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雨情の使者

沙魚丸がお辰と一緒に搦手門で隅小沢の副将である三輪を始めとした黒鍬衆の怪我の手当てを行っている頃、大手門には常盤木雨情からの使者が騎馬で颯爽と到着した。


使者の名は、騎馬組組頭の彩倉総悟。

隅小沢によって顔面に強烈な一撃を受けて気絶し、愛馬に助けられた男である。


大手門の守備に戻っていた伊織は、総悟の顔を見て言葉を呑んだ。

〈よほどの激闘だったのだろうな。顔の半分が腫れ上がって丸くなっている。半月のようだ。〉


総悟の顔の半分は隅小沢に殴られたことによって大きく膨らみ、相当に痛々しいことになっている。

〈そうか、分かったぞ。椎名軍では、総悟殿の怪我がきっと一番軽かったのだろうな。何しろ、野句中軍は椎名軍よりもずっと多かったのだから。〉


伊織は勘違いしているが、椎名軍の(かしら)級の者では、総悟の怪我が最も重い。

雨情はいの一番に総悟を使者に立てることに決めた。


「総悟。お前が使者に立て。隅小沢は降伏したのだ。お前がもう一度勝負させろと何度言おうがダメだ。絶対にやらせはせん。」


「雨情様。それはあまりにむごい。俺は負けっぱなしではないですか。」


「うるさい。頭を下げた相手に勝つまで続けるなどみっともないことをするな。」


雨情に言われた正論に総悟は言葉を無くす。

さらに、雨情が言葉を続ける。


「組頭で手が空いているのはお前しかいないのだ。分かったら、さっさと行け。」


そんなこんなで椎名軍の陣中から追い払われた総悟は、隅小沢との再戦は次回の楽しみにとっておくことにして、雨情の使者として鶴山城にいる。


理由はどうあれ、総悟を相当な猛者と考えた伊織は、泥だらけの総悟のためにと幾つもの(たらい)に水を用意し、汚れを落とす手伝いをした。


「簡単な処置で申し訳ありませんが、これなら御使者として大丈夫でしょう。」


かなりの汚れを落とし到着した時とは比べ物にならないぐらいきれいになった総悟を見て、一緒に汚れを落とす手伝いをした伊織がやれやれと汗をぬぐう。

身ぎれいになったことに満足した総悟が笑みを浮かべ礼を言う。


総悟の笑みを見た伊織は心の中で悲鳴を上げる。

〈怖すぎる。顔の半分は美男子だからか・・・。笑顔を浮かべると右と左の対比が凄惨すぎてゾッとする。〉


「では、本丸にいる兄の武蔵のところへご案内いたしますので、この者について行ってください。」


伊織は横にいた者に総悟の案内を任せた。

〈よし。椎名軍が来るまでに大手門付近をきれいにしておかないとな。あまり時間はないが、死体だけでもどこかの屋敷に放り込んでおこう。〉


伊織は大手門の掃除にとりかかるが、実は、総悟が大手門に着いた時に各所に椎名軍の使者が到着したことを知らせていた。


もちろん、搦手門にいるお辰と沙魚丸のもとにも。

その知らせを聞いたお辰は、怪我の手当てをしている沙魚丸のもとへ駆け寄って来た。


「沙魚丸様、こうしてはおれません。急ぎますよ。」


美しい唇をきりりと引き締めたお辰は沙魚丸の手をつかむや否や引きずるように駆け始めた。


ちなみに、お辰の今の姿は鎧直垂(よろいひたたれ)籠手(こて)佩盾(はいたて)脛当(すねあて)の三具を着用した状態で、甲冑を着ている状態よりずっと身軽で、打掛より動き回りやすい姿である。


身ぎれいにすることが理由であるが、大手門でしばらく時間を食ったことが幸いし、二人は総悟が本丸に案内される前に到着し、雨情からの口上を武蔵の傍らで聞くことができた。


