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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

王家の罪の形

作者: 月森香苗

■かなり重い内容になっております。

■読み手を選びますのでご注意ください。

■合意の無い性行為があったという描写がありますのでご注意ください。

■閲覧に対し注意する点が多々ありますのでこの時点で嫌な予感がした場合は閲覧を中断してください

 その日、貴族を震撼させる発表が行われた。

 一つ目は、王太子の婚約者である令嬢が処刑されたということ。

 二つ目は、三年前にとある令嬢が王太子の婚約者であった令嬢を迫害したとして罪に問われたが、実はそれが冤罪であったこと。


 その事件については貴族であれば知っていた。何故なら王家が全貴族に宣告したからだ。

「カサドゥシュ伯爵家の嫡女セリーヌは、マリヴォー侯爵家令嬢アンジェリーヌを迫害していた。その内容はあまりにも凄惨且つ非道である。鞭打ち十回の刑の後、アンベール辺境伯家のヴァレリーを婚姻させ監視下に置く。生涯辺境伯領より出ることは許されない」

 貴族の令嬢が鞭打ちの刑を処されるという事はまずない。そしてアンベール辺境伯領と言えば魔獣が多数出る危険地帯であり、真っ当な貴族家であれば娘を嫁がせたくないという程過酷な場所である。更に、ヴァレリーは次期辺境伯であるが二十歳で婚約者はおらず、結婚するつもりはないと宣言しており、しかし愛人は複数名いるという事で有名であった。

 そんな場所に嫁がされることがセリーヌへの罰だという事は誰もにでもわかる事で、しかし王家の決断に逆らう者は誰一人としていなかった。

 当時は社交界もざわめいたが、三年も経てば誰もが忘れていた。だが、ここに来て王家から告げられたのはセリーヌの冤罪という発表。王家が翻したのだ。その衝撃は想像を絶するものだ。


 王太子の婚約者であったアンジェリーヌは王立学園に在学当時、頻繁に怪我を負っていた。一人で手当てをしている姿を目にした王太子が何気なく声を掛けたところ、彼女は最初の頃は己の不注意であるという事を主張していたが、人為的なものであるという事に王太子は直ぐ気付いた。

 強く問い詰めたところ、カサドゥシュ伯爵家のセリーヌによって迫害されているという事をアンジェリーヌは涙を堪えながら語った。そこで王太子は側近候補を使い実態を調査させたところ多くの証言を得られた。曰く、セリーヌはアンジェリーヌを身体的に迫害している、と。

 時に庭園に設置されている噴水にアンジェリーヌを突き落としたり、刃物で彼女を攻撃したりなど。目撃をした生徒たちは実に痛ましそうに側近候補たちに証言をした。

 この頃になると王太子はアンジェリーヌへ好意を寄せるようになっており、侯爵家という身分であれば王家に嫁ぐにも問題なしと判断し国王に奏上し、国王もマリヴォー侯爵家ならば問題ないと判断した。そしてその流れでセリーヌのアンジェリーヌへの迫害を訴え、「王太子の婚約者への迫害」という体で彼女を罰し遠くへと追いやった。

 その時の王太子は間違いなくこれでアンジェリーヌは安全になったと信じていた。

 セリーヌは否定をしていたようで、鞭打ちをされてもなお否定し続けていたと言うが、見苦しい足掻きだと切捨てていた。罪状が確定するまでの間は貴族用の牢に捕え、罰が与えられてから着の身着のままで辺境伯家へ送り出したので彼女は捕えられてから一度として家に帰る事が許されなかった。

 カサドゥシュ伯爵家は特に目立つような家ではなく、社交界にもあまり顔を出さない事で知られていた。そしてセリーヌの一件から一切王都に出ることなく、領地で細々と生活をしていた。社交界と断絶し他家との交流が途絶えるというのは家が傾くも同然なのだが、それでも何とか持ちこたえている状態であった。

 それから三年。王太子は少しずつおかしいと思い始めていた。

 アンジェリーヌには王太子妃としての教育を施しているのだが、まるで学園時代の頃のように誰かに虐げられているというのだ。王宮での教育をする以上、護衛を兼ねた監視をする者は多い。だが、監視している者はアンジェリーヌを虐げている者はいないという。頻度が増えるにつれ違和感を覚えた王太子は、側近候補から側近になったものではなく、元々王族に仕える幼い頃から信用している侍従を使って学園時代に証言をした数名を内密に呼び出した。

 そしてあまりにも信じられない事実を知ってしまう。


 修道院に入っていた令嬢は、苦痛に満ちた表情を浮かべながら袖をまくり上げた。悲鳴と涙を零しながら見せてきたものは、王太子にはとても信じがたいものであったが、理解した瞬間、王太子は筆頭王宮魔導士を呼び出した。

 袖を隠して漸くその令嬢は苦痛から解放されたのだろうが、嚙み締めた口の端から血が流れていた。それでも何とか意識を保っているのは奇跡的であった。

 筆頭王宮魔導士が暫くして入室した瞬間、彼の眉間に深い皺が刻み込まれた。


「その令嬢の腕から、アンジェリーヌ嬢の強い魔力を感じます。殿下、一体どういう事でしょうか」


 この国では魔力を持つ者はそれなりにいるが、その力は精々ランプに火を灯す、コップ一杯分の水を生み出す程度だ。強力な魔力を持つ者は王宮に召し上げられることになる。それはあまりにも強い力を持っていると一種の災害にも近しくなるからだ。もしも王宮に召し上げられるのを断るのであれば、魔獣の出る辺境伯領に赴く事になる。その能力を魔獣退治に使えというのが王国の考えだからだ。

 王太子は魔力を持っているがその力は弱い。魔力の強い者の力を弱い者は察知出来ない。だが、筆頭王宮魔導士ともなれば上回る者は少ない。


「このままだとこの令嬢の命が危険です。お嬢さん、処置をする間眠らせますよ」


 こくりと頷いた令嬢に睡眠の魔法を掛けた筆頭王宮魔導士は改めて意識を失った令嬢の修道服の袖をめくった。

 そこにあったのは黒の魔法陣。


「隷属魔法ですね。これの主はアンジェリーヌ嬢で間違いありません。ここの魔術式に彼女の名前が刻み込まれています。読み解く限り、アンジェリーヌ嬢に逆らわない、この術式について口外しない。見せてはいけない。口外すれば痛みに苛まれる。悪趣味ですな」

