嫁取り
〈沙魚丸様の補佐だけは絶対にお断りしなくては!〉
意を決して顔を上げてみたが、由北の口はパクパクと虚しく上下に開くだけで肝心の言葉が一つも出てこない。
由北は自分の情けなさがほとほと嫌になる。
〈小心者の上に臆病者の由北。早く声を出せ。ここでお断りせねば、家族が難事に巻き込まれる。〉
だが、由北が焦れば焦るほど、逆に言葉が出てこない。
由北は小心者ではあるが、戦場経験もある一廉の武士である。
本人が自嘲するほどの小心者では無いし、まして臆病者でもない。
いざとなった時の胆力は同輩も一目置いているほどの男なのだ。
では、なぜ、由北の口から言葉が出ないのか。
それは、心服している主君から直々に命じられたからである。
いつもの由北であれば、それだけで感激して号泣するだろう。
細やかな心情を持つ由北が雨情の命令をきっぱりと断るなど、土台無理な話のだ。
わなわなと体を震わせ、真っ青な顔色で何か言いたげにしている由北を見ていた雨情は、脇息を体の前に持ってきた。
そして、脇息に肘を置き、顔の前で手を組んだ雨情は、ゆっくりと穏やかに由北に言葉をかける。
「由北、深呼吸をしろ。ちゃんと聞いてやるから、まずは落ち着け。」
心地よく響く雨情の低音の声に由北は少し落ち着きを取り戻す。
〈お言葉に甘えます。深呼吸をして、気を静めよう。〉
由北は大きく深呼吸を始める。
だが、少々、急ぎ過ぎた。
由北は激しくせき込み始める。
涙を流しながらせき込む由北を苦笑して見守っていた雨情だが、突如として晴れやかな表情になると、なるほどと言って、ポンと一つ手を打った。
「分かったぞ、由北。お前、どこからか沙魚丸の噂を聞いたのだな。」
やっとのことで、せき込むのを終えた由北だが、苦しい息遣いのせいで相変わらず声が出せない。
〈さすが、雨情様。何も申し上げなくても、私の申し上げたいことをご理解していらっしゃる。〉
うっすらと涙を浮かべコクコクと頷く由北に雨情もうんうんと頷きながら言うのだ。
「お前が聞いた噂と言うのはあれだ。『沙魚丸は底抜けの大うつけ』、と言ったところか。」
「はっ、はい。」
上ずった声で答えた由北に雨情は目をつぶり頷いた。
「お前の言いたいことは分かった。」
思い悩むように話す雨情に由北は思わずひれ伏した。
「申し訳ございません。」
「いや、儂が悪かった。お前の気持ちも考えず、唐突に命じて悪かった。」
由北は頭を畳にこすりつけ、静かに泣いた。
〈これは、謝らねば・・・。雨情様が私ごときに謝罪の言葉をお口にされるなど、あってはならない。〉
由北は謝ろうと思うが、泣いている顔を雨情に見られるわけにはいかない。
由北も武士の端くれなのだ。
「先にこちらの話をすべきだったな。お前には特別手当を払うつもりだ。沙魚丸のような悪童を相手にするのだからな。いや、すまんかった。」
申し訳なさそうに話す雨情の言葉に由北の涙はピタリと止まる。
〈特別手当・・・。そんな話はしていないのですが。いや、聞き間違いかもしれない。〉
こうなっては泣いている表情がどうのこうのと言っていられない。
〈聞き間違いかどうか、お聞きせねば。〉
はっと頭を上げた由北を見た雨情は、カカ、と笑う。
「何だ、お前。泣くほど嬉しかったのか。特別手当の内容も聞かずに泣くとは、相変わらずの粗忽者だな。」
「あっ、いいえ。是非お聞かせ願えませんでしょうか。」
そう、由北は雨情が何を言ったのかもう一度言ってくれと言う意味で言った。
だが、雨情は由北の言葉を見事に取り違える。
ニヤリと笑った雨情は、特別手当の中身を誇らしげに明かす。
