女神たちとの宴
「まぁ、私のこと知ってるの。嬉しいわ。そ・れ・で、どんな風に知っているのかしら。」
そう言って、沙魚丸のあごをクイッと人差し指で持ち上げた八上姫はうっすらと微笑む。
ぞくり。
沙魚丸は八上姫の冷たい微笑みに身震いする。
〈怖い。蛇の前の蛙ってこういう気持ちなのかしら。なんにしても、離婚とか本妻とか後ろ向きな話は絶対にダメね。後ろに控えているのは、きっと眷属だわ。ウサギのくせに殺気が半端ないって、どういうこと。〉
八上姫に寄り添うように付き従うウサギの容姿は愛くるしくかわいらしい。
だが、背中にしょっている大刀から焔がグワッと吹き出たかと思うや、ウサギの体に取りつき鎧となる。
〈炎の鎧を着たウサギ・・・。さすが、神界。何でもありってわけね。あの刀、絶対に生きてるわ。〉
生きている刀ねぇ、と考えた沙魚丸は、はっとする。
〈あの刀は、もしかして、生太刀。そんな馬鹿な・・・。いいえ、ありえるかも。ここは神界だし、八上姫が大国主命のところから勝手に持って帰っていたとしたら・・・〉
自らの想像に恐怖した沙魚丸はカラカラに乾いた喉に唾を押しやり、無理やり作った笑顔で話し出す。
「はい、八上姫様は光り輝く美貌と性格の良さからたくさんの神々に求婚されるも、すべてお断りされました。ピュアなお心をお持ちの八上姫様は一途に思い定めた御方からの求婚を待っていたのです。そうです、大国主命様に八上姫様は純愛を捧げられたと伝説に謳われております。」
背筋をまっすぐに伸ばし、いわゆるきょうつけの姿勢で話し終えた沙魚丸ににっこり微笑んだ八上姫はパチパチと拍手する。
「ありがとう。私のことを知っているなんて、とっても嬉しいわ。それから?」
「それから?と申されますと・・・」
沙魚丸は見てしまった。
まったく笑みの無い八上姫の横顔を・・・
〈後半を語れと・・・。ダメよ、言ってはいけない。嫁いだ先はなんと側室。悲惨なことに本妻と折り合いが悪いときて、トドメは生まれた子供を木の俣に挟んで実家に帰った・・・。そんなこと言えるわけないでしょ。言ったら絶対に殺られるわ。沙魚丸、絶対に八上姫様の目を見てはダメ。〉
ギュッと目をつむった沙魚丸は、大きな声で返事をする。
「私が知っている伝説はこれだけであります。」
「うふふ。ワタシ、頭のいい子は好きよ。」
八上姫がそっと沙魚丸の頬を撫でる。
〈ひいっ。蛇の舌先でなめられているような気がする。私は蛙。私は蛙。動けない蛙。そう言えば、八上姫って蛇の化身ではなかったよね。あれ、何の神様だっけ。まぁ、いいや、ここはごますり作戦で逃げ切るわよ。〉
「ありがとうございます。ですが、八上姫様のことを知っているのは、日本人として当然であります。」
当然とまで言い放った沙魚丸だが、少し首を捻る。
〈ちょっと言い過ぎたかしら。八上姫のことを書いた部分って古事記の中でもちょっとだけだったかしら。〉
「やがぴょんが有名なんて話、妾は初めて聞いたぞ。」
秋夜叉姫のつまらなそうな声が小さく聞こえて来た。
途端、沙魚丸に変なスイッチが入ってしまう。
「秋夜叉姫様。それは違います。古事記にほんの少ししか記載が無かったとしても、日ノ本の神様は八百万もいらっしゃるのです。そうです、名も伝わっていない神様が多くいらっしゃる中で、祀られている神社があること自体、凄いことなのです。しかも、八上姫様は漫画やアニメにも登場しているのですから、とてもすごい女神様なのです。」
「おーほっほっほ。とんでもなくいい子じゃないの。アッキーもこの子のように私を讃えてもいいのよ。」
もたれかかって来た八上姫を振り払った秋夜叉姫がジトッとした目で沙魚丸を見る。
「はん。どうせ、妾は社の一つすらない名も無き神様ですよーだ。」
〈私のバカバカ。秋夜叉姫様が拗ねてしまったわ。どうしよう。ドツボにはまるかもしれないけど、言いくるめるしかないわ。〉
沙魚丸はあろうことか神を口先でまるめこむと言う禁忌を犯すことに決めた。
もっとも、本人に自覚はないが・・・
「秋夜叉姫様。だからこそ、私を女神様の伝教士となさったのではありませんか。たった一日で信者が増えたのをのモニターらしきものでご覧になっていたのでしょう。私をお選び下さった秋夜叉姫様は正しかったのです。このまま、わたくし目にお任せあれば、そんじょそこらの神様など及びもつかない熱き信仰を勝ち取って参りましょう。大船に乗ったつもりでお待ちくださるだけでよいのです。」
