百足丸
雨情屋敷を出発した沙魚丸は、大木村へと道を急ぐ。
急いで、急いで・・・
いなかった。
いや、できなかったのだ。
のろのろ歩く孔雀和尚を振り返った沙魚丸は口を尖らせる。
〈一刻も早く大木村に行かなきゃいけないのに。〉
沙魚丸はいけないと思いつつも語気が強くなる。
「和尚さん、もうちょっと早く歩けませんか。」
「そう言われましても、拙僧は悩みを解決しておりません。こんな状態では、とてもではありませんが、ハゼ殿の様にスタスタと歩くことはできません。」
チラリと沙魚丸を見た和尚は、物憂げに目を伏せる。
そして、何かを聞いて欲しそうにチラチラと沙魚丸を見て来るのだ。
〈あぁ、もう、うっとうしいわね。何なのよ。それに、私が能天気みたいに言いやがってぇ。〉
「書付を渡したから、何も心配は無いはずです。何なんですか、さっきから暗い顔でトボトボ歩いて。ほら、牛の方が和尚さんより早いですよ。」
そう言って、牛を指さした沙魚丸は、んんっと目をパチクリさせる。
牛がニヤーッと笑っているように見えたのだ。
〈この牛、笑ったの?〉
そんな馬鹿な、と沙魚丸は目頭を揉む。
〈見間違いだよね。和尚さんと二人で歩くなんて初めてだから疲れたのかしら・・・。いや、そんなことより、和尚さんをどうにかしないと。大木村がヤバいって分かってるくせに、牛よりゆっくり歩くなんて信じらんない。〉
大きく息を吐いた沙魚丸が目を開けると、目の前に和尚が寂しそうな表情を浮かべていた。
「ハゼ殿は拙僧に当たりが強すぎる。拙僧は悲しい。」
「喜怒哀楽を表すのはダメだって言ったのは和尚さんですよ。その当人が、全身で哀しみを表している方が変だと思うのですが。」
呆れ顔の沙魚丸に、ため息をついた和尚がやれやれと肩をすくめる。
さらに、「ハゼ殿はまったく人の気持ちが分かっていない。」と聞こえるように呟く。
〈このハゲ、足下見てるわね。疱瘡の予防に協力が必要でなければ、この愛刀を後頭部に突きつけて、ランラン歌わせつつ大木村までスキップさせてやるのに。〉
暗い顔で沙魚丸は愛刀百足丸の鯉口に手をかける。
〈さすがはむーちゃんの刀ね。和尚さんの血を吸いたいと言っているようだわ。〉
握った柄からムカデが背中をはい回るような暗い刃動を感じるのだ。
百足丸はムカデ姫が作った刀である。
「大事にしないと殺すから。」
と、ツンツンしたムカデ姫が沙魚丸の誕生日にくれた刀である。
嬉しい、と言って刀をぬいた沙魚丸は、おおっ、と感嘆の声を上げる。
「板目肌がよく詰んでるね。直刃がとっても綺麗。なんと、刀身に龍よりもカッコイイ百足が彫ってある。」
試し切りを行った沙魚丸は、ムカデ姫が沙魚丸の為に究極の一振りを作ってくれたことを理解する。
大事にいたします、と刀を捧げ持つ沙魚丸に、フンとそっぽを向きつつもムカデ姫はほんのり頬を赤らめるのだった。
ちなみに、秋夜叉姫から贈られた抜丸は、沙魚丸元服の時まで雨情のもとで大事に保管されている。
元来、沙魚丸は人を脅して何かさせるようなことは思い付きすらしない心優しい子供だった。
だが、常盤木家に来てから、厳しい教育により沙魚丸は生まれ変わった。
素晴らしい領主になるために、人の嫌がることを進んでやろうと教わった結果・・・
嫌がる相手には、時として暴力的に従わせることが必要であり、相手によっては躊躇なく行えるほどに沙魚丸はしたたかになった。
しかし、その教育を担った一人である和尚の憂え声に沙魚丸は刀を抜く衝動を抑えた。
「私は軍師です。軍師とは喜怒哀楽を全身で表すものなのです。」
「はぁ? 何ですか、その謎理論は。大将の横でうろたえる軍師なんて無用でしょう。」
「本当に分かっていませんね。軍師があたふたするからこそ、どっしりと構える大将の偉大さが引き立ち、皆が畏まるのです。」
何言ってんだ、こいつ、と思った沙魚丸であったが、同時に思うのだ。
〈おっ、これは和尚さんを言い負かすチャンス到来では。〉
沙魚丸はニンマリと心の中で笑う。
今まで言い負かされていたお返しをしてやる、と口を開く。
「和尚さんが尊敬している諸葛亮孔明もうろたえていたんですか。」
そんなことないよねぇ、とドヤ顔の沙魚丸に和尚はゆっくりと首を振る。
「ハゼ殿は浅はかの上に超がつきますね。孔明様は神とも称えられる軍師。神がうろたえる訳が無いでしょう。」
〈神様もうろたえるわよ・・・〉
神様の実情を知る沙魚丸は心の中であっさりと否定するが、そうとは言えない。
しかも、目の前にいるのは、俗世では最もあの世に詳しいとされる僧侶なのだ。
そこで、沙魚丸は大好きな軍師の名を和尚に告げる。
〈この御方は常に沈着冷静。私が軍師にしたいナンバーワンです!〉
楚漢戦争における劉邦の名軍師の名を沙魚丸は口にした。
「じゃぁ、張良は。」
「張良様は体が弱かった。ゆえに喜怒哀楽を出したくても出せなかったのです。」
〈なっ、なんて屁理屈。信じらんない。こうなったら、色々な人物を言うしかないわ。項羽の軍師は、えーっと。〉
「范増は・・・」
「項羽に激怒しましたね。」
范増の名前を出したところで、即座に否定された沙魚丸は歴史上有名な軍師の名を数名上げるものの、いずれも瞬殺されてしまう。
ぐぬぬ、と悔しそうな唸り声を上げる沙魚丸に和尚はため息をつく。
「ハゼ殿は学びが足りません。上辺だけ取り繕ってもダメなのです。もっと、学んだことを深く味わい自分の血肉とし、智恵と変えなければいけません。それができなければ、今の様に相手に手玉に取られ、最後はこれです。」
和尚は首に手を当て、スッと横に引く。
ご丁寧に沙魚丸に対して合掌する和尚に、降参ですと沙魚丸は両手を上げた。
〈この人に口で勝てるわけ無いのに・・・。こんな挑発に乗せられるなんて、本当に時間の無駄だった。〉
「分かりました。大木村が終わったら、しっかり学びます。ですので、今は急いでください。」
「そうですね。少々、無駄口が過ぎたようです。」
「自覚があったんですか。」
「何を申されているのです。私はまだ悩みを打ち明けていませんよ。」
〈まだ続くの・・・〉
沙魚丸は村の方を見るふりをして、遠い目をする。
30半ばのオッサンの悩みを聞かなければいけない可哀そうな私、と思いを込めて。
「もう少し歩く速度を上げていいですか。」
「結構です。最初に申しておきますが、拙僧の悩みとは書付の如き些末なことではありません。」
〈書付が些末・・・。あぁ、嫌だ。聞きたくないよぉ。小次郎さんと一緒に行けばよかった。一体、何を言うのかしら。〉
沙魚丸はごくりと唾を飲み込んだ。