「聞いて驚け。お前の嫁が決まったぞ。」
「ええっ。」
予想外の展開に由北は硬直する。
予想通りの由北の反応に雨情はご満悦の表情を浮かべる。
由北は主君の前であることを忘れるぐらいに驚いていたのだ。
実を言うと、由北は怪我をして以来、結婚を諦めていた。
茫然自失の由北をさらに驚かす言葉を雨情は続ける。
「お前を好いた娘が現れたのだ。よかったな。」
ニヤニヤ話す雨情。
〈もしや、戯れておいでなのか。であれば、雨情様と言えど酷すぎる。〉
顔を真っ赤にして抗議しようとする由北だが、主君への抗議などやったこともないので、何と言っていいか分からないし、言い方の加減も判断できない。
しどろもどろに話そうとする由北の言葉を雨情は待たない。
「そうか。そんなに真っ赤になるほど嬉しいとは、儂も嬉しいぞ。儂もお前の将来については心配しておったのだ。」
雨情の言葉を腹の底で受け止めた由北は、雨情が自分をからかっているのではないと理解した。
降って湧いたような幸運話を信じられない由北はぼそぼそと言葉を出した。
「ですが、私を好いてくれる娘がいるはずは・・・」
うなだれる由北を励ますような雨情の快活な笑い声が飛ぶ。
顔を上げた由北に雨情が微笑んだ。
「お前の魅力を理解する者がいた。それだけの話だ。」
「ですが、今までそのような話は一度もありませんでした。」
「うむ。儂も悔しい。当家の女子共はお前の魅力についぞ気がつかぬ者ばかりで、当主として実に悲しい思いであった。」
「あの、おっしゃっている意味が分からないのですが・・・」
「鈍いやつだ。新しく当家に来た者の中にお前に惚れた者がいたのだ。いや、大した女子だ。これが、当家の女子ならばもっと嬉しかったのだが。」
もはや、沙魚丸のことなど由北の頭からはすっかり消え去っていた。
諦めきっていた嫁取りの話が突然もたらされたのだから。
「もしや、私がお世話をした御方でしょうか。」
由北は一人の女性を思い浮かべていた。
一目惚れだった。
だが、かなわぬ恋であると思い、諦めていた。
諦めたとはいえ、惚れた相手のために由北は少しでも役に立ちたいと思った。
だから、開拓の手伝いに励みたかったのだ。
由北が沙魚丸の手伝いを厭う理由の一つでもあった。
〈神様。雨情様があの御方のお名前を申されますように。〉
秘めた想いを宿す由北の真剣な眼差しを見て雨情は思うのだ。
〈土や草と添い遂げるつもりかと思っておったが、いやはや、人と言うのは分からん。これほどの熱情を瞳に浮かべるとはなぁ。〉
雨情は懐から書付を取りだし、女性の名を改めて確認した。
「沙魚丸の配下に新しく隅小沢一族が加わったのは知っておるか。」
由北の心臓がドキリと跳ね上がる。
〈知っているに決まっております。私の惚れた女子は隅小沢一族の一人でございます。どうか、持ち上げてから奈落へと突き落とすのだけはご勘弁を。〉
どんどん速くなる鼓動にあわせて、由北は返事をしようと口を開く。
「もっ、もっ、もっ、いたっ。」
「だから、慌てるなと言っておろう。何だ、舌を噛んだのか。忙しいやつだ。」
「申し訳ございません。隅小沢一族のことはよく存じ上げております。」
「あぁ、そうだったな。お前の担当は隅小沢一族だったか。お前の相手はその中におる。よかったな。」
ニコニコと笑う雨情の言葉がうまく耳に入って来ない由北は焦る。
〈範囲が広すぎます。年頃の女子は一族に何人もおりました。早く名をお教えください。これでは蛇の生殺しでございます。〉
「その一族にだな、三輪笙と言う者がいるのだが・・・。おい、どうした、大丈夫か。」
三輪の名前が出た時、由北の興奮は頂点に達した。