エレガントに頭を下げた沙魚丸はちらっと秋夜叉姫の様子を窺う。
秋夜叉姫はにっこにっこの顔になっている。
〈ちょろい。良かった、女神様がちょろくて。〉
ホッと胸をなでおろした沙魚丸は、猛烈に酒が飲みたくなった。
〈もう疲れたよー。お水ちょうだい。いや、ここまで来たのだから神界のお酒を飲ませてくれー。〉
沙魚丸の心の声はもろに顔に出た。
微笑んだ秋夜叉姫は、席に座る。
「よし。其の方も一杯やっていけ。」
沙魚丸に座るように促す。
〈待ってました。〉
八上姫が用意してくれた折敷の前に沙魚丸はそそくさとあぐらをかいた。
「ありがとうございます。お相伴にあずかります。」
おちょこを両手で持った沙魚丸は、秋夜叉姫に酒を注いでもらう。
「ちょっと、待て。やはり子供の姿では落ち着かん。元の姿に戻しておこう。」
秋夜叉姫がパンと手を叩くと、沙魚丸は結衣の姿に戻った。
〈おおっ、女の体だわ。何だか久しぶりな気がするわね。あぁ、やっぱり、慣れ親しんだ女の体の方が落ち着くわ。やっぱり、アレは邪魔よ。〉
股間をパンパンと叩きアレが無いのを確かめた沙魚丸はニンマリと笑い、あっ、と言って恥ずかしそうに正座になった。
やれやれ、とため息をついた秋夜叉姫がおちょこをすっと持ち上げた。
「では、沙魚丸の活躍を祝して乾杯じゃ。」
秋夜叉姫がぐいっと飲むのを確認した沙魚丸も一気に飲み干した。
酒の色も匂いも確認すらせずに・・・
利酒師の資格を持つ者として、それでいいのか?と思うのだが。
それほどまでに沙魚丸は酒に飢えていた。
酒が胃へと無事に流し込まれる前から、沙魚丸はゲホゲホとむせかえった。
〈何、これ。すごく劣化してる。〉
どういうことですか、と顔を上げた沙魚丸は、秋夜叉姫が悲しそうな顔をしていることに気づいた。
「分かったか。これが、妾の飲む酒なのじゃ。」
沙魚丸はただただ無言でおちょこの中にうっすらと残った酒の残りを見つめた。
何も言わない沙魚丸に秋夜叉姫は話を続ける。
「妾に貢物を奉納してくれる人間はおらん。もちろん、酒もな。よって、他の神々からおすそ分けをもらうのだが、こと酒に限っては酷いのじゃ。どれもこれも劣化していて飲むのが辛い。だが、酒は飲みたい。仕方が無いので飲む。まぁ、杯を重ねている内に酔って味は分からんようになるでな・・・」
寂しげに微笑んだ秋夜叉姫に沙魚丸の胸がギュッと締め付けられた。
「そんな悲しいことを言わないでください。私が・・・」
私がいい酒を奉納しますと言いかけた時、疑念が浮かんだ。
〈でも、こればっかり飲んでいたら、旨いとか不味いとか分からないんじゃないの。幕末だっけ、貧乏で劣化した酒しか飲んでいなかった天皇陛下に届けられた献上酒のあまりの旨さに驚いた話があったような無いような・・・〉
「やがぴょんだけが妾に地球の日本酒を持って来てくれるのじゃ。これが、実に旨い。」
涎を垂らしそうな顔で秋夜叉姫が言うのを聞いた沙魚丸は納得した。
〈道理で。この劣化酒と今の日本酒を比べたら、まぁ、とんでもないわよね。あれ?〉
八上姫は沙魚丸が首を傾げたのを見て話し始めた。
「日本の神様が、ここにいるって不思議よね。実家にいても暇だから、こっちの世界に遊びに来てるの。そうだ。私の信仰も一緒に広めてね。そうしたら、いちいち面倒くさい手続きをせずに、ここにこれるもの。」
いい思い付きよね、と八上姫が秋夜叉姫に微笑んだ。
ぷいっと秋夜叉姫は横を向く。
「ダメじゃ。この者は妾の伝教士なのだ。」
「まぁ、けちね。アッキーが嫌になったらいつでも私のところに来なさいね。」
微笑みを沙魚丸に向けた八上姫にぐらりと心を持って行かれそうになるが、沙魚丸はギリギリのところでぐっとこらえる。
「ありがとうございます。ですが、私の心は既に秋夜叉姫様に捧げておりますので、お願いすることはございません。」
思いがけず振られた八上姫だはまったく気にする様子もなく嬉しそうに手を叩き、秋夜叉姫に飛びついた。
「聞いた、アッキー。この子、本当にいい子じゃない。この子を選んで本当によかったわね。」
「ふん。妾の目に間違いはない。」
ふぅん、と秋夜叉姫の頬をつつきながら、八上姫は沙魚丸に顔を向けた。
