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身代金目当ての悪賊に誘拐されたのは上の姫とリリゼットのふたりだけだったようで、別行動だった父王と王太子のふたりが無事であったことは、そのとき唯一の救いだったのかもしれない。
粗末な小屋に監禁されて、何日が経っただろうか。途中何度か気を失っていたので、正確な時間経過がよくわからない。ちいさな灯り取りの窓から、昼と夜を二度ずつ見たことだけは確かだ。さめざめと泣くばかりの姉姫を床に倒れ伏したままぼんやり見つめ、何かあればこの身を盾にしてでも彼女を守らねばならないのは自分であるのだろうと諦観を覚えていた。
実際すでに何度か泣いてばかりの彼女が不興を買い、それをかばって殴られてもいるし、腹立ちまぎれに蹴り上げられた脇腹の鈍い痛みは続いていて、こちらはもしかしたら肋骨にひびでも入っているのかもしれない。
彼女を生かして返すためには仕方のないことだとわかっていた。そしてそこにあるのは正義感ではなく、家族への愛などでももちろんない。
望まれぬ子として離宮の隅で息を殺すようにして生きている自分と、第一王女として皆に愛される存在と比較してみれば、どちらが生き残るべきなのかは明白だ。取捨選択すればそうなる。それだけの話だった。
せめて辱めを受けるようなことがなければいい、とそれだけを思う。できれば苦しまず死にたいとも思うけれど、犯人たちの容貌を見ればそれはどうにも高望みのような気はしていた。すでに死んだほうがましだと思うほど身体中が痛い。
浚われてからもうすでに何度目かもわからなくなってしまったため息をこぼした時、山小屋の外が急に騒がしくなった。
激しい剣戟の音、何かを叫ぶ声、状況がわからず凍り付いていると、怯えた姉姫が余計に泣き叫び始める。せめて静かにしていてほしいのに、と舌打ちをしたい気分でいると、木の扉に外から激しい音を立てて何かが打ち付けられる。何が入ってこようとしているのかはわからないけれど、やるべきことはやらなくてはならない。
あちこち殴られて痛む身体をようやく起こし、姉姫に部屋の隅に行くようにと短く促す。
泣きじゃくり隅にうずくまった彼女の前によろよろと立つ。
酷く蹴られた脇腹は叫びそうになるほど痛み、激痛のあまり無意識に涙も零れるけれど、悲鳴を押し殺して今にも壊されそうな扉を見つめた。
ひときわ激しい破裂音と共に、固く閉ざされていた扉がはじけるように開く。
明り取りの窓すら塞がれて薄暗かった室内に、急に光が差し込んだ。
咄嗟に両手を広げて姉姫を背にかばうけれど、やはり膝が震えてしまう。痛む身体に何度も倒れそうになりながら、それでもその震えを堪えるように歯を噛みしめて扉の外を睨み付ける。
扉を破壊したその人物はゆっくりと室内に足を踏み入れた。
剣を納めながら、深紅のマントを背に払うその仕草がやけに優雅でぼんやり見惚れていると、低く滑らかな声が、鼓膜を揺らした。
「ウィルステアの姫君か?」
ずいぶんと背が高く、体格の良い男だった。
リリゼットの身長ではきっと男の腰あたりまでしか頭が届かないだろうし、逞しい腕はリリゼットなど簡単に片手で持ち上げてしまいそうだ。
逆光にきらきらと煌めく朱金の髪はまるで煌めく炎のよう。意思の強さを現すような太い眉と高い鼻梁、切れ長のまなざしは蜜のようなとろりとした琥珀色で、それが男の凄みのある男性的な美貌にひとしずく色気を滲ませている。端正なつくりであるのに、あまさが少しもないせいで、どちらかといえば怖いと感じる、そういうたぐいの美貌だ。
見惚れていたせいで返事を忘れていたリリゼットに、男はもう一歩部屋に足を踏み入れ、再度同じ問いを投げかけた。咄嗟にうなずくと、ほっとしたように男がほほ笑む気配がした。
