名乗り
沙魚丸は起きたくなかった。
〈はっ、恥ずかしい。どうしよう。このまま、寝てるわけにもいかない。だけど、立ちたくない。〉
もしも、寛流斎が寝転んでいる沙魚丸に矢を射かけさせたら、無防備な沙魚丸の体に幾本もの矢が突き刺さっていたことだろう。
しかし、武蔵と寛流斎の間で舌戦が繰り広げられていたことが沙魚丸には幸いした。
配下が見守る中で、誹りを受けるようなことは両者ともに避けたいからだ。
さっきまでのバチバチに睨みあっていた空気が変化していた。
寛流斎を含め、城門の前に立った武将たちは唖然となっていた。
〈何だ、この気の抜けた登場の仕方は・・・。ふざけているのか。〉
誰もがそう思った。
だが、倒れ伏したままプルプルと震え、なかなか起き上がらない沙魚丸を見て、
〈恥ずかしくて、どうしていいのか分からないのか。本当にこけたんだな。格好よく登場したかったろうに・・・〉
と皆は納得すると同時に憐れんだ。
同情する配下の中で寛流斎だけが安堵の息をついていた。
〈何だか知らんが、あの小僧のおかげで一息つけた。〉
一の門が開いておらず、武蔵が自信満々に椎名家の援軍が来るとぶちまけたりするなど、不測の事態が多すぎて、寛流斎も混乱していたのだ。
〈武蔵め。椎名家が味方についたなどと、はったりをかましおって。あいつのいつものやり口ではないか。〉
武蔵が嘘をついていると確信した寛流斎は落ち着きを取り戻した。
〈時間の無駄だ。正面から押しつぶすか。うーむ、被害は出したくないし、儂の家臣になる者たちを殺したくはない。〉
矢倉に立った椎名家の幟旗の周りに立つ者たちを見て寛流斎は笑った。
〈見知った顔ばかりで椎名の者などおらんではないか。そうか。本丸に入った商人が援軍の正体か。確か3名だったか。ならば、野句中様が椎名軍を滅ぼすことを待つことにするか。椎名軍が血祭りにあげられるのを見れば、武蔵に味方する者どもも心を変えるだろう。〉
寛流斎は領主となった自分を想像し、温存しておきたい気持ちが強くなる。
持久戦を決めた寛流斎に対し、武蔵は茫然としていた。
〈台無しだ・・・〉
足を柵に乗せて強者感を演出したり、椎名家の援軍が来ると言ったことで武蔵の狙い通り、寛流斎たちは明らかに動揺していた。
〈ここで沙魚丸を押し出せば、あいつらの動揺はもっと大きくなる。もしかしたら、俺に寝返る者もでるかもしれない。〉
武蔵はイケイケで、沙魚丸に合図を送ったのだ。
しかし、沙魚丸のずっこけでガラリと雰囲気が変わった。
武蔵は思わず、お辰を見た。
〈姉上か。姉上が仕組んだのか。〉
目は口程に物を言う。
お辰は武蔵の眼に書かれた文字をしっかりと読み取った。
肩をすくめたお辰は苦笑いをしながら、両手を合わせた。
〈ちょっと、力が強すぎたかしら。ごめんね、武蔵。わざとじゃないのよ。〉
武蔵は終わったと思った。
〈あと少しで、何とか騙し通せたのに・・・〉
武蔵がガックリとうなだれかけた時、沙魚丸が何事も無かったように立ち上がる。
そして、腰に手をあて息を思いっきり吸い込む。
〈いや、まだ、いける。沙魚丸がびしっと決めてくれれば、まだ行けるぞ。〉
武蔵は新たな希望を持った。
だが、沙魚丸の名乗りを邪魔する者が現れる。
「待て。」
声を上げたのは、木下秀俊の父、木下秀元である。
「武蔵様。その小僧の血を拭いてやりなされ。」
はぁ?っと、武蔵が横に立つ沙魚丸の顔を見た。
〈うわぁ、鼻血が出てるよ・・・。おかしいな。沙魚丸はちゃんと手をついていたから顔は打っていないはずだが。あぁ、緊張してのぼせたのか。〉
腑に落ちた武蔵は何か拭く物はと自身の体を探るが、どこにも拭く物がない。
