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黄金の王とちいさな姫君  作者: 杏輔
9/21

9

抜けるような青い空の下で、盥のなかの洗濯物を洗う作業を黙々と続ける。


 とんとん、と肩をたたかれて振り返ると、申し訳なさそうな顔をした侍女がリリゼットを覗き込むように立っていた。




 ゆるく癖のある亜麻色の髪はひとつにまとめられて、垂れ目がちな瑞々しい若草色の瞳はやさしげだ。リリゼットよりふたつ年上の侍女は美しさよりも可憐さが勝っているけれど、身長はリリゼットよりも10センチ以上は高い―――これはリリゼットがちいさすぎるせいもある。




 この侍女は三年ほどまえに、王宮で姉姫たちにひどく折檻されているところを助けてからの付き合いだ。咄嗟にかばったリリゼットごとずいぶんいたぶられたけれど、侍女にほしいという意思を曲げなかったおかげでいまはリリゼットの元で働いてくれている。


 母の時分から仕えてくれていた侍女はまだ働けると言ってくれていたけれど、年齢もあり、娘からも一緒に暮らそうと誘われているのを断って側にいてくれたことを知っているので、これ以上て無理をさせたくはなかったリリゼットとしても、彼女の存在にはずいぶん助けられている。。


 彼女に渡せるものはなにもないのに、恩を感じているのか誠実に仕えてくれていることには感謝しか感じない。


 ぼろぼろの精神状態だったあの頃、たしかに彼女に支えられていたと思う。




「……エレノア。どうしたの」




 ゆっくりと立ち上がって振り返るとてのひらを差し出す。


 ほっそりとした指先が慣れた仕草でそこに文字を記す。声を出せない侍女とは出会ってからずっと、こうしてやりとりしてきた。




「……陛下が?」




 示された文字に、いぶかしく思う。


 父王からの呼び出しを知らされて、ここ数年動かなかった表情筋がほんのわずかに仕事をしたようで、侍女が恐縮したように肩をすくめているのを見てため息をひとつ吐く。彼女が悪いわけではない。




「いかないわけには、いかないでしょうね。すぐ向かえばいいのかしら」




 こくりと頷いた侍女に頷き返して、それから途中だった洗濯物をどうしようかしらと首を傾けると、こちらもリリゼットの無表情から意思をくみ取ることに慣れている侍女が胸に手を当てて頷く。やっておいてくれるらしい。




「エレノアも忙しいのにごめんなさい。すぐ戻るわ」




 彼女以外に頼める相手もいないので、こうして負担をかけてしまうことは申し訳ない。リリゼットも自分でできることはなんでもやるようにしているけれど、それでもエレノアの負担は軽くはないだろう。


 とっくに忘れられたものだと思っていたから、とまどいしか感じない呼び出しは正直億劫でしかないけれど、無視するわけにもいかない。どうせ碌な内容ではないだろうことだけはわかるから、凍ったような表情の下でため息を吐いて王宮へ向かうための準備をしようと部屋に足を向けた。








***








 謁見の間にはひとの気配はなかった。


 王座に座る、記憶にあるものよりすこし老いた王と、その傍らに立つすらりと背の高い青年のふたりだけ。紅茶色の髪と灰色の瞳の青年は、リリゼットを見て何やら青褪めたまま言葉を失っている王のかわりに、こちらも顔色を悪くしながら、それでもぎこちなく微笑みを作り口を開いた。




「……久しぶりだね、リリゼット。……ずいぶん痩せてしまったけれど、体調に変わりはないかい?」




「とくには」




「そう、か。それなら、いいのだけど」




 そのいいざまで、彼が一番上の王子―――兄である王太子であることに気が付いて、無表情のまま問われたことに答える。もともと少し痩せ気味であったかもしれないが、いやがらせで食料も手に入れ辛く、たまにエレノアが城下で買い出ししてくる始末だ。ここのところはなんだか食欲もなかったので、痩せたと言われれば、そうなのかもしれない。


 いたわるような言葉をかけてきた青年を改めて見ると、言われてみればこんなひとだった、とぼんやり思う。ほかのきょうだいたちには虐められた記憶しかないけれど、王太子であるこのひとから折檻されたことはない。積極的に助けられた覚えもないけれど、直接的に虐められている場面にでくわせば、いつも困ったような顔でやめなさい、と窘めてくれていたような気がする。とはいえそれで助けられたことは一度もないから、リリゼットのなかで微妙な立ち位置であるひとだ。




