パニック
立ち去っていく雨情の背中を横目にしながら源之進は緊張の糸が切れたのか、大きく息を吐いた。
源之進の吐いた息に合わせるように、
ガサッ……
と音を立てて焚火の中で赤々と燃える薪が崩れ落ち火の粉が大きく舞い散る。
源之進の横では呼吸を忘れたかのようにピクリとも動かない小次郎が、薪の落ちた音で我に返り、忘れていた呼吸分を取り返すように慌てて酸素を取り込もうと大きく息を吸う。
そして、ゆっくりと口から吐き出し、源之進に顔を向ける。
「父上、私は頭がおかしくなったのでしょうか。先ほど、私は沙魚丸様がお話しされたように感じました。我が家にいらっしゃってから、一言もお話にならなかった沙魚丸様がですよ。しかも、父上に謝罪をされたようにも聞こえたのです。」
ワタワタと腕を振りながら、小次郎は異常事態発生を源之進に必死に訴える。
〈女神様の時も思ったけど、イケメンも狼狽えた顔をしていてもかっこいいのね。人生ってやつは不公平だわ。〉
沙魚丸は他人事のようにこの場に相応しくない感想を抱く。
「いや、小次郎。お前は何を言っているのだ。沙魚丸様は我が家で色々とお話になっていただろう。ほら、あの時だって・・・」
小次郎の言葉を冷静に受け止めた源之進は、沙魚丸が話をした時のことを小次郎に告げようとする。
「ん?そういえば、沙魚丸様のお声を聞いたのはいつだったかな?百合様の横でチョコンとお座りになっていた時は、私の名前をお呼びになっていらっしゃったし・・・」
口に大きな手を当てブツブツと呟く源之進。
「父上。それは沙魚丸様が五歳の頃ではございませんか。沙魚丸様は、もう十二歳でございますよ。父上は沙魚丸様とお会いされるのは年に一度、しかも挨拶をされる程度なので、沙魚丸様がお話にならないことすらご存じなかったのではありませんか。現に、沙魚丸様のお声を聞いてビックリされていたではないですか。それより、沙魚丸様が父上に謝罪をされたように見えたのは私の夢でしょうか?」
「いやいや。待つのだ、小次郎。あれは謝罪というかお礼ではないのか。というか、この私が沙魚丸様のお声を忘れていただと。ありえるのか?傅役として、そんなこと許されるのか?ちょっと待て、沙魚丸様は我が家で一言もお話にならなかったのか?お琴から沙魚丸様のことについて相談をしたいと聞いてはいたが、お役目の忙しさと此度の戦の金策に走り回っていて、お琴とゆっくりと話をする暇がなかったのか・・・」
源之進は、相変わらず独り言を続けていたかと思うと、ガックリと肩を落とした。
「父上、どうなされました。」
小次郎が源之進に駆け寄る。
沙魚丸が少ししゃべっただけで白昼にツチノコを見たかのように動揺する源之進と小次郎を見て沙魚丸も慌てる。
〈何?私というより沙魚丸君がしゃべったから、二人ともパニックになってるの?どういうこと?
というか、源之進さんが外国からの単身赴任で数年ぶりに我が家に帰ってきたけど、あまりの変わりっぷりを受け入れられない父親みたいになってるわ。
この状況で、実はあたし、沙魚丸君ではないんですって告白したら、どうなるんだろう?〉
ゾッとして寒気を覚えた体が自然と震える。
〈絶対に言ってはいけないと本能が叫んでるわ。私は沙魚丸君で沙魚丸なのだから、何もおかしくない。というか、記憶がほとんど使い物にならないですよ。何かきっかけがないと記憶がよみがえってこないんだけど。あのしんどい思いはなんだったのよ。〉
転生後の沙魚丸の記憶を呼び出せないと嘆く沙魚丸だが、記憶なんてそんなものである。
日常的に使っているものは瞬時に出て来るが、数年前にチラッと経験したようなことがパッと出て来る訳がない。
まして、数年前の沙魚丸はまだ幼児だったのだから。
ひとしきり心の中で文句を呟いた沙魚丸は、混乱の収拾に取り掛かることにする。
「二人とも、落ち着いて下さい。どうしたんですか?」
沙魚丸は、自分の言葉が女性っぽいかもしれないと思うのだが、今まで沙魚丸君が二人としゃべったことがないと言うのだから、何も問題はないと結論づける。
なんという幸運。
幼少の頃からずっと一緒にいる小次郎も沙魚丸の話し方を特に気にしている様子もない。
〈よし、このままの口調でいける!慣れない口調でしゃべると絶対にボロがでるし。今はカマっぽいのかもしれないけど、数年かけて男らしくなる!〉
心の中でガッツポーズをとった沙魚丸に対して、小次郎は片膝をつき早口で話し始める。
「はっ、実は、沙魚丸様がお話になったのです。しかも、父に謝罪なさったのです。沙魚丸様が我が家にいらっしゃって以来、沙魚丸様は一言も話さず、今まで誰にも一度たりとも頭をお下げになったことなどありませんでした。そうです。明らかに沙魚丸様が悪い時でも絶対にです。それで、私は驚いてしまいまして・・・」
小次郎は話している内に落ち着きを取り戻し、たちまち顔色を無くす。
小次郎が話している相手が当の沙魚丸であることに気が付いたから。
冷静さを取り戻した小次郎は、沙魚丸に思わず平伏する。
「沙魚丸様、申し訳ございません。只今の発言、平にお許しください。」
沙魚丸は土下座の小次郎を見て心の底から辛くなってきた。
〈女神様。私は沙魚丸君が話さないとか謝らないとか教えてもらってないですよ。しかし、沙魚丸君って本当にやらかしてたんだなぁ。でもなぁ、今の沙魚丸は私だしなぁ。どうしよう・・・女神様。あなたがこんなきっつい場面に転生させたのだから、女神様に全責任を押し付けますね。事後承諾でごめんなさい。〉
「源之進さん、小次郎さん。聞いて下さい。」