慌てて大山崎を探すと、すでに武蔵の横に大山崎が膝まづいて布を差し出していた。
〈やはり、大山崎よ。〉
満足そうに頷いた武蔵はぽたぽたと鼻血をたらす沙魚丸の顔を拭く。
「沙魚丸殿、しばらくこれで鼻を抑えているのだ。」
布を渡した武蔵は沙魚丸の首の後ろを叩こうとするが、
「武蔵様。おやめください。」
大山崎が小声で制止する。
何で?という顔をする武蔵に大山崎がこっそりと答える。
「鼻血を止血するのに首の後ろを叩いても止まりません。出血している側の鼻を押さえれば、とりあえず大丈夫です。」
〈あぁ、そうなのか。それにしても、何と気のきいた男よ。〉
武蔵の面子を大事にしてくれる大山崎の点数は武蔵の中で爆上がりである。
「ありがとうございます。もう血も止まりました。」
血が止まったことを確認した沙魚丸がきりっとした顔を武蔵に向ける。
〈恥ずかしいのを我慢してるんだから、一発で決めるわ。名付けて、何事も無かったようにして、切り抜ける作戦よ。もう、誰も邪魔しないでね。〉
沙魚丸の顔を見た武蔵は吹き出しそうになる。
〈ごしごしと拭いたせいで、血の跡が顔に落書きをしたみたいになっているな。何と言うか、引き締まった顔をされると、逆に面白い顔になって笑えるのだが。〉
笑ってはいけない、と武蔵は沙魚丸の肩を軽く叩く。
「では、俺が改めて紹介をしよう。」
武蔵は微笑むと大声を出す。
「椎名家は三日月家に味方して下さることになった。こちらにいらっしゃる方こそ、椎名家の援軍の将。」
武蔵が両手を沙魚丸に向ける。
〈なんか、スターっぽいわね。〉
沙魚丸は照れつつも、いい気分になる。
「私は、椎名沙魚丸。椎名家は三日月家を助けることを決め、私を鶴山城に派遣しました。今、降伏すれば、私から武蔵様にとりなして上げましょう。」
普通ならば、ここで罵詈雑言が沙魚丸に飛ぶ。
寛流斎も配下の者が沙魚丸の提案を即座に否定したり、沙魚丸の存在自体を疑う声を上げるだろうと思っていた。
だが、誰も何も言わないのだ。
武蔵ですら、この沈黙をいぶかしく思った。
〈なぜ、誰も声を上げない。まさかとは思うが、沙魚丸殿の言葉が効いているのか・・・〉
武蔵と寛流斎以外の者は、沙魚丸に同情してしまったのだ。
熱い舌戦を繰り広げる二人の中を足取りもおぼつかない元服前の子供が現れ、顔からべしゃりと倒れたのだ。
しかも、痛いはずなのに必死で堪えながら名乗りを上げようとする顔からは、おびただしい血が流れているように見える。
寛流斎の配下の武将たちは、自分の子供か孫を彷彿とさせる姿をしている沙魚丸に対して心を動かされてしまった。
特に、自分の子供が酷い目にあわされている木下秀元に至っては、名乗りをしっかり上げた沙魚丸に小さく拍手をしているのだ。
〈元服前と言うのに、大したものではないか。あれぞ、武士の姿。それに引き換え、秀秋の馬鹿が。あのようなみっともない姿を衆目の前に晒すとは。〉
武蔵ほど機を見るに敏な男はいない。
沙魚丸が与えた衝撃の大きさを武蔵は何となくではあるが嗅ぎ取った。
〈ここだ。〉
武蔵は急いで手招きをする。
「この御方は、椎名家にその人ありと謳われる槍の源之進殿だ。お前たちが束になっても勝てぬお方だ。潔く降伏しろ。」
矢倉の上に立派な甲冑をまとった源之進が武蔵の横に立っている。
〈おおっ、源之進さんがカッコいい。源之進さんって派手な鎧も似合うのね。〉
沙魚丸だけではない。
「あれが、槍の源之進・・・」
寛流斎の配下たちは源之進を憧れるように見ている。
彼らの反応を見た沙魚丸は、誓いを立てる。
〈槍の源之進の名の威力を引き立てる甲冑が必要ね。主君として頑張るわ。〉
