寛流斎の撤退
三輪隊と言うより、三輪隊の陣地をうっぷん晴らしとばかりに叩き壊した三宅軍は、海徳軍と合流しようと街道を突き進む。
そのような三宅軍の中にいながら、冷ややかな目で寛流斎を観察し続ける男がいる。
〈歴戦の寛流斎と言えども、謀反失敗の衝撃は大きかったようですね。鶴山城の前で陣取っている兵たちを野句中軍と見極められずに攻撃をしかけるぐらいですから。〉
三宅軍の何かに怯えたような三輪隊への攻撃を思い出した針間の口元が緩む。
〈野句中軍を特徴づけている黒槍を寛流斎が知らないなどと言うことはないでしょうし、まさか味方である野句中軍を攻撃するとは思いもしませんでした。とは言え、私の御役目としては、寛流斎がこのまま狼狽したままだとありがたいのですが・・・〉
死地を抜け出したと判断した寛流斎は兵の速度を常歩にまで落とすように命じた。
その最後尾で馬を進ませる針間は、雨情の命令を思い出す。
寛流斎から寒山への書状を奪った針間は矢立を取り出し、
『寛流斎に叛意あり。』
と書きつけた紙片を潜んでいる手下の者に渡し、急いで雨情に伝えさせる。
しばらくすると、針間の手下が雨情からの返事を持ってひっそりと現れた。
渡されたのは、一本のこより。
針間がこよりを広げると、たった一言
『生』
とだけ書かれてあった。
〈敵に見つかっても内容を判別されたくない、という雨情様のお気持ちは分かります。分かりますが、命令が一文字だけというのは、本当に困るのです。お心に沿っているのかどうか心配になりますから。〉
こよりを持ったまま針間は心の中で大きなため息をつくが、顔の表情を変えることは一切ない。
手下の前で雨情に批判めいた真似はできないからだ。
「雨情様は貴方に何か命じられましたか。」
「この後は、お頭の指示に従えと。」
〈お頭ねぇ・・・。いつからか雨情様の配下の忍びを束ねるようになりましたが、そろそろ、私の後釜を用意しておかないと沙魚丸様のもとへ行かせてくれないかもしれません。〉
この男も後釜の一人かなと考えつつ、針間は目の前に控える男に指示を出す。
「私は沙魚丸様の護衛に入ります。貴方は寛流斎の身に危険が迫った時に備えなさい。」
男は顔を上げ、聞き間違いをしたのかと針間に聞き返す。
「寛流斎を殺さず、助けるのですか。」
「そうです。雨情様は寛流斎が生き延びることをお望みです。」
針間の言葉に黙って頭を下げた男は針間の前から姿を消した。
その後、針間はまったく男の姿を見ていない。
〈次五郎様の矢を防げなかったと言って、あの者を責めるのは止めておきましょう。私もたまたま次五郎様が矢をつがえるのを見たから反応できただけですし・・・〉
寛流斎を射殺すために放たれた次五郎の矢の威力を思い出し、針間の背筋が寒くなる。
周囲からは簡単に叩き落したように見えただろうが、針間の手には依然として矢を叩き落した時の痺れが残っている。
そんな痺れすら、今の針間には心地いい。
〈次五郎様があれほどの強者とは、ススキ野原を一緒に歩いている時には思いもしませんでした。〉
針間に笑みが浮かぶ。
〈その強者が沙魚丸様に心服している。さすが沙魚丸様と言ったところですか。私も丸根城での『矢つかみの儀』とやらを見たかったですね。〉
「お前も後で一緒に沙魚丸様の活躍を聞きましょう。」
針間が馬の首筋を優しく撫でると、了解とばかりに馬は機嫌よさげに尻尾を高く上げた。
身一つで鶴山城に潜入した針間が甲冑を纏った騎馬武者となっている理由は簡単である。
針間は鶴山城でまるっと一揃え借りたのだ。
誰にも何も言わずに、黙ってこっそりと・・・
沙魚丸に別れを告げた針間は、攻め寄せてきた寛流斎から本丸を守ろうと守備についたため今や無人と化した武器蔵に向かった。
