薩婆訶(ソワカ)
ギィィィ
持仏堂の扉が開く音に目を覚ました和尚はむっくりと起き上がった。
目をしばたかせ、入って来た人物をぼんやりと見ていた和尚は、「ははっ。」と笑う。
「誰かと思えば、ハゼ殿でしたか。」
板の間に寝転んでいた和尚はあくびをかみ殺す。
驚かさんで下さい、と涎を拭う和尚に沙魚丸は軽蔑の眼差しを向ける。
「和尚さん、さっき、祈るって言いましたよね。」
「あー、言いましたっけ。」
首を何度も傾げる和尚の元へ沙魚丸はずかずかと草鞋のまま乗り込む。
沙魚丸は腕を組んで和尚を見下ろした。
〈性格最悪のくせに愛くるしい目って何なのよ。〉
むかむかして来た沙魚丸は、ぺしんと和尚の禿げ頭を叩く。
「この似非坊主!」
「師に向かって何たることを。ハゼ殿はもう少し、いや、もっと師を敬う御心を持たなければいけません。さもなくば、仏罰が下りますぞ。」
「仏罰ねぇ・・・」
ジト目の沙魚丸に和尚はニヤリと笑う。
ジャララ、と数珠を握った和尚は笑みを浮かべる。
「拙僧は仏罰を下せるのですよ。今すぐ私を敬うと言うのなら、許して差し上げます。」
「人情を忘れた坊主を敬う心などありません。その仏罰とやら、下してみなさい。」
沙魚丸の強気な態度にほんの少し怯んだ和尚だが、喧嘩は引いた方が負け。
やらいでか、と和尚は立ち上がった。
「拙僧の法力によって、ハゼ殿を魚に変えてみせましょう。謝りますか?」
「面白い。私が魚になったら刺身で食っていいですよ。」
どっかりと沙魚丸は座った。
〈おかしい。いつものハゼ殿ではない。拙僧が仏罰と言えば、ぶるぶると震えていたはず。〉
いつもと違う沙魚丸を訝しむ和尚だが、印を結び、呪文を唱え始める。
ブツブツと呪文を繰り返し、ジャラジャラと数珠を振り回した和尚は、目をカッと見開き、数珠を高々と掲げ、
薩婆訶!
と叫んだ。
そして、力を使い果たしたように和尚は崩れ落ちた。
「坊主より役者が向いてるんじゃない・・・」
呟いた沙魚丸は鼻息荒く立ち上がる。
パン、パンと顔や体を沙魚丸は叩く。
〈うん。魚じゃない。〉
ふははは、と沙魚丸は高らかに笑う。
「和尚さんは仏罰を起こせない!」
ビシッと指をさす沙魚丸に、なぜか和尚は満足そうな笑みを浮かべる。
〈もしかして、ショックで頭がおかしくなった?〉
やり過ぎたかしら、と沙魚丸は動揺する。
「ハゼ殿。よくぞ拙僧の法力を破られました。もう、拙僧が教えることは何もありませんな。」
はっはっは、と豪快に笑う和尚に沙魚丸は天を仰ぐ。
〈そうよ、そうなのよ。こういう奴なのよ。こんな似非坊主を心配するだけ損なのよ。〉
チッ、と盛大な舌打ちをした沙魚丸は声を荒げる。
「私は仏罰なんて、まったく信じていません。今まで怯えていたのは演技です。」
「御仏を信じない・・・。何と憐れな。ハゼ殿の御心がそれほど荒んでいたとは露知らず、拙僧は・・・」
「そういうのはもういいです。そもそも、和尚さんが仏様を信じてませんよね。」
和尚は返事をしない代わりに、舌をぺろりと出した。
〈おっさんの『舌ぺろ』とか見たくなかったなぁ。〉
ため息をついた沙魚丸の前に、興味津々な表情の和尚が座った。
「今の呪文、適当ですよね。」
「おや、分かりましたか。」
「密教法力を修めた話を和尚さんから聞いたことがありません。」
「あれは秘事ですからなぁ。」
とぼける和尚に沙魚丸は乾いた笑いを浮かべた。
「あり得ないです。和尚さんはどんな些細なことでも私に自慢してきましたよ。」
「確かに。」
「それに、和尚さんは学究肌です。私に教えているのも内政や軍事のことですよ。超自然的なことは何一つ教わったことがありません。」
「ふむ。その観察眼、やはり拙僧が見込んだだけのことはありますね。」
和尚は満足そうに頷く。
〈あー、もう。こんな無駄話してる場合じゃないのよ。〉
沙魚丸は話題を切り替える。
「疱瘡の快癒を祈るって言ったのに、どうして寝てるんですか。」
沙魚丸の問いに和尚は不思議な表情を浮かべる。
「はて。疱瘡は祈っても治らないと教えたでしょう。」
「えぇ、えぇ。教えていただきました。でも、和尚さんは痩せても枯れても僧侶でしょ。祈る義務があるでしょ。」
