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黄金の王とちいさな姫君  作者: 杏輔
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結局それから三日ほどリリゼットは寝込んだ。




 旅の疲労と、精神的な負荷と、理由はいろいろあったのかもしれないが、部屋にたどり着いて、エレノアとふたりきりになったとたんに、ばたんと倒れてしまったのだから、よほど限界だったのだと思う。




 高熱にうなされて見た夢は、なぜかひどくやさしかった。




 とっくに諦めたはずの、あの大きなてのひらが、いたわるようにリリゼットの熱い頬を撫で、額に触れる。懐かしくて苦しくて、失くしたはずの心が痛んだ。




(ゼルさま。……わたしは、どうしたら、よかったのですか)




 枯れたと思っていた涙は、夢の中ならいくらでも零れた。


 穏やかな琥珀の瞳が細められて、止まらない涙を温かい唇が受け止める。


 いとおしげな仕草に、胸がつぶれるかと思った。ひどい、となじる声に、すこしも力のないことは、自分がいちばんよく分かっている。




(お願いだから、思い出させないで)




 諦めたから、生きていられたの。


 あなたを愛していたことも、忘れたから、生きていられた。




 それなのに、泣きじゃくってそう訴えても、あの低くて甘い声は、すまないと詫びるだけで、リリゼットをあやす手は止まらない。すまない、それでも愛している、と囁く声の、罪深さ。なんて幸福で残酷な夢なのだろう。




 夢で触れた唇は、流すことを忘れてしまった、リリゼットの涙の味がした。








***








 ふっと唐突に深いところに落ちていた意識が浮上して、重たい瞼をようやくの思いで持ち上げる。見慣れない天蓋。視線を巡らせると、豪奢な部屋の意匠は見覚えがなくて、しばらくぼんやりとそれを眺めていると、視界の端で人影が動いた。


 しばらくして覗き込んできた人物に、リリゼットの強張った身体から力が抜ける。




「……エレノア……」




 掠れて耳障りな声を、ようやく絞り出す。


 ほっとしたような、それでも不安そうな表情で、エレノアが微笑んで唇を開く。ゆっくりとした唇の動きを、ぼんやりとした意識のままでも咄嗟に読む。おみずをのみますか。頷く代わりに瞬きをひとつ。




 怠い身体をエレノアが起こしてくれる。彼女は見かけによらず力が強い。


 ほのかに果実の香りがする冷たい水を飲んでようやく落ち着く。




「……わたし、どうしたのかしら」




 シーツに放り出されていたリリゼットの掌に、エレノアの指先が文字を綴る。


熱が出て、倒れました。到着してから三日経ちました、と記されて目を見開く。到着早々三日も寝込んでしまったというのか。ふがいない。


 ため息を吐いて両手で顔を覆う。弱みを見せたくなかったというのに、これでは台無しだ。もっとしっかりしなくては。気を取り直して顔を上げる。




「湯を使うことは、できる?」




 承知したようにエレノアが頷く。病み上がりではあるけれど、べたつく肌の不快感はどうしようもない。手早く用意され浴室に案内される。リリゼットに与えられた部屋には浴室は備えられていたようでよかった。ひととおりの説明をするとエレノアはすぐに浴室から出ていく。彼女がリリゼットの入浴を手伝うことはない。そういうふうに過ごしてきたからだ。




 王族にはあるまじき悪しき習慣ではあるのだろう。


 けれどそれを改めようという考えは今はない。―――これからどうなるのかはわからないが。




 手早く髪を洗う。教えられたようにとろりとした液体で洗うとすぐに豊かな泡が髪を包む。お湯で流したあとは、栄養不足でごわついていた髪の指通りがいくらかましになったようだった。同様にいい香りのする石鹸で身体も洗って、湯に浸かる。温かさで、病み上がりのふしぶしの痛みが少しましになったように思う。