「ご用件は」




 無表情のまま一言呟く。


 不敬ともとれる態度にも、悲しげに眉を下げるだけの王太子は、俯いたままもはや顔を上げることもしなくなった父王に一瞬視線をやり、諦めたのかリリゼットに視線を合わせた。




「あ、ああ。その……きみももう十五歳だろう」


「ええ」


「それで……きみに婚姻の申し込みが来ていてね。もしよければ、会ってみるだけでも」


「婚姻」


「無理にとは言わないけれど、どうだろうか」




一般的に貴族の子女は十五歳ほどで結婚や婚約を済ませる。名ばかりとはいえリリゼットにそういう話がくるのもおかしなことではなかった。


 無理強いはしないという王太子の言葉を鵜呑みにするほど、もはや子供でもない。王族の婚姻はいろいろな政略が絡む重要なものであることは知っている。




(夢を、見たことも、あったけれど)




 胸をかきむしりたくなるほど、あまい夢だった。


 いまはもう、だいじに記憶の箱に閉じ込めて、心の奥に沈めてしまったもの。


 思い出して、泣くこともない、そんな夢だ。




「お受けします」


「え、あ、そう……そうか。それなら、よかった。相手の方だけどね、」


「興味はありません。どなたでも、ご命令であれば嫁ぎます」


「……リリゼット」




 呆然としたような王太子に、無表情のまま首を傾ける。


 王族としては満点の答えだろうに、そんな悲しそうにされるいわれはない。


 しばらく言葉を失っていた王太子が、震える唇を開いた。








「東の大国、アルガンドの王……カイゼル殿だよ、リリゼット。それでもきみは」








 一瞬だけ、すべての音が遠くなって、苦いものを飲んだような顔をしている王太子の姿も、その横で俯く王の姿もぼやけてしまったような錯覚。現実から、逃げようとしたのかもしれないけれど、ふと焦点が合って、言われた言葉も呑み込んで、また一度ゆっくりと頷く。








「ご命令であれば」








 とうとう王太子も俯いて、右手で目元を覆ってしまった。


 激情をこらえるように大きく一度ため息を吐いたあと、顔を上げた彼はまた穏やかな瞳をしていたけれど、その灰色の瞳はひどく傷ついたようないろをしていた。それでもなんとかほほ笑みながら、絞り出すような声音で王太子が言う。




「……きっと、きみを、幸せにしてくれるだろう」




 幸せ。


 幸せになんて、リリゼットがなれるわけがない。


 だってリリゼットの幸せは、とっくの昔に壊れてしまった。


 いま、手を差し伸べてこようとしているそのひとが、壊してしまった。




「そんなものを、求めるほどおろかなことはないでしょう」




 自分でも驚くほど冷えた声だった。


 鞭で打たれたように肩を震わせた王太子に、話はそれだけでしょうか、と告げる。力なく頷いたことを確認してくるりと背を向けた。




 これから忙しくなるだろうか。


 嫁ぐとしても、エレノアひとりいてくれればそれでいいけれど、彼女はついてきてくれるだろうか。


 面倒なことだわ、とため息を吐きながら足を速める。広間を出たところで、見慣れた姿に道を塞がれ身を強張らせる。




「よくもまあのこのこと現れたものだわ、下賤の分際で」


「……申し訳ありません、殿下。陛下からのお呼びがあったものですから」


「勘違いしないことね」




 忌々しそうに手にした扇をばちんと荒々しく閉じた姉が、澄んだ泉のような水色の瞳にそぐわぬ憎悪を燃え上がらせてリリゼットをにらみつける。白金のゆたかな巻き毛となめらかな白い肌、ウィルステアの宝石と呼ばれるうつくしい姫は、リリゼットの前でだけまるで悪鬼のような表情を見せる。




「カイゼル陛下はわたくしをとお望みだったの。正式に婚約さえ決まってなければ、わたくしが嫁ぐはずだった。おまえはわたくしの代わりなの。それを忘れないことね!」




 そういえば姉姫は、先日正式にアルガンドとは別の国の王子との婚約が決まっていたのだったな、とその言葉で思い出す。それからなるほど、と納得した。


 代わりならば、リリゼットであっても仕方がないと。




「重々承知しております、殿下」




 瞳を伏せてそう言ったリリゼットの頬を、憤懣やるかたないといったようすで扇で打ち据えた姉姫が踵を返し去っていく様子を、じんと痺れた頬に手の甲で触れながら見送る。こんな程度で済むだけ、今日は穏やかなものだ。






(早く戻って、エレノアの仕事を手伝わなくては)






 足早に離宮への道を戻る。


 そういえば、結局王の声は一度も聞かなかった、と今更のように思いながら。

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