「これを、解除することは出来るか」

「勿論。念の為結界を張らせていただきます。本来であればこのような隷属魔法の術式を解除すると施した相手に解除が伝わるのですが、そうならないようにしましょう」


 結界を張り何か複雑な術式を構築した筆頭王宮魔導士は魔法を発動した。腕から消えていく魔法陣。そしていつの間にか筆頭王宮魔導士の手にあった紙にそれが移されていく。

 彼曰く、消滅するから判明するのであって移動程度ならばわからないという事だ。特殊な紙に転写されたそれは黒々としており悍ましさを感じる。

 睡眠の魔法を掛けられていた令嬢に目覚めの魔法を掛けると、ゆっくりと令嬢は目を開けた。


「お嬢さん、貴方を苦しめたものはもうないですよ」

「あ……あぁあああ!私は、私はなんという罪深いことを!お許しください、お許しください、セリーヌ様!」


 袖をまくり腕から魔法陣が無くなったことを確認した令嬢は慟哭しながら罪に問われたセリーヌの名を叫ぶ。


「セリーヌ様は何もしておりません!アンジェリーヌ様を迫害などしておりません!出来ないのです!セリーヌ様に出来ない物が彼女の罪になっていました!」


 涙を流しながら手を組み、血の気が引いた顔で叫ぶ令嬢に王太子は落ち着くように言いながら詳細を問う。


「セリーヌ様は水の近くに寄れません!幼い頃、領地の湖にてそこに生息していた魔獣に引きずり込まれ危うく命を落としかけてから、水への強い恐怖を抱いていたのです!入浴程度ならば良いのですが、噴水などの外部にあり水の流れがある所など、セリーヌ様は近寄れないのです!過去の記憶のせいで彼女は失神してしまうのです!そして刃物も同様に、魔獣の鋭い爪が眼前にあった所為で強い恐怖を覚えていたのです。彼女の食事は既に切られたものでフォークかスプーンしか使えません!カトラリーのナイフでも駄目なのに、人を傷つけるナイフなど持てるはずもないのです!」


 神よ、お許しください。

 何度も神への懺悔を繰り返す令嬢に、魔法陣の事を問えば。


「アンジェリーヌ様に付けられました。あの当時の多くの生徒はアンジェリーヌ様によって隷属の魔法が掛けられております。体の見えない所に付けられ、偽証を命じられました。逆らえないのです。訴えようにも訴えられず、そして王宮魔導士様に接触出来るような場所に勤められないよう命じられた子息もいました。ああ……セリーヌ様、申し訳ありません!あれ程までに救って下さったのに、私は貴方を裏切ってしまいました!」


 悲痛な叫びは嘘偽りと思えず。他にも証言をした者を呼び出しては確認すれば、全ての者に隷属の魔法が掛けられていた。それを解除するや、誰もが泣きながらセリーヌへ詫び、アンジェリーヌの罪を暴いていく。筆頭王宮魔導士と共に彼らの証言を聞いていた王太子は、己の罪を自覚せざるを得なかった。

 何故、まだ同じ学生でしかなかった側近候補に調査をさせたのだろう、と。後に、王宮の情報管理を行う部署に勤めて長い者に話を聞く機会があり問うたところ、セリーヌに起きた出来事は当時その部署では有名であったそうだ。辺境の地ではなくその内側にあるただの伯爵領にある湖に水棲の魔獣がいるというのは大きな問題であった。だが他の領への不安を駆り立てない為にも水面下で処理されていた出来事であった。

 その当時のことを知る者は既にその部署では男しかおらず、しかし彼は平民であった為、処罰されたのが被害者であったセリーヌであるという事を知らなかった。更に不運なことに、調査書などは別の者が管理していた為、彼の認識には無かった。

 事情全て把握した後、彼は「セリーヌ嬢には少なくとも水に関わる物と刃物に関わる物は無理です。あの当時、あまりにもひどく反応する為医者に見せた所、心に深い傷を負い、治ることは無いと判断されたのです。それから様子を暫く見ることになったのですが泣き叫ぶどころか失神するようになったので、彼女は決して水場に寄らず刃物にも近付かないよう言い含められていました」と証言した。


 処罰から実に三年の月日が経過して漸くセリーヌの冤罪が証明された。そしてアンジェリーヌはあまりにも悪辣な行為を行っていたと判断され処刑された。隷属の魔法は人権を蹂躙するもので禁術とされている。被害人数は多く、偽証をさせられ精神を病んだ者、自殺した者もいるという。

 セリーヌを選んだのは、彼女が多くの人間に慕われていたから。それだけの理由でアンジェリーヌの標的にされた。


 王太子は自らアンベール辺境伯家に足を運んだ。無実にも拘らず罪を背負わされ罰を与えられた彼女がアンベール辺境伯家で真っ当に扱われていると思えなかったのだ。先触れを出す余裕も無く、筆頭王宮魔導士を伴い転移の魔法を使って辺境伯家に赴けば、ヴァレリーが愛人を侍らせ出迎えた。

 セリーヌの居場所を問えば、ヴァレリーは把握していないという。執事に問えば、離れにいますと言われた。案内するように告げれば、少しばかり逡巡したので速やかに案内しろ、と強く言うと、執事は顔色悪くその場所に連れて行った。

 それを離れだというのであれば、きっと貧相な村の家なども離れと言えるだろう。

 小さく古びた小屋は穴が空いているところもある。物置小屋もマシなほどのあまりにもみすぼらしいそこに王太子は駆け込めば、ぼろぼろのベッドの上で女が一人今にも死にかけている様子で横たわっていた。

 痩せ細り服もぼろぼろで、髪の毛もべたついている。


「セリーヌ嬢!!!!!」

「殿下!動かしてはなりません!」


 魔導士の言葉に王太子は伸ばした手を引っ込める。筆頭王宮魔導士が治癒の魔術を施しながらゆっくりと体の内側に力を注ぎこんでいく。虚ろな目で天井をただ見て、小さく細い息を吐くだけの彼女はどれだけの日数ここにいたのだろうか。


「なんだ、まだ生きていたのか」

「ヴァレリー、どういうことだ」

「はぁ?だってそいつ、罪人だろ。だったらどういう扱いをしてもいいだろ。まあそいつがきて良かったのは子供を産んだことか」

「子供……お前、彼女を抱いたのか」

「罪人なんだからいいだろ?生まれた子供はちゃーんとこっちで養育してるしさ」


 けらけらと笑う男は、戦闘においては優秀だった。間違いなく優秀であったが人間性については問題を抱えていた。だからこその罰になると判断されたのだが、無実の罪であるならばあまりにも酷なことをしてしまったと王太子は後悔というには生温い感情に襲われる。


「セリーヌ嬢に下された罪は全て冤罪であったと証明された」

「は?」

「彼女は無実であった。王家はその発表を行う。無実の彼女に罪を背負わせ罰を与え、お前の所に嫁がせた。婚姻をさせたが監視を目的とし、白い結婚とすること。長い年月を贖罪に当てる為、最低限の生活をさせること。これを王家は条件に出した。そしてアンベール辺境伯はそれを受け入れた。白い結婚は当たり前だ。罪人の血を残さないようにする為だ。だというのに、お前は!彼女に手を出し子を産ませたのか!」