「しっかり、しなくちゃ」




 自分はもっと強くあれると思っていた。


 声を聞くだけで揺らいでしまうほど、弱かったなんて。


 あんな夢を見てしまったのも、きっとそんな弱さのせい。




 何もかも諦めたあと、リリゼットは穏やかでいられた。


 だからもう、なにかを期待するようなことはしたくない。やさしさも、ましてや愛情も欲しくはない。ただひたすら、そっとしておいてほしいだけ。


 こんなに容易く気持ちを乱れさせてはいけない。しっかりしないと。もう一度心の中で繰り返して、ゆっくりと立ち上がった。








***








 結局その日一日も、動き回ることはエレノアに許してもらえなかった。


 身体を動かさないので食事もとる気が起きずに、口にしたのは夕食代わりの紅茶が一杯。エレノアは困ったような顔をしていたけれど、空腹でもないのでしかたがない。


 すっかり日が落ちて、そろそろ眠る時間ではあるものの、三日も寝ていたせいであまり眠気はない。ベッドの上で、どこからかエレノアが持ってきてくれた本を開いていると、かすかなノックのあと慌てたようにエレノアが入ってきた。




「どうしたの」




 ふしぎに思って彼女を見上げると、エレノアの唇がゆっくり動いた。


 陛下です。その言葉に目を見開く。なんの心の準備もできていないのに、唐突すぎる。どうしたら、と戸惑う間もなく寝室の扉はあっさりと開かれてしまった。




「……まだ、起きていたのか」




 鼓膜を撫でる低い声。かんたんにリリゼットをかき乱そうとするそれに抗うように、ぐっと奥歯を噛みしめる。


 おだやかだけれど反論を許さない視線で、彼はエレノアに退室を促した。一瞬躊躇うようにリリゼットを見た彼女に、しかたなく一度頷く。国王の命令に逆らうわけにはいかない。




「何か御用でしょうか、陛下」


「婚約者の顔を見に来てはいけないか」




 ひえびえとしたリリゼットの声に気付いているだろうに、カイゼルは至極おだやかにそう言った。再会した時の強張った表情が嘘のようだ。この三日間で、彼にもなにか、思うところがあったのだろうか。




「食事を摂っていないそうだな。少しずつでいいから、何か食べてほしい」


「食欲がありません」


「そうであってもだ。こんなに痩せて……」




 温かい大きな手が、シーツに投げ出されていたリリゼットの折れそうな手首をそっと包む。彼の手にはずいぶん余る細さに、男らしい眉が顰められた。


 強張るリリゼットの荒れた手の甲を、親指でゆっくりと摩る仕草。慈しまれているようで、居心地が悪い。そんな風に扱われる価値は、リリゼットにはないのに。




「痩せた女がお嫌なら、どうぞお好みの女性のところへ。国の取り決めで嫁ぐことは決まりましたが、所詮は姉の代わりです。文句など言いません」




 リリゼットの硬い声に、一瞬目を見開いたカイゼルが、困ったような顔でそれでも少しだけ目を細めた。覚えのある、微笑む仕草。相当に無礼な発言であったと自覚しているので、そんなやさしい反応に戸惑ってしまう。




「おまえの身体が心配なだけだ。明日の朝食は一緒に摂ろう。いいな?」




 尋ねているようで、それは決定事項なのだろう。朝から顔を合わせることは気が重い。どうやっても彼の言動はリリゼットの感情を揺さぶってしまうから。


 しかたなしに頷くと、大きな手が褒めるように一度頬を撫でて、少しばかり手触りのよくなった髪をするすると指先で梳きながら離れていった。




「もう眠りなさい。悪い夢はきっと見ない」




 いつかも聞いたことのある言葉。甘やかすようなその声のあと、こめかみに唇が押し当てられて、ぎょっとするのと同時に離れていった。抗議するべきなのに、言葉にならない。


 立ち上がって部屋を出ていくその人を、呆然と見送っていると、扉のまえで一度振り返ったカイゼルが、ひとつだけ、と呟いた。




「国の取り決めでおまえを娶ると決めたわけではないし、ましておまえを誰かの代わりに求めたことはない」




 まっすぐな、琥珀の瞳に射竦められて動けなくなる。




「……はじめから、おまえだけだ、リリゼット」




 言い聞かせるように繰り返されて青褪めたリリゼットの様子に、困ったような微笑みをかたちの良い唇の端に浮かべて、また明日な、と囁く声のあと扉の向こうに消えたひとの言葉を、どう受け止めたらいいのかわからずに途方に暮れる。




 甘い毒のような言葉を、信じてしまうにはリリゼットの五年間は易しくなかった。何も考えたくなくて、ぎゅっと目を閉じて丸くなる。


 せめてその言葉を、あの頃の、信じたがっていたリリゼットに与えてくれていたら。ひとことでいい、たった一枚の、一行の手紙でも、与えていてくれたなら。








 ―――きっとリリゼットは、何も迷うことなく、その手を取れたはずなのに。

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