よほど急いで戦の準備をしたのだろう。
いくつもの鎧櫃が蔵の床に転がっている。
横たわった鎧櫃の一つから甲冑がはみでているのが針間の目に留まった。
針間は鎧櫃から甲冑を取り出した。
〈見た目は立派ですが、流行遅れですし、何より相当ガタがきていますね。この鎧を拝借しても誰も気づかないでしょうね。〉
ささっと身につけた針間は、顔に付ける面頬だけは新しそうなものを盗って行った。
続けて、馬屋に忍び込んだ針間は、一頭だけポツンといる馬を見つけた。
〈城内の者たちが噂していたのは貴方ですね。武蔵様が手こずっているじゃじゃ馬とお聞きしましたよ。〉
馬と目が合った針間は不思議と惹かれ合うものを感じる。
針間を背に乗せた馬は何年も連れ添った愛馬の如く針間を受け入れた。
〈このような名馬を馬屋に寝かしておくのは天下の損失です。私が大事に乗って差し上げましょう。〉
そうした経緯で騎馬武者となった針間は、寛流斎の命を救った場面を改めて思い出す。
〈寛流斎を助けたのはいいのですが、目立ち過ぎました。〉
針間はしくじった、と密かにため息を漏らす。
手下に寛流斎のことを任せるつもりだった針間だが、二の門を通過した寛流斎を見て考えを変えた。
〈寛流斎と言う男は、じっと待っている気質の男ではなさそうですし、一人で守り切るのは難しそうですね。手下は三宅軍に紛れ込ませつつ、私は鷹条の内部を探るのが良いかもしれません。〉
横に立つ沙魚丸を見た針間は微笑んだ。
〈それに、沙魚丸様が領主になった時にお役に立つかもしれません。〉
針間は沙魚丸に別れを告げ、目立たぬよう寛流斎の軍に潜伏するつもりだった。
しかし、手下がどこにも見当たらない針間は次五郎の矢を見て咄嗟に寛流斎を助けてしまう。
針間を見る寛流斎の目が興味津々なものであることに気づいた針間は困ったことになったと頭を抱える。
針間はこれからどう動くかを決めるために現状を整理することにした。
〈寛流斎がいなくなった三日月家は戦力が落ちるかもしれません。ですが、武蔵様をもとに一致団結し、三日月家は強くなると雨情様はお考えなのでしょう。〉
針間の視界に馬に乗った寛流斎の背中が入る。
〈寛流斎は鷹条と接する地に領地を持っていました。この先、寛流斎は鷹条の配下の国衆となるでしょう。そして、寛流斎と武蔵様の国境では絶えず軍事衝突が起き、時には鷹条が出て来ることは必然。〉
国境の小さな争いであれば、大したことは無い。
と言うのは間違いである。
用心のため国境に砦を築き兵を駐在させておかなければいけない。
人が動く以上、兵糧もいるし金もかかる。
領主の武蔵としては、さぞ頭が痛いことだろう。
さらに鷹条と寛流斎の合同軍が攻めて来るともなれば、武蔵単独でどうにかできるわけもない。
つまるところ、武蔵は椎名へ救いの手を求めるしかないのだ。
〈雨情様は鶴山城を奪い取るおつもりかもしれませんね。〉
色々と考えた針間だが、これ以上は自分の考えることではないと推測を打ち切る。
〈顔がバレたわけでもないですし、寛流斎を鷹条軍へ無事に送り届ければ、後は鷹条軍へ潜入しましょう。〉
針間は気楽に考えていた。
誤算だったのは、後ろから追いついてきた新兵衛だ。
〈殿を務めた方でしたね。ここはさっさと通り過ぎていただきましょう。さぁ、さっさと寛流斎のもとへと急ぎなさい。〉
道を譲った針間だけではなく、周りの誰もがそう考えていた。
新兵衛は寛流斎のもとへ急ぐだろうと。
だが、新兵衛は針間を見つけると、笑顔で話しかけて来た。
笑顔とは裏腹に新兵衛は針間を疑っている。