「我が主君である常盤木雨情は、鶴山城内にて合戦後の話し合いを希望しております。我が軍の大将である椎名沙魚丸を迎えに上がるため、我が軍の一部の入城許可をいただきたい。」


「委細承知。一軍と言わずに椎名家の全軍を当家は迎え入れる。沙魚丸殿と共にお待ちするとお伝えせよ。」


「ありがとうございます。戻って雨情に伝えます。」


立ち上がり、一礼をして去ろうとする総悟を武蔵は思わず呼び止める。


「総悟と申したか。顔に薬を塗ってから行った方がいい。」


総悟の顔の腫れを見て、夢に出てきそうな顔をしていて怖いなと思った武蔵はふと気づいた。

〈雨情殿がこの者を使者に選んだのもこの者に薬を塗れと言うことなのかな。だとすれば、噂と違ってお優しいことだ。〉


「いえ、すぐに戻ります。それにこの程度の怪我、唾をつけておけば大丈夫です。」


総悟の返事を聞いた沙魚丸はドン引きする。

〈いやいや、総悟さん。その腫れに唾をつけたら顔の半分が唾だらけで汚いですよ。というか、そんなに唾液が出ないでしょう。〉


「そう言わないで、こちらへいらっしゃい。ちょうど、薬を持っているのです。すぐに終わりますからね。」


お辰の優しい声にも総悟は断りの返事を返そうとした。


「お気持ちは・・・」


だが、総悟はお辰の顔を見て、何も言わなくなった。

かと思うと、何も言わずに立ち上がった総悟はすすすっとお辰の方へ近づいていくとおもむろに腫れ上がった頬をお辰に向けた。


「よろしくお願いいたします。」


〈お辰さんが美人だからね。あっ、そういうことだったのね。私に手当てを受けるよりもお辰さんに手当てをしてもらっている人が笑顔だったのは・・・。いや、あれは、鼻の下を伸ばしていたのね!〉

沙魚丸はまた一つ重要なことを学んだ気がした。


男って生き物は、どの時代でも考えていることは一緒なんだなと・・・


「総悟さん。顔がいやらしいですよ。」


沙魚丸の声に怪訝そうな顔を向けた沙魚丸に向けた総悟が驚きの声を上げる。


「沙魚丸様、なぜこちらに。というか、いやらしい顔など、私はしておりません。」


「いいえ、してました。お辰様は人妻ですよ。」


「人妻ですか・・・」


妄想に取り憑かれ始めたような表情の総悟の頬に沙魚丸は効き目は凄いが傷に沁みることで有名な膏薬を貼り付けた。


ひぎゃぁー、っと叫ぶ総悟の鼻をつまんだ沙魚丸は、

「変なことを考えていないで、皆が無事なのか私に教えてください。」

と凄んだ。


ようやく我に返った総悟は、沙魚丸に真面目な顔を向けると、

「多少の怪我を負った者はおりますが、皆様ご無事です。武蔵様のお言葉を急ぎ雨情様にお伝えしなければなりませんので、これにて失礼いたします。」

沙魚丸に早口で言い終わると、脇目も振らず本丸を飛び出した。


〈逃げたわね。皆様って誰のことかさっぱり分からないじゃない。総悟さんのご無事って、どこまでが無事なんだろう。〉

沙魚丸は逃げ去った総悟の後ろ姿を腹立たし気に追いかけた。


そんな光景を生温かい目で見守っていた武蔵は、総悟が走り去ると声を張り上げた。

「椎名家の方々が参られる。丁重にお出迎えするので、準備をせよ。」


お辰が沙魚丸の肩に手を置き、武蔵に言う。


「武蔵殿は本丸にてお出迎えですから、私が沙魚丸様と大手門でお出迎え致しましょう。」


お辰の言葉に武蔵は会心の笑みを浮かべる。


「さすが、姉上。実によいところにお気づきだ。」


「まぁ、悪いお顔。また、ろくでもないことを考えているのね。どうでもいいですが、(うたげ)の用意はしっかりとしなさい。私の旦那様がいるから大丈夫だとは思いますが、三日月家の恥になるようなことはされませんように。」