由北は心の中で勝利の雄叫びを上げると、不意に目の前が真っ暗になった。
ふらり、と由北は倒れてしまった。
慌てて、由北を抱き起した雨情が大声を上げる。
「おい、どうした。しっかりせい。」
「だっ、大丈夫でございます。どうか、相手のお名前をお教えください。」
抱きかかえられながら、由北は震える声で雨情に頼み込む。
雨情に手を合わせる由北は思うのだ。
三輪笙は、ぶっちゃけどうでもいい。
いや、素晴らしい人物で、実に好ましい人だとは思う。
だが、今はそれどころでは無いのだ。
由北にとって、三輪と言えば、妹のお沢を指す。
〈これで、お沢様のお名前が出れば、死んでもいい。〉
由北の心臓は破裂するかと思うほど、バクバクと動いている。
抱きかかえられたまま、くわっと目を見開き、瞬き一つすることなしにガン見してくる由北を見た雨情は心の底から呆れた。
〈こいつ、ここまで結婚願望があったのか。〉
ため息を一つ漏らした雨情は心配して損したとばかりに、由北をポイっと床に転がし、座りなおした。
そして、静かに相手の名を告げる。
「お前の相手は、三輪笙の妹で名をお沢と言う。」
跳ね起きた由北は、飛び上がって喜ぶ。
数度、奇声を上げ、はしゃぎ回った後、ようやく自我を取り戻したのか、体を小さくして平伏した。
「お見苦しいところをお見せし、申し訳ございません。」
「まぁ、よい。新しいお前を見れて大変面白かった。」
「言葉もございません。」
平謝りに謝る由北を見て、雨情は笑った。
「それで、お前はどう思ったのだ。」
「はい、三輪殿は実に素晴らしきお方で、ものづくりにあれほどの情熱を・・・」
「違う。お沢だ。お沢について、どう思ったのかを言えと申しておるのだ。」
「あっ、失礼いたしました。その・・・」
顔を赤らめ、もじもじと指遊びを始める由北を雨情は一喝する。
「じれったい。早く言え。」
「とてもはきはきとした・・・、その、可愛らしいお方で・・・」
「うむ、それで。」
「あの、私にはもったいないほどの御方かと・・・」
「よし。では、決まりだ。三輪には承知したと伝えておく。お沢がお前と添い遂げたいと言い出したらしいからな。隅小沢の家風か知らぬが、気っぷのいい女子で良かったな。」
「ありがとうございます。」
思わず平伏した由北に雨情がしみじみと言う。
「最初が肝心だからな。一旦、尻に敷かれると、以降ずっと、立場は逆転できんぞ。がんばれよ。」
雨情の言葉を由北はまんじりともせず平伏したまま聞いていた。
〈沈黙は金。沈黙は金。〉
由北は心の中で言葉を繰り返す。
雨情が恐妻家なのは、常盤木家では有名だったが、『雨情様は有紀様が怖いですか?』などと面と向かって主君に言える者などいるはずがない。
常盤木家の家臣ならば、当たり前の話である。
「そんな訳だ。沙魚丸のことも頼んだぞ。」
「あっ、それは・・・」
「なんだ、まだ、褒美に不満があるのか。欲深いとしっぺ返しがあるぞ。」
「いえ、そんなことはございません。」
〈終わった、断る機会を逸した。嫁取りの話で有頂天になってしまった・・・。しかし、お沢様が私の連れ合いに・・・〉
にやける由北を見て、雨情はこれ見よがしにため息をついた。
「仕方ない。本来ならば、沙魚丸から話すのが筋ではあるが、少しばかり話しておこう。」
「はぁ・・・」
「そう、怯えるな。沙魚丸が申した石臼の必要性について、お前に申しておく。」
〈そう言えば、石臼の用途を聞いていなかったな。うつけ様のお道楽でなければ良いのだが・・・〉
由北は不信感たっぷりに雨情の話を聞いた。
雨情の話が進むにつれ、由北の胸は感動で高鳴っていく。
