小次郎の帰還
寛流斎を城内から追い出し、一息ついた時から沙魚丸は小次郎との再会を楽しみにしていた。
〈鶴山城に向かう前に色々と心配してくれたけど、これで少しは見直してくれるんじゃないかしら。それに心配かけてばかりじゃダメだしね。〉
楽しい方向へと想像を逞しくする沙魚丸だが、幸いなことに冷静なところがわずかに残っていた。
ちょっと待てよ、と小首を傾げる余裕があったのだ。
〈私のことばかり言うのはダメよね。私は主君なんだから。〉
これぞ上司の鏡よね、と鼻を高くした沙魚丸に、ふと、前の世の記憶が頭をよぎる。
真剣にモニターに向かって仕事をしている沙魚丸にヘラヘラと自慢話を聞かせにやって来る上司のことを・・・。
いやだぁーっと変な声を出した沙魚丸は、嫌な記憶をかき消すようにぶんぶんと頭を大きく横に振る。
深呼吸をした沙魚丸は腕を組むと、小次郎にどのような言葉をかければいいのかと悩むことにした。
〈私の経験からすると、頭ごなしに褒められるよりも、話をきちんと聞いてくれてから褒めてくれる方が嬉しかったのよね。聞き上手な人だと何倍も嬉しくなったから不思議だったわ。〉
などと、沙魚丸なりに一生懸命に考えた結果、聞き上手作戦で行こうと決めた。
しかし、先ほどの隅小沢たちの助命騒動で、すっかり疲弊した沙魚丸は誰かの話を真面目に聞くことなどできない精神状態に陥っていた。
次五郎が二人の帰還を告げる声を上げた時、源之進には雨情へのクレームをお願いし、そして、小次郎の話を聞くのを止めることに決めた。
〈やっぱり自慢よ。叔父上の領内で受けることになった猛特訓の分も含めてたっぷり勝ち誇ってやるわ。そうすれば、私のHPも復活するはず。それからで十分よ、小次郎さんの話を聞くのは。なんたって、私は主君なんだから!偉いのよ!〉
自慢話が大好きな上司が乗り移ったかのような考えをする沙魚丸。
だが、大手門をくぐった二人を見て、沙魚丸の頭から考えていたことが吹き飛んだ。
馬を引く源之進に目をやり、続いて馬上の小次郎を見た沙魚丸は目を瞠った。
馬上の小次郎を見た沙魚丸は、思わず口を手で覆う。
飛び出しかかった悲鳴を必死で飲み込むために。
〈小次郎さん、ぼろぼろじゃない。なんで・・・〉
沙魚丸は思わず二人に走り寄る。
真っ青な顔で駆け寄ってくる沙魚丸に小次郎は気づいた。
〈よかった、本当に御無事だった。父上から沙魚丸様のことは聞いていたけれど、本当によかった。〉
小次郎は沙魚丸が五体無事なことに安堵する。
だが、小次郎を案じ辛そうな表情で近づいて来る沙魚丸を見て、
〈主君に心配をかけるなんて不甲斐ないにもほどがある。しかも、沙魚丸様は大活躍をされたと言うのに、私は・・・〉
と羞恥心に襲われる。
源之進が馬を止めると、小次郎は慌てて馬から下りようとした。
沙魚丸を馬上から見下ろすなど、もってのほかと考えた小次郎だが、体が思うように動かない。
〈泣きたい・・・。一人で馬から下りれないとは。〉
唇を噛みしめる小次郎に気づいた源之進が小次郎を馬から下ろす。
そんな二人の姿に沙魚丸は衝撃を受ける。
〈うそ、一人で下りれないの・・・〉
沙魚丸は両手を胸の前において、小次郎に見入った。
馬から下ろされた小次郎は、無理くり笑顔を浮かべ沙魚丸のところへ足を踏み出そうとした。
だが、足がもつれ音を立てて転ぶ。
地面に手をついた小次郎の両目にじわりと悔し涙が浮かぶ。
〈こんなみっともないところを沙魚丸様にお見せするなんて・・・。一の臣になるなどと、どの口が言うのか。〉
一方の沙魚丸はと言うと、小次郎が転んだ時、微動だにすらできなかった。
目は大きく開き、口は締りなく開かれ、頭が真っ白になる。
脳筋のきらいはあるが、しっかりものの小次郎がボロボロの姿で現れただけでもショックだったのだ。
更に追い打ちをかけるように小次郎が沙魚丸の目の前で転ぶなど想像すらしなかったのだから。
四つん這いのまま動かない小次郎を放心状態で見ていた沙魚丸は、小次郎がよろめきつつも何とか立ちあがるのも束の間、バランスを崩し尻もちをついたのを見て、ようやく我に返った。