凛々しくも雄々しい甲冑姿の源之進に当てられた寛流斎の配下の間には、椎名家の援軍が本当かもしれないと言う空気が漂う。
「馬鹿者。椎名家の軍勢が城に入ったなど報告は来ておらん。はったりだ。お前たちも武蔵のはったりは知っておろう。」
源之進の名を聞いて気が抜けたようになっていた寛流斎の配下の顔つきが引き締まる。
ちっ、と武蔵は舌打ちをした。
〈あんまり、はったりばかり言っていると、信用なくなるな。生き延びれたら、今後は肝心なところでしか使わんことにしよう。〉
わずかに反省する武蔵だが、
「援軍が一人だと誰が言った。こちらの方を見よ。」
矢倉の上にのしりと立ったのは、次五郎である。
〈えっ、いいの。次五郎さんは鷹条家の家臣ってみんな思ってるんじゃないの。〉
沙魚丸は驚いて、二人を見た。
「この御方こそ、茄子次郎五郎殿である。あの茄子家の御次男よ。鷹条家の御方が俺の横にいらっしゃるということが、どういうことか分かるか。謀反などと馬鹿なことを起こす間抜けなお前たちに教えてやろう。」
寛流斎はしまったと思った。
〈この流れは、まずい。武蔵に次の言葉を言わせては・・・〉
「鷹条家は、我が城の前で陣を張っている野句中家を裏切り者とした。その知らせをもたらしたのが、こちらにいらっしゃる茄子殿だ。」
〈おおっ、すごい嘘ね。でも、武蔵さんの顔が喜びに満ち溢れている。強烈な嘘を言ってるから幸せなのかしら。〉
沙魚丸のいい加減な感想を寛流斎は鋭く断ち切る。
「その者が茄子殿の御次男である証拠など無い。武蔵。そのはったり癖をやめねば、お前がおちる地獄は大叫喚地獄だぞ。」
はん、と武蔵が顎を上げて笑った。
「俺が行く地獄の心配など不要。」
さらに、武蔵は寛流斎の配下の一人に言う。
「お前。扇を立てろ。茄子殿が見事に射抜いて見せよう。」
武蔵の言葉に沙魚丸は心の中でつっこんだ。
〈那須与一っぽい!〉
次五郎は明らかに嫌そうな顔をして、小声で言う。
「外してもいいのか。」
「何を言ってる。空気を読めよ。ここは絶対に当てるとこだろう。」
「仕方ねぇなぁ・・・」
「お前が欲しがってたアレをやるから。」
「一体、何年前の話をしてるんだ。」
二人の緊張感が感じられないコソコソ話が聞こえて来る。
〈二人の時はタメ口なのね。〉
沙魚丸はほっこりとしながら、立てられた扇を見た。
〈何よ、あれ。普通の扇より小さくない。〉
沙魚丸が思った通りである。
彼らが使った扇は女物の扇である。
軍扇よりもかなり小さい。
〈卑怯と言いたければ言うがよい。鷹条家が武蔵に味方したなどと嘘に決まっておる。あのような者が次五郎のわけがない。当たるわけがない。ないのだ!〉
寛流斎の願いも虚しく、次五郎が放った矢はあっさりと扇を射ぬく。
〈いいぞ、五郎。素晴らしい活躍だ。これで、俺たちの勝ちだ。〉
武蔵は勝ちを確信した。
源之進や次五郎から雨情の作戦を聞いていた武蔵は、ひたすら時間を稼ぐことにしたのだ。
時間を稼いでいる内に、雨情軍が野句中軍を打ち破る。
その一点に武蔵は賭けた。
武蔵の賭けは的中した。
「あちらを見よ。」
武蔵の勝ち誇った声が鳴り響いた。
武蔵が指さした山腹に椎名家の幟旗がずらずらと立っている。
雨情が野句中軍を騙すために掲げさせた幟旗だが、寛流斎の配下は椎名軍の援軍が来たと信じてしまった。
さらに、武蔵が叫ぶ。
「次は後ろを見ろ。」
雨情軍が野句中軍へ突撃を始めた。
野句中軍が蜘蛛の子を散らしたように逃げて行く。
寛流斎に驚いている暇はない。
「武蔵様。私は武蔵様にお味方いたします。」
矢倉の上に立つ武蔵に宣言し、寛流斎が率いる兵に槍を向ける者が出た。
裏切り者をどうするか、寛流斎が悩む番となった。