「拙僧の先ほどの発言は撤回ですな。ハゼ殿にはまだまだ教えることがたくさんあると分かりました。無駄なことに時間を割いているぐらいなら、寝ている方がよほどいいのです。田舎の3年・・・」
大真面目な顔で説教を始めようとする和尚の口を手で押さえた沙魚丸は、ギラリと和尚を睨む。
「もういいです。私まで人でなしにするつもりですか。」
こくこくと頷いた和尚に沙魚丸は用件を話すことにした。
「手伝ってください。」
「ハゼ殿のお手伝いとは光栄ですね。何でもいたしましょう。」
ニコニコ顔の和尚を見て、沙魚丸はスンとなる。
〈嘘つき。話を聞いたら逃げるくせに。〉
沙魚丸は和尚が逃げ出さないように、和尚の袂をしっかりと握った。
「和尚さんは、都で医師でもあったのですよね。」
「拙僧ぐらいの僧になると、医師もしないといけないのです。都では博学多才と評判でした。」
哀しげな表情を浮かべつつ、実のところ自慢しか語っていない和尚は、何かに気づいたようにハッと表情を変える。
「もしや、疱瘡の治療に行けと・・・」
「その通りです。」
ガックリと肩を落とした和尚が、ムリムリと手を振る。
「ハゼ殿。申したでしょう。疱瘡は治せないと。」
「そうですね。」
沙魚丸の顔をじっと見た和尚は、やれやれと肩をすくめる。
「かないませんなぁ・・・。その悪いお顔、何か企んでいるのですね。」
「都の医師であった和尚さんの助けが必要なんです。」
「分かりました。御命令とあらば、家臣である拙僧に拒否権はございません。さぁ、何でもどうぞ。」
「一々、大袈裟ですね。」
ドンと胸を叩いた和尚に沙魚丸は苦笑いを浮かべる。
そして、沙魚丸は和尚に牛痘接種法の説明を始める。
沙魚丸が話をしている間、和尚はずっとツルツルの頭をペシペシ叩きながら聞いていた。
〈和尚さんは難題が起きた時はいつも頭を叩くのよね。一休さんもどきね。〉
叩きすぎて真っ赤になった頭を見て、タコみたいだなと思う。
「一度疱瘡にかかった者は疱瘡にならない。これは、都で拙僧も学びました。しかし・・・」
牛痘法ねぇ、と大きなため息を吐いた和尚は言葉を続ける。
「拙僧が学んだ大陸の医学にも疱瘡の予防法はあります。ただし、使うのは牛ではありません。人です。」
疱瘡にかかった者のかさぶたを健康な者の傷口に塗布し、軽い疱瘡を発症させれば二度と疱瘡にはならないと言う方法がある、と和尚は口にする。
「この方法を人痘法と言います。しかし、この方法は一歩間違えれば、健康な者が本格的な疱瘡にかかり、死に至ることがあります。いえ、疱瘡だけではなく別の病気になることもあるのです。」
目を据えて話を聞く沙魚丸に和尚は、ご存じなようですね、と呟く。
「人痘法ですらそうなのです。牛の病気を使う牛痘法など、よほど豪胆なものでも顔を真っ青にして逃げ出しますよ。」
いつも飄々としている和尚が、いつになく真剣である。
〈やめようよ、って言いたいんだろうなぁ・・・。でも、逃がさないわよ。〉
それでも、やるのです、と言い切った沙魚丸に和尚は頭を抱える。
「雨情様からお許しをいただいたのですか。」
「幸か不幸か、叔父上は領内におりません。」
〈和尚には、不幸なのだろうけど。おほほ。〉
そう言えば、と膝を打った沙魚丸がニッコリ笑う。
「木蓮さんもいませんね。」
「そうなのですか・・・。私の袂を握ったのは何かと思いましたが、逃亡阻止のためですか。」
沙魚丸の無茶を止める者が誰もいないことが分かった和尚は恨めしそうな視線を沙魚丸に向ける。
「沙魚丸様に牛の病気を植えた罪で、打ち首になるとかご免なのですが・・・」
「心配いりません。私の命令で仕方なくやった、と叔父上に言えば大丈夫ですから。」
和尚は首を横に振る。
「口約束を信じてはなりません、と何度も申し上げたでしょう。まぁ、今回は書付にしても意味は無いかもしれませんが・・・」
胸元から紙を取り出した和尚はバサッと紙を広げる。
紙をバンバン叩きながら、沙魚丸にグイッと迫る。
「今の約束を書付にしてください。拙僧は嫌で嫌で仕方ないのに、ハゼ殿に無理矢理やらされたと言うことを・・・」
かくして、二人は大木村へと出発する。
和尚にやたらと敵意むき出しのうら若き女性から一頭の牛を受け取って。