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ウインク

うっすらと目を開けた沙魚丸だが、意識は朦朧として未だ夢心地である。

〈御二柱様とも美しかったなぁ・・・〉


ぽけーっと口を半開きにした沙魚丸の耳元で何か声がする。

なんとも甘く、それでいて(はかな)げな声に沙魚丸は覚醒した。


「お目覚めですか。」


ゾクゾクッと体中に快感が走った。

〈やばい。なんてセクシーな声なの・・・。男をダメにする声ってこれね。〉

心の中で深く頷いた沙魚丸だが、正しくは違う。


男になってわずかしか経験のない沙魚丸には分からなかったが、

『こいつ、俺に惚れてやがる。』

と思わせる女の声に男はころころっとやられるのだ。

そう、それが演技であったとしても・・・


この女の声は沙魚丸を深く慕い発せられたものであった。

女にとって憐れなのは、当の沙魚丸がセクシーな声としか思わなかったことだろう。


勘違いした沙魚丸は、どんな女性なのかしらと声の主を見た。

だが、それも仕方がないのかもしれない。

前の世の沙魚丸は妖艶な声優の声だけでご飯三杯はいける口であったから・・・


「沙魚丸様。ご気分はいかがですか。気持ち悪くないですか。」


沙魚丸の顔を不安げに見ている女性は、まさに儚げ女子そのもの。

謎めいた雰囲気を漂わせ、守ってあげたくなるような姿に沙魚丸は目をぱちくりとする。


〈声だけかと思ったら、容姿までとは・・・。羨ましい。ところで、この女性は誰かしら。ただのお女中さんではないよね。目がものすごく私を心配しているけど・・・。うーん、知らないなぁ。沙魚丸君の知り合いかしら。だとしたら、とってもマズいわね。〉