「アッキーは、意地っ張り屋さんだから、あなたにはたくさん迷惑をかけるけど、ごめんなさいね。」
「いえ。私の方こそ大人げなく色々と申し上げて、すいませんでした。ごめんなさい。」
あはは、と八上姫が笑う。
「大人げなくって、言われちゃったわよ。アッキーの方が大人なのにね。ほら、アッキーもちゃんと謝らないとダメよ。」
ぐぬぬと声を漏らした秋夜叉姫は、もじもじと人差し指をつつく。
「すまんかったのぅ。妾も想定外じゃったのだ。其の方がまさか初日からこんな目に遭うとは、まったく思わなかったのじゃ。」
しゅんとする秋夜叉姫に沙魚丸の胸はトクンとときめきの音がした。
〈女神様、かわいい。〉
光の速さで秋夜叉姫に惚れなおした沙魚丸は、おもむろに礼をする。
「いえ、秋夜叉姫様のもじもじ姿を見れましたので、もう大丈夫です。もっと必死でがんばることにしますから、これからもよろしくお願いします。」
沙魚丸が元気になった姿を見た秋夜叉姫は、鼻息荒く頷く。
「そうじゃ。その調子でがんばるのじゃ。」
「アッキー、ダメよ。全然反省しているように見えないわ。ほんとに困った神様だわ。ねぇ、沙魚丸君。」
〈振らないでください、八上姫様。私には答えれないって分かってますよね。もしかして、わざと言ってる?〉
優しい笑顔に黒い影がさすように見えた沙魚丸は、すっと目をそらす。
「ところで、謝るっておっしゃってましたけど、何かあったんですか。」
空になったおちょこに新しい酒を注いでもらう気にもなれない沙魚丸は、無聊を慰めようと秋夜叉姫に聞いてみた。
「あぁ、謝るね。そんな話もあったな。まぁ、これを飲め。」
新しく注がれた酒に、今度は沙魚丸はしっかりと酒の色を見て匂いを確かめる。
〈あれ、違う。炊き立てのご飯のようなふくよかな香り。これは・・・〉
思わず秋夜叉姫を見ると、案の定、ニタニタと笑っている。
「これは、やがぴょんからもらった酒じゃ。」
〈最初っから、これを飲ませて下さいよ。〉
沙魚丸は口をとがらせる。
「ふっ。其の方、最初っからこっちを飲ませろと顔に出ているぞ。妾の考えが分からぬとは愚かなやつじゃ。」
「考えですか。」
沙魚丸の顔はスンとなる。
〈酔っぱらいがいる。大体の酔っぱらいは分かんないことを言うのよね。やれやれだわ。〉
「うむ。其の方もいよいよ領地を持つことになった。妾のために特別な酒を造る約束は覚えておろうの。」
「はい、もちろんです。」
「妾が日頃から飲んでいる酒を飲んでみて、女神様かわいそう・・・と思ったよな。これで、思わなかったら、其の方は鬼畜じゃ。」
〈思いましたよ、思いました。鬼畜じゃありませんよ。酔っぱらいには逆らっちゃダメ。〉
こくこくと頷く沙魚丸に秋夜叉姫は命じる。
「よいか、妾にやがぴょんかがくれた酒を奉納するのじゃ。」
沙魚丸はほんの少しだけ考えてみた。
〈そりゃぁね、日本酒も酷い時代はありました。けど、今は真面目な酒蔵が切磋琢磨して素晴らしい日本酒が生まれているんです。それを私ごときに造れと・・・。おかしくって涙が出ちゃう。〉
そう、考えることすら無かった。
「無理ですよ。私、杜氏じゃないですもん。」
「ばかもん。ここに『酒造りの神様、松尾様』から聞き取った旨い日本酒造りの指南書がある。これをそちに授けるから、努力せい。何と江戸時代でも大丈夫な造り方が書いてある。妾に会いたいと涙を流して言っていた其の方ならば、きっと艱難辛苦を乗り越えた末に旨い酒を醸すはずじゃ。」
秋夜叉姫が熱く語れば語るほど、沙魚丸は冷静になっていく。
「江戸って・・・。体感からすると、今は戦国の始めですよね。いや、まぁ、せっかく指南書をご用意いただいたのですから、ありがたく頂戴することにしてもですね。せめて、杜氏を私の領地に連れてきてくださいよ。」
沙魚丸の訴えに秋夜叉姫は手の平を上に向け、肩をすくめた。
「無理じゃ。妾たち神は人の一生に関わってはいかんと言ったであろう。許されているのは、転生させた其の方に対してだけじゃ。」
そこまで言った秋夜叉姫は、突然、頭を抱えてうずくまった。
「あぁ、余計なことを思い出してしまったわい。」
頭を抱えた秋夜叉姫に驚いた沙魚丸は隣で静かに飲んでいるはずの八上姫を見た。
んんっ、と沙魚丸は声が出てしまう。
なんと、八上姫もさめざめと泣いているではないか。