〈こやつ、ここにいたのか。寛流斎様を助けてくれたのはいいのだが、あの馬は武蔵様の馬。武蔵様の密偵かもしれん。矢を叩き落したのは演技とは思えなかったが、万が一に備えるのが儂の役目。〉
「お主のおかげで、寛流斎様は命を救われた。感謝する。」
〈あの混戦で、私と分かったのですか。うーん、この人は要注意ですね。白を切るのも変ですし、仕方ありません。〉
ごまかすのを諦めた針間は、にこやかな声で返事をする。
「たまたまです。振った刀に矢が当たったまでのこと。」
「いや、ご謙遜を。なかなかに興味深い。鷹条軍に着くまでの間、少しばかり話をしようではないか。」
〈しまった。自慢すればよかったのですか。面倒くさい人ですね。早く寛流斎のところへ行って欲しいのですが・・・。気が変わっていなくなるまで、適当に相手をしましょうか。〉
針間から返事がないため、新兵衛が目を細めて言う。
「もう、追っ手が来ることもあるまい。面頬を外しても良いのではないか。」
〈大失敗ですね。この人は最初から私を疑っていましたか・・・。主君の命を助けた者まで疑うとは、忠義者の鏡ですね。顔を隠したままで鷹条軍に到着したかったのですが、仕方ありません。〉
針間は観念し、面頬を外す。
「おう、なんたる美男子。いや、家中の者ではないと思っていたが、面頬を外せなどと失礼なことを言って申し訳ない。某は大島新兵衛と申す。お手前の名をお聞かせ願えますかな。」
「私は、川後森広見と申します。」
針間はいつものように偽名を使う。
なぜか心がちくりと痛んだ針間は鍔に結んだ組紐を無意識に触ってしまう。
新兵衛の目がきらりと光る。
〈そう、その組紐だ。毒でも仕込んでいるのか。〉
用途が不明な組紐に疑いの眼差しを向けた新兵衛が指さす。
「その組紐は何か意味があるのか。そんなに短くて何に使うのだ。後学のために教えてくれんか。」
「これはお守りです。私の主君にいただいたのです。」
優しい目で針間が話すのを見た新兵衛は驚いた。
〈この男。こんな柔らかな表情ができるのか。随分と大事な主君らしい。そうでなくてはあれほど愛おしそうに触れんだろうしな。どうやら勘違いだったようだ。よし、この男は大丈夫だ。〉
針間への疑いは氷解しつつある。
「お主、主君持ちだったのか。あれほどの腕前だ。さもあろう。」
忍びとして針間は主君はいないと言うべきなのだが、なぜか言いたくなかった。
針間は沙魚丸の顔を思い浮かべる。
「寛流斎様をお助けしたのも主君からの命令なのです。」
「お主の主君にも礼を言わねばならんな。主君の名は、寛流斎様の横で聞かせてもらうことにしよう。」
そう言った新兵衛が唐突に頭を下げた。
「すまん。儂はお主のことを武蔵様の密偵かと疑っていた。今はそんなことは思っていない。だから、その馬のことを説明して欲しい。その馬はどこで手に入れたのだ。」
新兵衛は嘘を言うなと願う。
嘘を言えば、相打ち覚悟で飛びかかる気でいた。
〈寛流斎様の命の恩人。できれば、穏便に済ませたい。〉
「この馬ですか。戦が始まる前に本丸に忍び込んで盗んできました。一頭だけぽつんと寂しそうにしていたので、いただいてもいいだろうと思いまして。」
針間の人を食った返事に新兵衛は大笑いする。
「やれやれ。馬を盗まれるは、寛流斎様の命を獲る邪魔をされるは、武蔵様はお主にさぞご立腹であろう。」
針間は涼しい顔で新兵衛の笑い声を聞いていたが、内心ではさめざめと泣いていた。
新兵衛と話している内に、鷹条軍が見える距離にまで来てしまったのだ。
〈鷹条軍が目の前に・・・。新兵衛様は私のことを疑ってないとか言いつつ、私を離すつもりはないようですね。鷹条軍に潜入する計画は諦めることにしましょう。〉