「何、言ってんだよ」

「辺境伯には重々言い含めたはずだ!それなのに何故こんな朽ちそうなあばら家に彼女はいる!何故最低限の生活をさせていない!あまつさえ子を産ませただと!」

「親父は、この女が来てからしばらくして怪我を負って今でも療養地で静養している、けど!」

「お前は王家からの命に全て逆らったのか……子を産ませて取り上げ、そしてこんな場所に一人で放置させて」


 ヴァレリーは辺境伯家と王家との間の取り決めなど知らなかった。ただ罪人となった女が来る事だけを聞かされていた。それがヴァレリーの婚姻相手で、結婚するつもりはなかったので不満だった。

 辺境伯が与えた部屋で静かに暮らしていた女の存在をヴァレリーは直ぐに忘れた。しかし父親である辺境伯が魔獣撃退の際に大怪我を負い、その療養の為に静養地に赴くと屋敷にはヴァレリーと使用人しかいなくなった。愛人は外部に住んでおり、魔獣討伐の後に気が高ぶると呼び寄せていたのだが、ヴァレリーはふと罪人としてきた女を思い出した。

 ちょうど魔獣討伐の後で気が高ぶっていたのもあり、部屋に踏み込んで女を抱いた。思ったよりも顔も体も悪くなく、幾度となく抱いたが気付けば孕んでいた。

 結婚の意思がないヴァレリーに父は幾度となく子供のことを言っていたので丁度いいと産ませた後はどうでもよくなり放置した。気付けば女はその部屋からいなくなっていたのですっかり忘れていた。

 子供は執事が手配して乳母を雇い、気付けば愛人の一人が母親のように振舞っていたが、好きにさせていた。

 王家からの取り決めなど、何も知らなかった。手を出してはいけない女だという事など知らなかったのだ。


「殿下、王宮に戻りましょう。治療術に特化した者があそこにはいますゆえ」

「ああ。ヴァレリー。沙汰は追って出す。身辺整理をしておけ」


 罪に対する罰を決めたのは王家である。だが、それでもセリーヌの心身は最低限保証されるようにはされていた。既に鞭打ちという罰を与えている以上、体を傷つける罰を与えるのは過剰だからだ。だというのに、生命を脅かされる程の状況になっているなど。

 セリーヌとて婚姻が罰であり、白い結婚であることは伝えられていたはずだ。だというのに子を産まされて取り上げられて。彼女が生きているのも奇跡だとしか言えない。

 筆頭王宮魔導士により眠らされたセリーヌを抱き上げた王太子は、そのあまりの軽さに跪き神に許しを乞いたくなった。アンジェリーヌと婚約している間、彼女を何度も横抱きにしたことがある。その時も軽いと思っていたが、セリーヌの体はそれ以上に軽かった。見える手足は骨と皮だけで、顔だって痩せこけている。

 涙ながらに無実を訴えていたのを朧気に王太子はその時のセリーヌはもっと肉付きが良く顔立ちだって愛らしかった事を思い出した。


 王宮へ連れ帰り、離宮で彼女を保護すると国王しか診察しないはずの医者が国王から寄越された。王太子の調査は証言者が多く、実際にアンジェリーヌも傷付いていた事もあり信憑性が高いとして認めてしまったのは国王であった。当時隣国との折衝が佳境に入っており国内の騒動に関与する時間は殆どなかった。

 王家の怠慢と言われればその通りで、戦争になるかどうかという瀬戸際であったとしても許されない過失に違いはない。故に、セリーヌの保護と治療は国内でも最高峰の物をしなければならなかった。

 治療術に特化した魔導士と医者の両方が治療計画を立てたが、彼女はあまりにも衰弱していた上、体もぼろぼろで動けるようになるのがいつになるかわからないというのが見立てであった。


 領地でずっと息を潜めて生活をしていたカサドゥシュ伯爵に使者を送ったところ、登城出来るぎりぎりの姿で夫妻は王都にやってきた。王都と領地は馬車で二日かかる。出来るだけ急いでも一日半くらいにしか短縮できない。それでも夫妻はやってきた。

 伯爵夫妻にとってセリーヌはただ一人の娘であった。何かの間違いだ。娘は水場に近寄れず刃物も触れられないと訴えても聞き届けられなかった。目撃証言の数の多さが正義であった。

 離宮の一室、ベッドで眠り続けるセリーヌを見て夫妻は泣くしか出来なかった。

 本来であれば彼女はカサドゥシュ伯爵領の総領娘として後継者教育を受け、婿を取って幸せに暮らしていたはずだ。親元で愛されて幸せな結婚をし、子どもを産んで領地を繫栄させる為に頑張っていたはずだ。

 アンジェリーヌの「彼女が多くの人間に慕われていたから」という理不尽な理由で罪人になり、背中に鞭打ちの消えない傷を刻まれ、辺境伯領では迫害され暴行によって子を孕まされ奪い取られ。そして生死を彷徨う事になった。


「私達の娘の罪は何だったのでしょうか」


 痩せてしまった伯爵夫妻はお互いを支え合いながらセリーヌの傍らでやつれた手をそっと握っている。零した言葉に王太子は視線を下に向けるしか出来なかった。


「彼女には、何の罪もなかった。罪もないのに罰を与えたのは、私だ」

「セリーヌは水の近くに寄れません。入浴は何とか耐えられるようになりましたが、噴水は恐怖の対象です。領地の屋敷からも噴水は撤去し、池も埋めました。小さな水たまりですら幼い頃は恐怖で意識を失っていました。そんなあの子が誰かを噴水に突き落とすなど、無理なことです」


 セリーヌの手の甲を撫でる伯爵は淡々と告げる。令嬢の一人が泣き叫びながら告げた事と同じことを言う。


「鋭いものも駄目になりました。魔獣の爪が刃物に近く、カトラリーのナイフも恐れ、食事は既に切られた状態で提供されていました。私たちが使うのも当初は恐れていて、成長していく内に他人が使うのは何とか我慢できるようになりましたが、自分の手の内にあるのは恐怖となっていました。彼女のランチは常にナイフを使わなくても済むように調理されていました」


 水浴びは恐ろしくて出来なかったのだろう。汚れ切った体は清浄魔法で綺麗にした。服も体に負担が無いように薄く軽いものになっている。温度の変化が体調の悪化に繋がるので常に一定に保つ魔道具が設置されている。

 彼女を救出した翌日、一度セリーヌの脈が止まりかけた。医者は国王専属だが、現在の国王は健康そのものの為、安定するまではこの離宮に滞在するよう命じられている。そのおかげもあってか、直ぐに対処して何とか持ち直したが、予断は許されなかった。 