慌てて駆け寄った沙魚丸は、今にも消えてなくなりそうなほど悄然とした小次郎を支えようと肩に手を置いた。
「大丈夫ですか。」
小次郎は肩に置かれた沙魚丸の手を見て、何か小さな声で呟いた。
〈えっ、何。聞こえなかったんだけど。〉
沙魚丸が問おうとした時、小次郎はうつむいたまま沙魚丸に土下座をした。
〈ちょっと、本当にどうしたのよ。別れるまでは元気だったでしょ。〉
置き場を失った手を握りしめた沙魚丸は小次郎の前に正座をする。
沙魚丸は落ち着こうとするが、とてもではないが平常心ではいられない。
「ちゃんと説明してください。」
「申し訳ありません。」
土下座をした小次郎の口からは謝罪の言葉しか出てこない。
〈どうして、謝ってばかりなの。もしかして・・・〉
小次郎の身に何かとんでもないことが起きたのではと不吉な予感に襲われた沙魚丸の声にもはや落ち着きはない。
「どこか怪我をしたんですか。大丈夫ですか。」
〈こんなに打ちひしがれているのは、死にそうなほど大怪我を負ったからとか・・・。まさか、先に冥土に旅立つから、謝ってるんじゃないでしょうね。ちゃんと説明しなさいよ。〉
沙魚丸は泣きそうになるのを必死でこらえる。
不安が頂点に達した沙魚丸は源之進に叫んだ。
「怪我をしているなら、言ってください。早く手当てをしないと。こんなところでうずくまっている場合ではないでしょう。」
小次郎の横に座った源之進が小次郎の背中に手を置く。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。鎧が壊れたりしておりますが、小次郎は軽傷ですので、ご安心ください。」
源之進の言葉に沙魚丸はほっと胸をなでおろす。
〈そっか、よかった。平気なのね。あんまり心配させないでよ。まったく、もう。でもさぁ・・・〉
心配させられた反動で、勢い沙魚丸の言葉遣いがきつくなる。
「小次郎さん。謝っている理由を言いなさい。さぁ、早く。」
源之進が小次郎の背中を叩く。
「お前が言えないのであれば、私がお話しするぞ。それでもいいのか。」
小次郎の背中がぴくりと動く。
〈父上に尻拭いをしてもらうなど、私と言う男は・・・。でも、こんな惨めな私が沙魚丸様にお仕えしていてもいいのだろうか。〉
小次郎は迷いつつも、ようやく顔を上げた。
「私は沙魚丸様に申し上げました。『みっともない真似はしないでください』と。」
沙魚丸は大きく頷いた。
〈えぇ、言われました。その言葉を胸にみっともない真似をしないように頑張りましたよ。〉
色々と思い出した沙魚丸は、自分でもよく頑張ったなぁと充足感がこみ上げる。
沙魚丸の溌溂とした顔に小次郎は、
〈父上の言われた通り、沙魚丸様は活躍されたのだな。〉
とはっきり分かった。
「みっともないのは私でした。単騎で敵将に突っ込み、危うく命を落としかけたところを父に救ってもらいました。偉そうなことを言って、申し訳ありませんでした。」
「何を言っているんです。あれは、私を諫めるために言ってくれたのでしょう。敵将に挑んだのも凄いことですし、何より、ここに生きて帰って来たではないですか。」
沙魚丸の言葉に小次郎はますますうなだれた。
〈違うのです。そうではないのです。〉
小次郎は声を絞り出す。
「私は敵将との戦いで、生きることを諦めてしまいました。最後まで生き抜き、沙魚丸様のお力になると言う約束を破ったのです。」
沙魚丸は小次郎が何を言っているのか分からないが、頷くことにした。
〈小次郎さんがいるだけで私の力になってるじゃない。もしかして、完璧主義者なのかな。真面目過ぎるのよね・・・。とりあえず、元気を出してもらわないと。よし、優しくしてみよう。元気の無い男は手を握って優しくすれば大丈夫って先輩から聞いたことあるわ。〉
沙魚丸は、そっと小次郎の手を取った。
「貴方は私の一の家臣として、私を支えてくれるのでしょう。生きて私の前に戻って来てくれただけで、私は嬉しいのです。」
小次郎の両目からぽたぽたと涙がこぼれる。
「こんな私を一の臣と言って下さるのですか。ですが、私に沙魚丸様の一の臣としての資格はありません。このような愚か者が沙魚丸様の一の臣であってはいけないのです。」
