するだろうから大丈夫。」
悶絶からよろよろと復活した八上姫は口の中の辛みを取ろうと杯を重ねる。
二柱は、なんのかんの言いながら楽しくやり取りをしつつ沙魚丸の様子を眺める。
雨情の嫌味に秋夜叉姫が中指を立て、源之進と小次郎が沙魚丸に対して献身的に仕える様子を見て八上姫が涙する。
そんな風に酒を楽しむ二柱に唐突に終わりが訪れる。
八上姫が持ってきた樽から一滴の酒もしたたり落ちることが無くなった。
今がいいところ。
そう、酒飲みはみんなそう言う。
ここで終われない。
秋夜叉姫がすっくと立ちあがり、宙から取り出した秘蔵の酒樽の栓を開ける。
今日の宴はまだまだ続く。
沙魚丸をあたたかく見守りながら。
酔った八上姫は、沙魚丸が源之進と小次郎の二人を秋夜叉姫の信者にしなかったのはダメねとくだをまき始めた。
なるほどと相槌を打った秋夜叉姫は次回、沙魚丸の前に顕現した時にしこたま説教を喰らわせようと決め、沙魚丸日記と見事な筆跡で書かれた帳面に乱れた筆遣いで記録した。
後日、この帳面に意味不明な文字らしきものが羅列してあるのを見た秋夜叉姫がナニコレと頭を捻ったのは、また別のお話。