 今のセリーヌは筆頭王宮魔導士のかけた睡眠魔法で夢を見ることもなくずっと眠り続けている。眠っている事で体の回復に集中出来るのもあって、解除するのがいつになるかは分からない。


「殿下、私達は国に忠誠を誓う臣下です。ですが、此度のことはどうしても割り切れないのです。私達の娘は、何故このような状態になっているのでしょうか。私達はそんなに罪深いことをしたのでしょうか」


 王家というのは国の頂点に立つ存在であり、その発言や決定は絶対的なものである。三年前に王家が下したセリーヌへの罰はカサドゥシュ伯爵家にも当然ながら影響を及ぼしている。カサドゥシュ伯爵家に連なる一族は総領娘のセリーヌの無実を信じてずっと耐えてきた。


 王家から発表があったのはそれから一週間後の事。

 一人の令嬢が王妃になる為に画策した悪辣な手段。生贄にされた一人の少女への過酷な仕打ちは隠される事なく全て貴族に公開された。当然ながら、王家に非難は集中したが同時に辺境伯家の嫡子であるヴァレリーへの非難もあった。

 辺境伯からうまく引継ぎが出来なかったとしても、子を孕ませ産ませその後放置したのは許される事ではない。子を産むのは命懸けであるというのは誰もが知る事。貴族の中にはそれで夫人を喪うものだっていた。政略ではなく、愛情もないのに凌辱し命を軽んじたヴァレリーの罪は明白である。何故ならば、今回ばかりは王太子と筆頭王宮魔導士が自らの目で確認した上、彼の発言も確認したからだ。

 事情を知らされた療養中の辺境伯は自害しそうなほどであった。己の息子がどうしようもないという事は自覚していたけれども、まさかそれで幽閉している罪人とされている女性に手を出すなど考えてもいなかったのだ。そして己についてきた執事ではなく、その息子であるまだ執事見習いでしかない男が勝手に取り仕切っていたという事実も彼を打ちのめした。辺境伯自身かなりの深手を負いそれなりに動けるようになるまで二年はかかった。治癒魔術の効かない特殊な体質だったのが悲劇を加速させたと悔やんでいる。

 執事も中々辺境伯の傍を離れられず、息子から送られてくる報告書では問題がないとなっていたので信頼していたのだ。問題しかなかったのに。

 産ませた子供は速やかに愛人の手から取り上げ辺境伯の元に送られた。愛人を母として認識しているようで散々泣き喚かれたが、辺境伯の世話をする一人の女性が愛情をもって面倒を見ているという。愛人は辺境伯の許可もなく屋敷に滞在し、あまつさえその資格もないのに辺境伯の血を継ぐ者の母を詐称したという事で辺境伯領の領地にて囚われている。

 辺境伯は送られてきたセリーヌを見て、王家から言われたような罪人に見えないという感想を抱いた。元々婚姻はさせても白い結婚であり、最低限の生活をさせて幽閉するというだけだったが、時期を見て実際に正しかったのかどうかを調査しようと思っていた。しかしその前に魔獣により己が生死を彷徨う事になりそれが出来なくなってしまっていた。せめて本邸で静養していれば非道な行いなど起きなかっただろう。


 セリーヌはずっと眠り続けていた。

 最初の一か月は直ぐに体調が悪化したりしたが、それも次第に安定してきた。

 医者の常駐は解かれ、治療魔術師と侍女がずっと傍にいた。カサドゥシュ伯爵夫妻は長く領地を留守に出来ないという事で目覚めさせる時には連絡をするとし、領地へと戻っていった。王家を恨んでいてもおかしくない。しかし最高の治療を施せるのは王宮が一番だという事も分かっている。だからこそ苦渋の決断で娘を預けたという事は王太子にだってわかった。


 王太子は政務の合間、セリーヌを訪れては様子を見ていた。自分がアンジェリーヌの言葉を疑わず、調査も側近候補という権限もさほどない子供を利用したせいで地獄を見た一人の女性にどのような贖いをすればいいのか全く分からなかった。

 物語であれば彼女に恋心を抱くのかもしれない。しかし、己の罪を体現した彼女を前にそのような気持ちを抱けるはずなどない。だからと言って彼女を疎ましく思うのかとなればそんなことはあり得ない。彼女が目を覚ました時、彼女はどうなるのか。王太子には全く想像も出来なかった。

 一人の人生を狂わせ傷つけ地獄を見せ。彼女だけではない。アンジェリーヌによって狂わされた人間は多い。自死を選んだ者すらいる。精神を病んだり、王宮魔導士を夢見ていたのに叶わず辺境の地に赴いたものだっている。アンジェリーヌの自分勝手な振舞いでどれだけの人が傷付いたのだろう。

 自死を選んだ者にだって家族はいる。何故死を選んだのかすら分からなかったのではないだろうか。口外できないように制限されていたのだろうから。

 告発してくれた令嬢も出家して修道院で罪を償いながら、それでも言えない苦しみに苛まれていた。神への懺悔を繰り返しながら、だからと言ってセリーヌへ許しを乞えぬ状況を三年も続けていた。

 アンジェリーヌは悪女として処刑された。毒杯ではなく、斬首だ。

 セリーヌに与えた鞭打ち十回では足りぬ。十回でも背中に消えぬ傷痕がついたというのに。三十回の鞭打ちの他、多くの身体的な罰を与えられて後、彼女はギロチン台に跪かされた。最後の最後まで己は悪くないと叫んでいたが、彼女が刻み付けた隷属の魔法の主である彼女は自らの体にその証拠を残していた。隷属のみならず他者の魔力すら奪っていたのだ。魔力が多い者は使い勝手がいいのでさほど奪い取らなかったけれども、人数が多ければその分集まる量も増える。

 背中にあった魔法陣がまさに彼女の罪を証明していた。あのままでは王太子とて隷属させられていた可能性はある。

 アンジェリーヌの生家である侯爵家は潰された。あまりにも極悪非道な術式を使えるというのは彼女だけでどうにかなるものではない。国王自ら調査をさせた結果、代々隷属の魔法が伝えられていた。王家で禁術としているにもかかわらず使用し続けてきた罪は重く、一族郎党に至るまですべてが処刑された。子供とて許されない。何故ならばマリヴォー侯爵家は「血」に魔術を刻んでおり、仮令記憶を消したとしても魔術の使用が可能だからだ。完全に根絶やしにしなければならなかった。


 セリーヌの体が少しずつふっくらとし始め、体も常に冷え切っていた状態から触れたら温かく感じられるのが通常になるのに半年ほどかかった。そろそろ起こしても問題はなく、体を動かしていかなければ歩けなくなるという判断が下された。