沙魚丸は知っている。

名刺交換した後に、再びあった人の名前を忘れていた時に勃発する悲劇を。

たった一回挨拶した人間ですら、そうなのだ。

仲のいい人間であれば、さらなる惨劇が起きることは自明である。

まして、男と女。

修羅場は間違いない。


〈心して答えないと。〉

沙魚丸は焦る。

だが、どんなに必死で思い出そうとしても、元沙魚丸の記憶をどんなに探っても、目の前の女性のことは影も形も出てこない。


〈あなたにミステリアスレディの称号を与えましょう。〉

ふっ、と弱々しく笑った沙魚丸は思考を放棄した。


〈よし。具合の悪いふりをして、もう一度寝よう。源之進さんが来たら、コッソリこの人のことを教えてもらえばいいわ。〉

沙魚丸が得意の後回し作戦を発動しようとした時、しゃなりと座っていた女性が哀愁に満ちた顔で呟いた。


「もしや、私のことをお忘れですか・・・」


妖艶な女性から上目遣いに言われて、心が揺らがない男はいないだろう。


そう、男だったら・・・

だが、今の沙魚丸の心は乙女である。


女性に言い寄られてもびくともしない。

いや、かなり嬉しいが、男のように鼻の下を伸ばしてウホホとはならない。


〈男だったら、絶対にアウトね。こんな素敵な女性に言い寄られたら、下心満載の政治家じゃなくても一発アウトよ。怖いわぁ。私も領主になるのだから気をつけないと。〉

ぶるっと身震いした沙魚丸だが、少し考えて、いよいよ諦めることにした。


「すいません。どなたでしたっけ。」


正直に聞くことにした。

『正直こそ最強!』

沙魚丸が前の世で会得した必殺技である。


沙魚丸は恋愛において百戦錬磨ではない。

それどころか、一戦すらしたことがないのだ。


〈こういう時に知ったかぶりをすると、後で厄介になるのは、経理職で体験済みよ。〉


『数円違うぐらい大丈夫でしょ。』と経理職に就いて間もないころの沙魚丸は、見直しもなおざりにどんどん仕事を進めたことがあった。

周囲から、初めてなのに早いねぇ、とか、経理の申し子じゃないの、とか褒められて舞い上がってしまった沙魚丸は脇目も振らず仕事を前へ前へと進めた。

結果、すべてをやり直しになったという痛い思い出がある。

それよりも心に突き刺さっているのは、優しい言葉をかけてくれながらやり直しにつきあってくれた先輩の疲れ切った横顔である。

お調子者の沙魚丸は、この手の失敗を何度もしでかした。

まさに黒歴史である。


だから、沙魚丸は聞いた。

しかし、ここで沙魚丸に予想外のことが起きる。

正直は最強ではなかったのだ・・・


女性は強い衝撃を受けた表情になって

「まぁ・・・」

と、言ったきり黙って(うつむ)いてしまった。


しまった、と思った沙魚丸だが、時間を戻せるわけもない。

〈重い。空気が重い・・・。誰か来て。〉

沙魚丸は泣きそうな顔で助けを求める。


「沙魚丸様。起きたのね。」


〈おお。天の助け。〉

沙魚丸は声の主に顔を向けた。


カブト虫を取りに行く約束をしたお勝が、なぜか厳めしい顔で仁王立ちしていた。


沙魚丸と俯いている女性を交互に何度か見比べて、にこっと笑ったお勝が

「ごめんなさい。」

と一礼すると(きびす)を返し行ってしまった。


〈どうして・・・〉

思わず伸ばした沙魚丸の手は宙をさまよう。


そのまま永遠に続くかと思われる沈黙に耐えきれず、うわぁ、と叫びそうになった沙魚丸に

「まぁ、よかった。お起きになられたのですね。」

明るい声でひょっこり現れたのはお辰である。


沙魚丸は、自らの早合点を反省する。

〈なんだ。お勝ちゃんはお辰様を呼びに行っていただけなのね。『ごめんなさい』なんて言いうから勘違いしちゃったわ。あの年頃はおませさんだしね。〉


二人の邪魔をしてはいけないと思ったのか。

それとも

邪魔をするためにお辰を呼んだのか。

その答えはお勝に聞かなければいけないが、ここでは触れない。


救われたように沙魚丸はホッとした声で話す。