「私はアルガンド王国王太子、カイゼル。お二人を助けに参りました」
背後で泣いていた姉がそれを聞くと同時にリリゼットを突き飛ばしてまろびでた。咄嗟に両手はついたものの、あちこち殴られた身体は痛みでもう動くこともできない。とくにここに閉じ込められたばかりのころ蹴り飛ばされた脇腹の痛みはもう限界で、今まで気力だけとはいえ立ち上がっていたことが奇跡だったのだろう。無様な呻き声を喉の奥で殺すだけで精一杯だった。
縋りつく姉姫をさりげない動作で後から入ってきた騎士に渡した男―――カイゼルは、ゆっくりとリリゼットの前に膝をつき、先ほどほんの少し想像してしまったように、実に軽々とリリゼットのちいさな身体を掬い上げた。
逞しい腕のなかは驚くほど安心できて、暖かかった。けれど一の姫である姉を騎士に預け、王太子自らが膝をつき抱き上げたことで、視界の端で泣きはらした姉のまなじりがきりきりと吊り上がるのを見て身がすくむ。
「あの、わたし、へいきです……お姉さまを、どうか」
「姉上はきちんと我が国の騎士がしかるべき場所にお連れします。見たところ君が一番重傷だ」
痛みで荒い呼吸の中ようやく絞り出した訴えは、実にあっさりと払い落とされてしまった。
結局その腕の中で小さくなっていると、そのまま外に出たカイゼルの側に黒髪で黒衣の騎士が近づいてくる。
「カイゼル様。残党はすべて処理しました」
「ああ、ご苦労だったなレン。あとは任せて大丈夫か?」
「ええ、問題ありません……そちらは姫君ですか。お怪我を?」
ひょいと顔を覗き込まれて硬直する。驚くほど端正な顔立ちの騎士だった。
涼し気なアーモンド形の瞳は紫水晶を思わせる色合い。すっきりとした鼻梁、ともすれば威圧感さえ与えそうな美貌を、豊かな表情が和らげている。
光の加減で紫紺に見える艶やかな黒髪は、その神秘的な色彩とは裏腹に実に無造作に切りっぱなしで、毛先があちこち跳ねている。襟足が首筋にかかる程度の長さではあるけれど目元だけが少し長く、不揃いな前髪の向こうでおだやかな紫水晶の瞳が痛ましげに細められた。
「へいき、です」
「うそをつくんじゃない。痛くて立ち上がれないくせに」
窘める声に、思わず顔を上げると強い琥珀のまなざしとまともにぶつかる。
意外にはっきりものを言われてもごもごと口籠ると、レンと呼ばれた黒衣の騎士が苦笑した。
「そんな言い方したら怖がられますよ―――姫、まずは手当てをしましょう」
「でも、ほんとに、そんなたいしたことはないので、これ以上ご迷惑は」
おそらくこの黒衣の騎士もずいぶん地位のある騎士だろうとその身なりから推察されて、そんな彼らに正当な姫である姉を差し置いて、これ以上手厚く保護されるわけにはいかない。
そんなしどろもどろのリリゼットの言葉を、カイゼルはあっさり無視することに決めたようだった。
「レン、後は頼む。俺は城に戻って姫君の手当てを」
「あ、あの」
「そうですね、たぶん脇―――折れてそうな感じですし。後たぶん、あっちとは別室に分けたほうがいいと思います」
「その、わたし」
「ああ、わかってる。じゃあな」
かすかに身をかばう仕草だけで、レンと呼ばれた騎士はリリゼットの状態をおおよそ把握してしまったらしく、当事者であるリリゼットをほったらかしでいろいろ決めてしまったふたりに途方に暮れる。
軽く会釈した後足早に去っていったレンをぼんやり見送っていると、低く滑らかな声が、やさしい響きで頭上から降ってきた。
「我々も戻りましょう。馬車を使いますが……少し揺れるかもしれません」
「は、い……へいきです……」
「申し訳ない、しばらくの辛抱を」
こくりとうなずくと、蜜色の瞳が細まる。
厳しい印象の彼のその仕草は、ひどくやさしげで胸の奥が忙しなくなった。