 カサドゥシュ伯爵夫妻に使いを寄越す。夫妻は直ぐに離宮へとやってきた。そしてふっくらとした彼女を見て涙をこぼしていた。出来るだけ体の傷が無くなるように治療魔導士は尽力した。それでも既に塞がってしまっていた背中の大きな傷は治しきれなかった。精々薄くなる程度にしか出来ず、限界に打ちのめされていた。

 王太子は怖かった。

 セリーヌが目を覚ます事が恐ろしかった。

 自分たちの罪を公にし出来る限りの対処をした。しかし最も被害を受けた罪なき彼女からの罰が与えられていない。

 隷属魔法によって自死した者の遺族は、王家に罪はなく、罪があるのはアンジェリーヌであるとしたが、セリーヌへの罪は王家のものだ。王太子のものだ。


 筆頭王宮魔導士の手によってセリーヌに掛けられていた睡眠魔法が解除される。

 髪の毛と同じ優しいミルキーブロンドの睫毛が震える。ずっと伏せられていた瞼の下からゆっくりと現れるのはアンバーの瞳。十七歳の時に罰を与えられ、二十歳になって救われるまで彼女はずっとたった一人だった。

 ゆっくりと瞬きを繰り返したセリーヌにカサドゥシュ伯爵夫妻は体を震わせながら言葉もなく彼女の手を強く握った。


「おとう、さま……おかあ、さま……」


 掠れた声。ずっと声を出していなかったせいで詰まりながら小さく囁くような声だった。


「セリーヌ……セリーヌ……」

「ああ……可愛い私の娘……もう、もう大丈夫よ……貴方の無実は、証明されたわ」


 震える声で名を呼ぶしか出来ない伯爵と頭を撫でながら彼女に告げる夫人。王太子は外から見ているしか出来ない。体の肉付きは戻っても筋肉は戻っていない。起き上がる事も出来ないセリーヌは首を少しだけ動かし、視界に両親を入れた後、室内に立っている王太子を見て、そして口元を震わせた。


「わたしは、あのかたを……」

「セリーヌ嬢、すまなかった。全ては私の罪だ。貴方は何もしていなかった。私が貴方を地獄に落とした」


 必死に言い募ろうとするセリーヌの言葉を遮った。セリーヌは何もして無かった。無実だった。ぽろりと涙を零したセリーヌは、止められない涙を流し続ける。


「ここは……」

「セリーヌ。ここは王宮だよ。セリーヌの体は衰弱しきっていて治療をして下さったんだ」

「……そう……」


 伯爵の言葉にセリーヌは瞼を閉じる。彼女が何を思っているのかは分からない。伏せられた瞼の下で彼女が反芻しているのはこれまでの日々だろうか。


「わたし、いきているんですね……」


 掠れた声がぽつりと小さく零れ落ちた。



 セリーヌが起き上がれるようになるのに更に一月を要した。伯爵は領地に戻り夫人がずっとセリーヌの傍にいた。領地に戻して静養するほうがいいのだろうけれども、それも出来ないほど衰弱して弱り切っていたので、今はまず体を動かせるようになるのが先決だと判断された。

 まずは上半身を起こす事から始め、ゆっくりと体を動かしながらベッドから降りて立てるようになるのも時間がかかる。介助が出来る侍女に支えられながらどうにかベッドの上で座れるようになったセリーヌに、王太子は面会した。会いたくもないだろうが、それでも許されるのであれば話がしたいと望み、セリーヌは受け入れた。

 夫人は別室で控えていたが、室内の壁には侍女が複数名待機している。王太子の監視も彼女たちの役割であった。


「あの日、私は全く理解が出来ないまま囚われ、そして判決を下されました。あの方と話したことは無く、精々会釈をする程度でした。迫害したと言われ、証言者が現れ、罰が下されました。両親に会う事も出来ずに鞭打たれ、背中の傷もそのままに送られた辺境伯領でしたが、辺境伯様がいた時はまだ大丈夫でした」


 セリーヌは己の身に起きたことを振り返るようにゆっくりと語る。王太子は口を挟まずに静かに聞いていた。


「辺境伯様が配慮してくださり、執事が食事を用意してくださって、幽閉されているけれども不自由は有りませんでした。侍女も背中の手当てをしてくれました。入浴する程度ならば何とかなりますし、介助がいるので耐えられました。ですが、ある魔獣討伐戦で辺境伯様が生死を彷徨う傷を負い、治療の為に療養地に行きました。辺境伯様は治療魔術が効かない体ですが、自然からの力を取り込む事で活性化出来ると聞いておりましたので、より清浄な気があるその場所に行かれました。それからしばらくして、名目上の旦那様がお越しになりました。私は子を産まないように白い結婚だと聞いていたのですが、あの方は話を聞く余裕も無かったのでしょう。痛みと苦しみの日々でした。子が出来たと分かった時には動揺しましたが、それでもまだ母体なので世話をされ食事もありました」


 そっと窓の外を見たセリーヌは少しばかり言葉を止め。そして再び視線を戻すと言葉を続ける。


「助産師のお陰で何とか無事に子を産み落としました。しかし、子を抱く事は叶いませんでした。そしてそれから一週間もしたころ、執事の息子が私の元に来て、離れに行くように言い小屋に連れて行きました。それからの日々は思い出すのも難しいのです。ぼんやりとしていまして。ただ、水を飲もうにも分からず、世話をしてくれていた侍女がひっそりと手助けをしてどうにか生き延びていたのですが、その侍女が辞めることになりました。辛うじて水瓶に水があったのでそれを飲んで命を繋いでいたのですが、食べる物は無く、火をつける力もありませんでした。草を食み、見つけた果実でどうにか凌いだけれども、起き上がる事も出来なくなり、死を覚悟しました」


 セリーヌは己の手を見る。ずっと眠り続けていた間に荒れていた手は綺麗になった。髪も艶が出た。それでも彼女の心は傷付いて今も血が流れているのだろう。


「私は子を産みましたが、一度も抱く事が出来ず、せめて一緒であれば生き延びる為に頑張れたかもしれない。でも、何もかも失った私には生きる気力が無かったのです。侍女が支えてくれたから何とか堪えていましたが、その侍女がいなくなってしまえば死んでもいいとすら思っていました。両親に会う事も出来ないのであれば、死んで神の元に行く前に両親の元に少しだけ立ち寄りたいと願いました」


 あの日、王太子が踏み込まなければセリーヌはこの世にはいなかっただろう。本当に瀬戸際だった。治療魔導士が悲鳴を上げ、医者が覚悟していて欲しいという程、彼女はひどい状態だった。