「私は、どうしてここに寝ているのでしょうか。」


〈理由を聞けば、この女性の正体も分かるよね。〉

沙魚丸は女性を視界に入れないようにお辰の顔を真剣に見る。

そうすれば、たとえ視界に入ってもぼやけるから大丈夫なのだ。


「あら。覚えてらっしゃらないのね。雨情様から直々にご指導いただけると聞いた沙魚丸様は嬉しさのあまり意識を失われたのですよ。」


沙魚丸は笑うしかなかった。

〈そういうことになってるのね。しごきが嫌で倒れたよりはマシなのかな。今から考えると、私が意識を失ったのって、女神様の差配なのかな。〉


乾いた笑い声を上げる沙魚丸の前にお辰が座り、隣の女性に声をかけた。


四葩(よひら)さん。沙魚丸様を見ていただいて助かりました。ありがとう。」


お辰の言葉に沙魚丸は仰天する。

〈えっ、何て言ったの。四葩さん・・・。大木村の忍びの四葩さんですと?〉


思わず沙魚丸は俯いている女性の顔を見ようと首を勢いよく回した。

回した先にはニコニコと笑う女性がいた。

〈あれ、俯いていたのに・・・。笑ってる?〉


「お久しぶりです、沙魚丸様。私をお忘れになるなんてひどうございます。」


「あらあら。沙魚丸様がこんな美人を忘れるわけがないわ。きっと照れてらっしゃるのよ。」


お辰が優しく四葩に言うと、

「大木村でお手付きになりました時は、ろくに顔すら見ずにお別れとなりましたので心配しておりました。でも、照れてらっしゃったのですね。よかった。」

と言って、頬を赤く染めて四葩は微笑んだ。


その瞬間、空気が凍った。


「見かけによらず、手が早いのね・・・」


お辰が真剣な面持(おもも)ちで呟く。


〈お手付きって、ちょっと何を言ってるの。〉

唖然と四葩を見た沙魚丸は、四葩が小さく舌を出したのを見た。


〈あの茶目っ気あふれる顔は、確かに四葩さん。本当にこの人すごいわね。全然分からなかったわ。〉

お手付きなどと嘘を言った理由を問いただすことすら忘れて、沙魚丸は四葩の変装に感心するのであった。


「沙魚丸様に早くお会いしたかったのです。」


しだれかかってくる四葩の肩をはっしとつかんだ沙魚丸は、

「冗談が過ぎますよ。ほら、お辰様に早く本当のことを言ってください。すごい早口でぶつぶつ言ってるじゃないですか。」

と、必死の形相で沙魚丸が言う。


うふ、とかわいらしく笑った四葩が姿勢を正す。


「沙魚丸様が悪いのです。あたしを忘れるから、ちょっとだけ意地悪してみました。」


「いや、四葩さんって分かるわけないでしょ。村にいた時とまったく容姿が違いますよ。いいえ、容姿どころの話ではないです。何もかも違います。」


「嬉しい。沙魚丸様に褒めてもらったわ。」


袂で口を押さえ色っぽく喜ぶ四葩を見て、沙魚丸は思った。

〈この人は野放しにしておくと、男性被害がヤバいわね・・・〉


ふぅ、驚いた、と小声で呟いたお辰がさらに意味深なことを呟く。

「沙魚丸様の乳母はまだ教育をしていないのかしら・・・」


「あの、お辰様。どうかしましたか。」


妄想に取り憑かれているような雰囲気のお辰に沙魚丸はこわごわと声をかけると、お辰はいつもの優し気な笑顔となった。


「おほほ。ごめんなさい。ちょっと、くだらないことを考えていたわ。それにしても、沙魚丸様は何度お声をかけてもまったく起きてくださらなかったのよ。いい夢をご覧になれましたか。」


〈夢・・・。あれはいい夢なのかしら。〉

二柱との宴を思い出し小首を捻った沙魚丸は

「どうでしょう。」

と答えた。


「私も沙魚丸様の御様子を見ておりました。とても楽しそうに笑っていらっしゃった時もあったので、いい夢かなと思ったのですけど。」


沙魚丸の口元は思わずひくっと動いた。

〈それって、変な人よね。〉


「私は寝ながら笑っていましたか。」


「ええ。とっても楽しそうに。それから、苦し気なお顔もされたり、泣いたりと、あまりにご様子がくるくると変わるものだから、いつもこのようにお眠りなのですかと小次郎様にお聞きしてしまいましたわ。」