沙魚丸は微笑みを浮かべたまま、小次郎を見つめる。
〈なかなか粘るわね。でも、もう一押しすればいけそう。〉
「貴方がどう考えようが、私の一の臣は貴方です。貴方以外に誰がいるのです。」
〈小次郎さんはすべてを知っているのだから、これからもずっと私の横で活躍してもらわないと困るのよ。こんなところでしょげてる場合じゃないのよ。しっかりしなさいよ。〉
しかし、小次郎はうつむいたまま涙を流している。
〈あぁ、そっか、私は男だった。手を握るのは男同士じゃダメみたいね。それより、ちょっと、木蓮さん。話が違うじゃない。男はやせ我慢するんでしょ。あぁ、もう、男のくせにって言うけどさぁ。男なんて、どいつもこいつもイジイジしてめんどくさいわね。〉
考えることが面倒になった沙魚丸はうなだれている小次郎の肩をがしっとつかむと、小次郎をがくがくと前後に揺する。
そして、小次郎の耳元に口を近づけ、小声で話す。
「しっかりしなさい。あなたは沙魚丸君と私の二人に誓ったのでしょう。」
小次郎がはっと顔を上げる。
〈よし、頭が上がったわ。沙魚丸君との約束を破るとは言わせないからね。オマケかもしれないけど、私を支えると誓ったのも思い出しなさい。〉
「分かりますね、小次郎さん。あなたには落ち込む暇など無いのです。二人分の活躍をしなさい。」
沙魚丸はゆっくりと噛みしめる様に小次郎に話す。
〈言ってて、なんだけど、けっこう酷いことを言ってるよね・・・〉
小次郎は泣くのを止め、しっかりと頷いた。
小次郎の目に光が戻ったのを見た沙魚丸はほっとした。
〈本人が納得したんだから、いいよね。〉
沙魚丸は念を入れておこうと言葉を続ける。
「失敗したのなら、それを糧にして、次に成功すればいいのです。いえ、次でなくてもいいです。何度失敗してもいいんです。私のために生きてさえいてくれれば。小次郎さんなら、いつか成功します。私はあなたを信じています。だから、これ以上、自分を卑下するのは止めてください。」
小次郎の両目からまた光るものがあふれ始めた。
先ほどの哀しい涙と違い、これは歓喜の涙だと沙魚丸にも分かった。
「ありがとうございます。小次郎は沙魚丸様の一の臣に相応しい者となるために、ひたすら努力いたします。」
うんうん、と頷いた沙魚丸はここでピコンと閃いた。
〈小次郎さんが努力する・・・。これはいけるかもしれない。〉
「素晴らしい心がけです。私も良き主君となるために叔父上のところでしごか・・・、ごほん。励むことになっています。小次郎さんも私と一緒に叔父上に鍛えていただきましょう。」
そう言って、沙魚丸はにこやかに笑った。
〈ふっふっふ、完璧よ。小次郎さんがいれば、少なくとも私へのアタリが半分になるわ。いえ、できのいい小次郎さんは次々と課題をクリアする。叔父上は小次郎さんに期待をかけ、もっとたくさんの課題を与えるに決まっているわ。つまり、小次郎さんにかかり切りなった叔父上は、私を放置せざるを得ない。いける。この作戦は完璧よ。〉
勝ったとばかりに沙魚丸は心の中でニタリと笑う。
「小次郎殿も雨情様のところで修行するのか。よし、俺も手伝おう。」
こういった時、つまり、沙魚丸が手前勝手なことを考えている時の天敵とも言える声に沙魚丸は慄く。
〈次五郎。余計なことを言うなぁ。貴方が何か言うと、明後日の方向に行くのよ。やめて、私の作戦を邪魔しないで。〉
「若。私も次五郎殿の提案に賛成です。小次郎殿は私たちが鍛えましょう。若は沙魚丸様を徹底的にしごかれるのがよろしいかと。」
木蓮が沙魚丸の心を見透かしたかのように言う。
思わず見上げた木蓮の顔を見て沙魚丸の背筋に冷たい汗が流れる。
〈木蓮さんが私に冷たい笑みを浮かべている。表情を読まれた・・・。いや、あのロマンスグレーは私の心を読んだんだわ。いやよ、やめてよ。それだと、叔父上とマンツーマンじゃない。最初より酷くなってるじゃない。〉
「そうだな。小次郎にこれだけ偉そうなことを言ったのだ。主君が一の臣より軟弱では示しがつかん。かわいい甥が死ぬ直前までビシビシと鍛えてやろう。」
悪魔のような顔で微笑む雨情を見て、沙魚丸の意識は遠のいて行った。