「何故このような目に遭わなければならないのだろうと最初の頃はずっと思っていました」


 王太子がぴくりと反応する。これまでの話は調べればわかる事だ。しかしこれから彼女が語るのは、彼女しか分からない彼女だけの心。


「私は何もしていない。何故罰を与えられるのか。何故鞭打たれるのか。何故両親に会えないのか。私をこのような目に遭わせたあの方を恨みました。罰を定めた王家を恨みました。何よりも、あの方の隣で何も知らないのにありもしない証言を確かだと言い、私を憎しみを込めて睨みつけた王太子、貴方様を恨みました」


 王太子は心に刃物を突き立てられた気分だった。あの時の事を思い返しても、確かに王太子は自信をもって集めた証言を提出した。この国には法は有れども貴族院の中で選出された者が審判をする。そして最終的に決定した有罪・無罪を元に罰が定められる。王太子の証言と国王がその余裕がない事もあって、明確な証拠もないのに証言の数だけで押し切った。あの時の王太子はアンジェリーヌを守るという正義感だけで動いていた。疑いなど一つもしていなかった。


「辺境伯領に向かう馬車の中では振動で背中が傷み、途中の宿泊では馭者役の騎士は宿に泊まれど私は罪人なので鍵のかかった車の中で掛け布もない状態で眠りました。辺境伯領までは馬車で一週間。風呂に入る事は出来ず、辛うじて厠に行く時だけは許されましたが、扉の外、音が聞こえる場所で待機されるという屈辱を味わいました。せめて女性であれば。しかし騎士は男性です。私の尊厳は踏み躙られていたのに、まだそれ以上があるのかと思いました」


 罪人を送る為の馬車が快適に出来ているはずもない。逃げ出せないように外から厳重な鍵を掛ける。ただ出られるのは厠の時のみ。罪人とは言えど女性である以上配慮すべきことなのにそれもなく、むしろその恥辱すら罰であるとされていた。真実、罪人であれば許される対処も無実である女性に対しては決して許されてはいけない所業だ。


「辺境伯様は辛うじて私を人として扱ってくださいました。罪人とされても、それが王家との取り決めにしても、最低限の人として。侍女を付けて下さり、細やかに対応してくださいました。背中の傷が塞がりかさぶたになり、痛みは有れども眠れるようになった頃、少しずつ自分の置かれている状況を振り返りました。憎しみを続けるのは疲れるのです。恨み辛みは人によってはずっと続くのでしょう。ですが、私はそのような生き方をしたことがないので、疲れたのです。そして、環境に従おうと思いました。幽閉されているのであればそれでいい。静かに一人でいられる環境なのだから、いっそ罪人として鉱山に行かされるよりも良いのだと思うようになりました」


 平民や貴族でも男性であれば罪人は鉱山での労役が課せられる。しかし、貴族女性で鞭打ったセリーヌに対してはそれ以上の罰は与えられなかった。重大な生命を脅かすような行為が無かったのもある。今思えば、自分で自分を傷つけていたアンジェリーヌが命にかかわるような偽装が出来なかっただけの話だ。もしも顔に傷がつけば意味がないと思っていたのだろうか。刃物で傷つけられたとは言っても治療魔法で治せば傷は直ぐに消えた。セリーヌのように二度と消えないような傷は一つもなかった。


「ですが、あの方が私の部屋に押し入ってからは地獄でした。取り決めは何だったのか。何故女としての尊厳をこうして踏み躙られるのか。ただの暴力でしかない行為は痛みと苦しみだけでした。私の両親は私から見ても理想的な思い合う夫婦でした。それに憧れていた私は、痛みと傷とで寝込みました。それでもあの方は討伐に赴く度に気ままに私を抱きました。何時まで経っても慣れない私を罵倒し、時には頬を張る事もありました。心穏やかな生活は無くなり、何時になれば終わるのかという考えだけでした。しばらくして月の物が来ず、吐き気と眠気、微熱が続き侍女が気付きました。そして医者に見せた所、子が出来ている事が分かりました」


 望まぬ行為。それは暴力でしかない。女の体は脆い物で、時に貴族の知人が出産に伴い夫人を喪ったという話も聞いた。王太子にとっては想像も出来ない程の苦しみ。望まぬ行為の果てに出来た子を彼女はどう思ったのだろうか。


「子がいると言われ、拒絶しました。嫌だと、堕胎してくれと、薬をくれと懇願しました。しかし、あの方がやってきて必ず産めと命じられ、医者にも絶対に堕胎薬を渡すなと私の目の前で言いました。愛があるから産むのではないのです。ただ、あの方にとって辺境伯様から色々言われるのが煩わしいので子を産めと言う事でした。止まらない吐き気に苦しみ、満足に眠れない日々。しかし、子がいるお陰であの方が来ることは無くなりました。侍女に助けられながらなんとか乗り切って、少しずつお腹が大きくなる内に、恐ろしく怖くても我が子なのだと情が湧きました。早く生まれておいで。愛しい子と、何度も腹を撫でて無事に生まれることを願いました。時が来て、酷い痛みの中で子を産みました。我が子を抱きたいと思いましたが、助産師からは首を横に振られ、侍女からは申し訳なさそうに、子は既に乳母の手元に。あの方からは会わせないと言われた、と。喪失感で一杯でした。生きる気力に、縁に。恨み辛みも苦しみも、全て流して子を愛する事だけをしたいと願っていたのに」


 セリーヌの目から涙が零れる。拭う事もなく、そして王太子も涙をぬぐうためのハンカチを出せず、ただ彼女の思うがままにさせる。


「あのあばら家に移ってからは、何の為に生きているのだろうと思いました。王家との取り決めによって最低限の生活が保障されていたはずなのに、これが最低限なのか。そうは思えませんでした。けれども声を上げる気力は無かった。恨みも怒りも何もかも、全ては気力がなければ出来ません。次第に私は神に祈るだけの日々になりました。早く楽になりたい。神の御許に行きたい。侍女がいたから生きていると思えましたが、心は神の所に半ば向かっていたのでしょう。三年という月日で私は何もかも無くなり、空っぽになりました。目覚めて王太子殿下を見ても、何も思えないほどに。憎いと思っていた気持ちも何もかも流されて、ただ私にあったのは虚無でした」


 流れる涙を漸く手の甲で拭ったセリーヌは王太子をじっと見つめる。本来であれば王族とこのように真っ直ぐ視線を合わせるなど出来ない。身分というのは振舞いにも関わる。


「両親に再会出来て、最初に思ったのは私は死んだのか、という事でした。しかし私は生きていました。私が無実だったと仰られた時、何故それが三年前に判明しなかったのだろうと、そう思っただけでした。殿下、私は貴方様をもう憎いとは思っておりません。あの方が綺麗に隠されていた。そして貴方様は真っ直ぐな方だった。私は上手く立ち振る舞えなかった。それだけなのでしょう。誰に罪があるのかと言えば、間違いなくあの方です。アンジェリーヌ様が己の欲を優先しなければ、真っ当な手段で貴方様の婚約者を狙っていたならば誰も巻き込まれずに済んだのでしょう。王家だって冤罪を生み出さず、隷属の魔法で自死を選ぶ人や精神を病む人だって生まれなかった。私のような者も生まれなかった。そして我が子も産まれなかった」