すると、突然、何かを思い出したようにお辰は笑い出す。


「小次郎様ったらね。大真面目なお顔で言うのですよ。夢の中で女神様に会ってらっしゃるのだと思います、って。」


沙魚丸の顔は真顔になった。

〈よく分かるわね。さすが、小次郎さん。恐るべし・・・。小次郎さんには嘘はつかないでおこう。〉


「沙魚丸様の御家中の方々は、皆様冗談がお好きなのね。明るい御家となりそうで羨ましいわ。」


そういってお辰は微笑んだ。

〈いいえ、冗談では無いのですが。まぁ、女神様のことは言わない方がいいでしょうね。〉


あはは、と愛想笑いを返す沙魚丸だが、背中に悪寒が走る。

〈何かヤバい者が近づいて来るわ。〉

沙魚丸は災いに敏感な体になりつつある。

どしどしと音がして、床が揺れる。


「起きたか、沙魚丸。」


「はい、起きました。」


慌てて姿勢を正した沙魚丸は、目の前にどっかと座った雨情に頭を下げる。


「ご心配をおかけして申し訳ございません。この通り、沙魚丸は元気でございます。」


「うむ。それは何より。」


そう言った雨情は、お辰と四葩に頭を下げた。


「我が甥の面倒を見て下さり、お辰様とそこのお女中に心から感謝申し上げる。」


沙魚丸は驚いて四葩を見た。

〈四葩さん。叔父上を完全に(あざむ)いてる。こっわぁ・・・〉


四葩は沙魚丸に軽く片目をつぶって見せた。

〈はい。四葩さんは、ウインク禁止ね。〉

四葩のウインクが何人の男の心を狂わせるかを心配した沙魚丸は四葩禁止ノートを作ろうと決意した。


「さて、御二方には申し訳ないが、ちと甥に話がある。席を外してもらえるとありがたい。」


雨情の言葉に従った二人は頭を下げ、座敷から出て行った。

二人の背中を見送った雨情は、沙魚丸をじろりと睨み話し出した。


「これしきの戦で丸一日も寝込むなど情けない。お前の行く末が不安でしょうがない。」


「はい。申し訳ございません。」


じっと沙魚丸の顔を見た雨情がひげに手をやった。


「聞いて驚くな。昨晩、儂が寝ていると女神様が現れ、神託を授かったのだ。」


〈秋夜叉姫様ったら、本当に神託を授けたのね。どんな神託を授けたのかしら。〉

ヤバいのは止めて下さいね、と祈る沙魚丸はゴクリと生唾を飲み込んだ。


「儂の領地でお前を鍛えると言ったのは覚えておろうな。」


「もちろんです。」


〈ちっ。忘れてなかったか。〉

しごきが無くなるのを期待していた沙魚丸だが、雨情の渋い声が続く。


「儂はな、半年もあれば、お前は立派な領主になると思っておったのだ。だがな・・・」


〈半年は長いわよ。普通、七日間ぐらいでしょ。もしかして、秋夜叉姫様がご神託を使って短くしてくれたのかしら。あぁ、さすが私の女神様。〉

手を合わせそうになる沙魚丸に雨情がニヤリと笑う。


「女神様は、お前を三年間みっちりと足腰が立たなくなるまで鍛えてやれと申されるのだ。元服も三年後にしろとおっしゃった。女神様のご神託では従わぬわけにはいかぬ。よかったな、沙魚丸。」


ばんと肩を叩かれた沙魚丸は涙目となった。

〈嘘よ。秋夜叉姫様がそんなこと言うはずないでしょ。叔父上、勝手に話を作ったわね。〉

ぎゅっとこぶしを握り締めた沙魚丸は絞り出すように言葉を出した。


「叔父上。大変うれしく思います。ですが、女神様とやらは夢では・・・」

と言い終わらぬうちに、ギラっと睨まれた沙魚丸は声をしぼませる。


「儂は夢など見ん。あのような美しい女神様が夢なわけがあるか。しかも、目覚めた儂の枕元に刀が置いてあった。名を抜丸と言うらしい。お前が抜けているからかと思ったが、立派な(いわ)れがあるらしい。お前が頼もしき男となった時、儂の手から渡せと申された。」


そう言って、雨情は手にした刀をずいっと沙魚丸の鼻先に押し付けた。

〈これは、まさしく抜丸・・・。あぁ、女神様。私は褒められて伸びるタイプなんですが・・・〉


沙魚丸は、はっとした。

〈分かったわ。『可愛い子には旅をさせよ』と言うことね。これも女神様が私に向けた愛情なのね。あぁ、愛しの女神様。沙魚丸は立派な男になるために叔父上のしごきを乗り越えます。見ていて下さい。〉


沙魚丸は男の体になってから、より一層単純になったのかもしれない。

秋夜叉姫に愛されていると自覚した瞬間、力がみなぎって来る。


「叔父上、沙魚丸はがんばります。」


「おっ、おう。」


〈何だ、こいつ。刀を見せたら急に元気になりおった。しかし、こやつが女神様の伝教士とはなぁ。何にせよ、楽しませてくれる。〉

ニヤリと笑った雨情に沙魚丸が詰め寄る。


「叔父上、こうしてはおられません。早く修行を始めましょう。」


腕立て伏せを始めようとする沙魚丸の頭を雨情が軽く叩いた。


「馬鹿者、起きたばかりだろうが。お前にはここでやることがたくさんある。まずは、迷惑をかけた人たちに礼を言え。修業とは感謝する心から始まるのだ。」


雨情にびしっと言われた沙魚丸は、たちまちのうちにしゅんとなった。


「申し訳ありません。気が急いてしまいました。」


「分かればよい。一人で突っ走るな。お前には頼れる家臣がおることを絶対に忘れるな。」


そう言って、雨情は沙魚丸に拳骨を落とした。

沙魚丸はぱたりと倒れた。


「いかん、強くやり過ぎた。」


しまった、と沙魚丸を起こそうとした雨情だが手を止めた。

源之進をはじめとする面々の足音が近づいて来るのを耳にし、座敷に姿を見せた源之進に言った。


「まだ疲れておるのじゃろう。もう少し寝かせてやれ。」


雨情が高笑いと共に悠々と去っていく。

倒れている沙魚丸を見て、何が起きたか源之進は察した。

やれやれと呟き、沙魚丸を寝かせた源之進が朗らかに言う。


「各々がた。沙魚丸様が目覚めるまで、広間にてご準備ください。」


応、と言って、皆は足取りも軽く準備に取り掛かるのであった。

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