「石臼があれば、飢饉対策になるのでございますか。」
雨情の話が終わった時、にじりよって聞いてしまうほどに。
「あいつの話からすると、粉食にするとだな、今まで食べれずに捨てていたようなものも食べれるようになるらしい。やってみないと分からんがな。」
「試す価値はあるかと思います。」
由北は言われて気づいたのだ。
粉食による飢饉対策に。
「どうだ。やる気になったか。」
由北の気持ちを見透かすように話す雨情に由北は力強く答える。
「もちろんです。飢饉対策の一助となるものを私がやらねば誰がやりましょう。私にお声がけいただき、ありがとうございます。それで、沙魚丸様は今どこに。是非、今後のことをお話したいと思います。」
雨情は呆れるように由北を見る。
「何だ、お前。さっきと全然態度が違うではないか。そんなに嫁取りが嬉しかったのか。張り切りすぎると嫁が逃げるぞ。」
「違います。いえ、嬉しいですが・・・。農政担当の一人として、領内の者が飢えずに済むならばこれほど嬉しい話はございません。」
「そうだな。沙魚丸も飢えの無い国にしたいとほざいておった。」
「なんと。」
由北は驚いた。
大きく目を見開いている由北に雨情は楽し気に話す。
「お前と沙魚丸は相性がいいはずだ。目指すところは同じだからな。」
「はい。」
「沙魚丸に関して、一つ注意しておく。」
不安そうな表情を浮かべる雨情に、由北もごくりと唾を飲み込む。
「あいつは色々と考えているかもしれんが、実は・・・」
雨情は言葉を選んでいるようだが、思いつかなかったのか眉間に皺をよせて続きを話す。
「何も考えておらんかもしれん・・・」
そんなぁ・・・、と言う由北の間抜けな顔を見て雨情は高らかに笑う。
「まぁ、騙されたと思ってやってみろ。理解の及ばない考えをする者の下で働くと思わぬ発見があるものだ。」
主君にここまで言われては、由北も頷くしかない。
〈しかし、家中の者は沙魚丸様を大うつけと言っているし、本当に大丈夫なのだろうか。いや、沙魚丸様のご覚悟はご立派であるし・・・。うーん、困ったな。〉
由北は善後策を考えつつ、茶臼のことを思い出す。
いつだったか、由北は紅雨に命じられて茶臼の掃除をしたことがある。
上下に分けた茶臼には綺麗な溝が掘られていた。
その時の感動がよみがえり、すぐに絶望へと変わる。
〈あれを当地で作るのか。当家には石を専門に扱う石切りがいないことは、雨情様もご承知のはず。当家の者では石を選ぶのも至難の業。あのような精緻な溝を掘るとなると・・・〉
表情を強張らせた由北は恐る恐る尋ねる。
「石臼ができなかった場合は、どうなるのでしょうか。」
一目惚れの相手と結婚できるのに、石臼造り失敗の責任を取って、切腹を命じられては堪らない。
不安しかないと言った声音を出す由北の質問に雨情がニヤリと笑う。
「安心しろ。沙魚丸は失敗を糧に成功を手繰り寄せようとする小僧だ。それにな、石臼造りはあいつなりに目算が立っているようだぞ。」
雨情の忠告に由北は驚く。
〈雨情様がこれほどご信頼されるとは・・・。もしかして、沙魚丸様とは大うつけ様では無い。〉
うーん、と困ったように難しい顔をする由北を笑いながら見た雨情は言葉を重ねる。
「沙魚丸と一緒にいるのが苦痛であれば、すぐに言え。貴様も我が家の宝だからな。宝の調子が悪くなるのを放っておく馬鹿な主君になりたくはないからな。」
ニヤリと笑う雨情に由北は表情を明るくして頭を下げた。
こうして、雨情の説得により沙魚丸は心強い助っ人を手に入れた。
常盤木家領内のどこに何があるのかを全て知悉した男を。