 一人の女の自分勝手な振舞い。もしもセリーヌではなく別の令嬢が狙われたとしても同じような結末になったかもしれないし、セリーヌだから余計に悪化した可能性もある。セリーヌは心優しかった。アンジェリーヌが狙う理由に挙げたほど、彼女は多くの人に慕われていた。他の令嬢であれば、隷属魔法で偽証した後に精神を病んだり自死を選ぶほど悔いたものが現れただろうか。セリーヌだったからこそ被害が増えたかもしれない。

 辺境伯領のヴァレリーの事は王太子もそれなりに知っている。あの男は女に対してそこまで執着をしない。基本的に一夜限りの関係が多い。愛人としているのは戦闘で高魔力を使ったからこそ高ぶる体を鎮める為に行為を行うだけで、それが耐えられるような女性を選んでいた。

 セリーヌはどう見ても耐えられるような女性ではない。常であれば一夜で終わらせるはずなのに、子を孕むまで行為をするということ自体が信じられなかった。だが、子どもを産んでしまえば興味を失ったのはヴァレリーの人間性が最低である事の証左であろうが。


「セリーヌ嬢。貴方に対して王家としては出来る事ならば償いとしてするつもりだ。流石に命を、と言われてしまえば無理がある。しかし、出来る限りをさせていただきたい」

「……殿下。今の私には、何がしたい、何が出来るなどを考えることは難しいのです」

「そう、だな」

「今でも水辺は怖く、刃物は怖く、更に吹きすさぶ嵐もいつあばら家が崩壊するかわからず怖くなり、虫など知らない生活だったのに常に虫に悩まされて虫が怖くなり、自分でも何が怖くて耐えられないのか分からなくなっているのです」


 傷付いた心に更に傷をつけ、恐怖の対象がどんどん増えて。セリーヌの見た目は美しくなろうとも、見えない所の傷はどこまでも深く血を流し続け。歪に固まった傷痕は辛うじて心という形を取り繕っているだけだ。


「ただ……子供を手元にとは言いません。あの子は辺境伯の血の為に生まれた子です。あの子があの方のようにならないよう真っ直ぐに育って欲しいです」

「君の産んだ子は、今は辺境伯の元にいるよ。あの男は後継者の資格を剥奪され、最も苛烈な前線からの帰還を許されていない。辺境伯はセリーヌ嬢、君の許しを貰えたならばきちんと養育して次代の辺境伯にすると言っている」

「そうですか。私は、構いません。ですが、辺境伯様がお育てになった結果、あの方はあのようになったのでしょう?」

「いや、違う。あの男をあのように育てたのは彼を産んだ実母だ。乳母などに養育を任せず自らの手で思うがままに育ててしまった。辺境伯が長い戦闘で数年帰還できず、戻っても直ぐに引き返して戦い続けている間にあの男は歪んで育ってしまった。取り繕うのが上手い子供で、実母は亡くなってしまったが、最初の頃こそ気付かれなかったが、次第に露呈した。気付いた時には取り返しのつかないほどの歪んだ男になっていた」

「……辺境伯様なら、大丈夫でしょうか」

「ああ。そこは大丈夫だ」

「それでしたら、是非。私の手元では育てられませんから」


 困ったように笑うセリーヌに、何故、と問う。


「きっと私は子を見て愛しいと思うと同時に憎いと思うでしょう。愛の無い行為で生まれる子がいることは知っています。政略結婚での子供がそうでしょう。ですが、それでも双方の間で割り切っているはずです。ですが、一方的な暴力の果てに出来た子の場合、愛憎が入り混じるのです。子は愛しい。だけど、子が生まれたのは恐怖の果てだった、と。そんな親に育てられるよりも、きっと真っ当に後継者として育てられた方が良いはずです」


 背中に押し当てたクッションに背を委ねたセリーヌは、久々に沢山喋りました、と小さく笑う。翳りのある表情。隷属魔法を掛けられた人は揃ってセリーヌに詫びるように叫んだ。彼女に恋心を抱いていた者もいたはずだ。それだけの魅力がある人な上、彼女は総領娘。次男以下の男であれば婿に入りたいと思うような好条件の女性。魅力ばかりがあるセリーヌは、生きているようで今でもどこか違う世界を見ている時がある。


「カサドゥシュ家の領地は、どのようになっているでしょうか」

「罪もないのにカサドゥシュ伯爵領は苦境に立たされていた。伯爵の手腕のお陰で領民は辛うじて生活が成り立っていた。王家から既に賠償金を支払い、出来る限りの支援を行っている」

「ありがとうございます」

「礼を言わないで欲しい。王家の罪だ」


 王太子が情報を精査していれば、国王がきちんと調査を命じていれば、起きなかったはずの冤罪。セリーヌに罰が与えられたから、周囲はカサドゥシュ伯爵家との付き合いを断たざるを得なかった。水面下でささやかな支援を施すものもいたけれど、マリヴォー侯爵家がそれを察知すると直ぐに圧を掛けた結果、カサドゥシュ伯爵自らが不要だと断った。被害を広めてはならない為だ。


「もしも君の望みが決まったら教えて欲しい」

「……もしも、叶うなら」

「うん?」

「もしも叶うのならば、入学する前に戻りたい。領地で両親と共に幸せに暮らしていた、未来を夢見ていたあの日に。入学さえしなければ、あの方に会う事はなく、私が狙われることは無かったのに……と思ってしまいます。でもそんなのは無理ですし、私以外の方が標的にされるのも嫌ですね」


 言われた言葉に胸が詰まる。人が時間を遡る事は出来ない。神の御業でしか行えないとされている。それでも彼女はアンジェリーヌがいなければという言葉は言わない。彼女さえいなければ誰も不幸にならなかったのに。


「カサドゥシュ伯爵領の跡取りに私はなれません。冤罪だと証明してくださいましたが、それでも醜聞に塗れた女です。私の婿になりたいと望むものはいないでしょう。そもそも学園だって卒業していないどころか、入学していたという事実さえ撤回されていますよね。社交だって出来る自信はありません。人の目が恐ろしいのです。そんな女が当主になれるわけがないのです」


 生まれた時から定められていた未来を奪われ、あらゆるものを奪われたセリーヌの軋むような声が辛すぎた。仮令冤罪であったと王家が正式に知らせても、彼女の体に消えない傷があり、純潔でもなく、既に子を産んでいる彼女は傷物として扱われる。