念を押すように言ったお辰は沙魚丸と共に本丸を出て、大手門に向かった。

沙魚丸とお辰が出て行くのを引き留めようか、と考えた羽蔵は、お辰に笑顔を向けられ、言い出す機会を失った。


〈お辰の笑顔には何年たっても勝てない。まぁ、幸せだから良し。〉

気持ちが明るくなった羽蔵は軽快に武蔵に問いかける。


「武蔵様。宴の用意ですが、本丸の・・・」


羽蔵は話している間に、武蔵のニヤニヤ顔に不吉なものを感じ取る。

〈お辰が言っていた通り、悪い顔だ。そうだ、今ならお辰を引き戻せる。〉


武蔵の前を辞することを決めた羽蔵だが、いつものことながら判断が遅い。

決めた時には、武蔵が返事をしていた。


「決まっておろう。お前の館だ。」


「宴の場所の提供と言うことは、用意から接待・片付けまですべてやらなければいけないのですが、ご存じでしょうか。」


「そんなこと知っておる。俺を馬鹿にしているのか。」


「雨情殿をお迎えするのですから、本丸でないと失礼になるかと思うのですが。」


「この本丸の有様を見て、同じことを言えるのか。それにだな、他の者の屋敷では何が起きるか分かったものではない。お前しか信じられる者はいないのだ。」


〈ふっ。お前しか信じられないと言う言葉に騙される私ではありませんぞ。そんな言葉はもう聞き飽きました。〉

羽蔵のじっとりとした視線を受けて武蔵は殺し文句が通用しないことに気づいた。


〈羽蔵には、もうこの言葉は通用しないか。また何か考えないとな・・・〉

武蔵は生き方を変えると誓ったことが唐突に脳裏によぎった。


〈いや、人間そう簡単に生き方を変えるなどできない。ここは恩着せがましく言っておくか。〉


「羽蔵、よく聞くのだ。姉上がお前の屋敷の者全員を本丸に連れて来たから、お前の屋敷は無事だったのではないか。つまり、何もかもうまく言っているのは俺のおかげと思わないか。いや、きっと思うだろう。」


武蔵がふんぞり返るのを羽蔵はあきれ顔で見つめた。

〈武蔵様の頭の中はどうなっているのだろうな・・・。無理なものは無理と言わないと困るのは武蔵様だ。〉


「ですから、我が家の家人もすべて本丸におりまして、すぐに用意は難しいと申し上げているのです。」


武蔵は大袈裟にため息をつく。


「お前と言うやつは本当にけち臭いことを言うやつだ。我が家の戦勝祝でもあるのだぞ。それにだ。これからは椎名家のご機嫌を取っていかねばならんことぐらい分かっておろう。」


「椎名軍すべてを当家だけでねぎらうなど無理に決まっておりましょう。」


「誰がお前一人でやれと言った。材料は本丸から持って行けば良いし、伊織の家人にも手伝わせればよいのだ。今回の褒美で寛流斎の飛び地をお前に与えるから、これ以上、ぐだぐだ言うな。」


「おお、最初っからそう言ってくださればよいのです。しからば、武蔵様の秘蔵の酒も持って行きますぞ。」


羽蔵はウキウキした様子で言う。


「えっ、秘蔵の酒をなぜお前が知っているのだ。秘蔵と言うのはだな、秘密に大事にしまっているから、秘蔵と言うのだ。」


「先日、酔っぱらわれた時に楽しそうに自慢されていたではないですか。ご自分だけ飲まれて、私には一口もくれませんでした。武蔵様がどこに片付けるのかをじーっと見張っておりましたから、案内していただかなくても結構です。」


羽蔵が立ち上がって、いそいそと奥の方へと歩いて行く。


「食べ物の恨みは恐ろしいと言うのは、このことか。」


がっくりとうなだれる武蔵を残して、羽蔵は家臣を呼び寄せ、本丸にある食料をかたっぱしから徴収にかかるのであった。

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