 当主になる為に彼女は必死に勉強をして成績も上位に食い込んでいた。だが、彼女が罰を与えられた時に彼女の卒業資格は剥奪され、彼女の言うようにそもそも入学していないという事になっている。


「学園を卒業しなければ、貴族として認められず当主にもなれません。ふふ……後継者になる為に学園に入ったのに、その学園に通ったからこうなって、結局卒業どころか入学実績すら白紙になり……私は何のために学園に行ったのでしょうね」


 王家の罪は、セリーヌ=カサドゥシュという一人の女性の形をしていた。




 それから数か月後、セリーヌが漸く歩けるようになると彼女は領地に戻った。彼女の望みは「ただ、静かに暮らしたい」それだけだった。

 セリーヌに関してのあらゆる噂や悪意ある風評は王家が主導して潰した。

 王太子はアンジェリーヌという悪女との婚約を解消して後、新たな婚約者を探す必要があった。セリーヌとの関わりが終わるまでの間は避けていたのだが、セリーヌが領地に戻ってからは国王からも命じられたことがあって真剣に探した。

 国内の令嬢は無理だった。ほとんどの年が合う令嬢は婚約や婚姻をしている。不意に何故アンジェリーヌがセリーヌを選んだのか、隠されたもう一つの理由に思い至った。セリーヌはあまりにも王太子の婚約者に適している女性だった。才能も美貌も人脈もある。王家に嫁ぐともなれば総領娘であっても養子をとればいいだけの話。勿論爵位的には問題がある。しかしやりようは幾らでもある。だからこそ、侯爵家の娘であったアンジェリーヌは確実に潰したかったのかもしれない。王太子がセリーヌを絶対に選ばないように。

 確かにセリーヌは努力家で王家が望む条件を有していた。だからと言って王太子がセリーヌを選ぶことは無かっただろう。彼女はどこまでもカサドゥシュ伯爵家の次代という誇りを持っていたはずだから。


 積み上げられた近隣諸国の王女の姿絵を見る。そして考慮しようと分けていた姿絵を確認して、王太子は目元に手を当てて天井を見上げる。

 柔らかなミルキーブロンドの髪の毛。

 舐めたら甘そうなアンバーの瞳。

 そのどちらかを有している王女を選別している。

 あの短くも濃い時間。決して恋情ではないが、王太子の心に深く入り込んだのは間違いなかった。彼女と同じ色彩の女性を幸せにしたら少しだけ罪の意識が軽くなるとでも思ったというのだろうか。何という愚かな。己で己を許せそうになかった。

 王太子はその色を持つ王女の姿絵を排除し、残された姿絵を見る。セリーヌを感じさせるような要素は出来るだけ排除したかった。

 まだ無垢だったセリーヌは多くの人を魅了した。あの人格破綻者なヴァレリーだって間違いなく惹きつけられていた。しかし、王太子が出会ったのは、全てを奪われ失い傷付き、それでも生き長らえた、無垢な部分を残しながらも心から血を流していたただ一人の女性だった。

 可哀想だからではない。憐れみではない。しかし、それでもあの翳りの中に見えた僅かな彼女の無意識な憎悪が王太子の心を掴んで離さない。

 セリーヌは恨むのも何もかも気力が必要だから続かないと言った。しかし憎悪を失ったとは言っていないのだ。小さく小さく見えないほど小さくその憎悪は未だに燻ぶっている。記憶を完全に消去させる魔法がある。彼女には一度打診したことがある。しかし彼女は首を振った。辛くても、人生の一部だから、と。

 彼女は小さい憎悪を埋め込んだままだ。忘れられるはずはない。苦しくて辛くて尊厳を踏み躙られ、輝かしい未来を奪われ、幸福になるはずの道を断たれた。恨まないでいられるはずがない。ただ、生きる事の方が最優先で憎悪に回す余力がなかっただけだ。

 無意識に浮かべた目の中に灯した憎悪に気付いたのは王太子だけだ。あの仄かに薄暗い輝きに一瞬で心奪われた。それを望んではいけないと理解していてなお。


 カサドゥシュ伯爵家はセリーヌを後継者から外した。元々罰を下された時にセリーヌは辺境伯領から出ることは出来ないとされてしまったせいで念の為養子を迎えていた。セリーヌが戻ってきたならばその地位を返すと養子は言っていたが、学園の卒業実績がない事を理由にそのまま養子を育てていた。

 セリーヌもそれでいいとし、静かに隠居生活を送っていた。


 王太子は他国の王女と婚姻し、程なくして子が生まれた。王子と王女を産んだ妃だったが、病に倒れてしまった。治療魔術も医学も何も役に立たず、一年ほどの闘病の末、妃は逝去した。

 国王はまだ健在で、王子がある程度育ったところで譲位という話になっていたので未だに王太子の地位にいるが、今はそれで良かったと思っているほどだ。王族として生まれて育っているが、それでも幼い彼らは相当に活発である。

 子供がとても愛しい。そんな子供が冤罪で裁かれたら。果たして許せるだろうか。カサドゥシュ伯爵は国に忠誠を誓っているが王家に誓えてはいないだろう。無理もない。子供が生まれて改めてあまりにも残酷な所業だったことを突き付けられた。

 セリーヌが隠居生活を送る前、王家から改めて学園の卒業資格を送った。入学した事実の抹消をどうにか取り消し、記録を遡り、彼女の在学証明とテストの結果、それらを踏まえた上で卒業認定を出したのだ。セリーヌは「もう意味はないですけれども、貴族の証明は出来ますね」と苦笑しながら受けとったという。もっと早くに対処すべきであった。


 セリーヌ=カサドゥシュは王家の罪の形である。故に、二度と同じような形を生み出してはいけない。新たな人の形の罪を、王家は作り出してはいけないのだ。



■誤字脱字報告いつもありがとうございます。

■6/21の活動報告に裏話あります。

■補足(6/22)→活動報告に移動

■現在感想への返信を休止しております


■本作は創作です。

人間の価値観も何もかも「現代日本」とは異なります。

この作品のこの世界ではこういう事も起こりうる。

そう言う「創作世界」です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄くいいお話でした!! 現代と冤罪ものの物語共通ですが 『冤罪は業が深い』 『冤罪を受けたものには失われた時間は戻らない』 本当に罪深いと思います。 あと王家はクズ!!!
[一言] 王家という絶対権力がミスるとなる可能性の一つの悲劇ですねえ
[一言] 徹頭徹尾王子の偽善と自己満足の話だなと思いました。 責任者って何の為にいると思いますか?例え自分が手を下した訳では無くとも配下が罪を犯せばそれは責任者の罪でもあるのでは? まして王子はセレー…
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