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送り伏  作者: くわととろ
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一話

送り伏


 狗は独りだった。

 狗が己を狗だと自認した時からそれは変わらない。狗は今までの人生の全てをその山で過ごした。

 仲間や同類といった存在は一度たりとも経験したことがなく、孤独を孤独だと認識することもままならなかった。

 だが、狗は一人で生きることになんらかの悪感情を抱くことはなかった。幸いなことに狗は餌を獲るための能力に長けていた。だから一人で生きていくことはなんでもなかった。


 ある日、狗がいつもの通り山で散策をしていた時、一人の人間が荒い山道を歩いているのを見つけた。人間を見るのは初めてではない。むしろ直接対面したこともあった。狗は狗にしては中々の巨体を有していたので、狗を目にした人間は総じて腰を抜かし逃げていくのである。

 それは若い娘であることが狗にはわかった。そもそも人間自体が肉付きがそこまで良いわけではない上に、その女となると殆ど食う場所など存在しない。

 だから、狗はそれを無視して、もっと良い餌を見つけようと思い、その場を離れようとした。

 刹那、狗の耳に劈くような悲鳴が刺さった。

 

 それは先程の娘が発したものである。狗は娘の方に視線を戻すと、先程の娘の前に大きな猪が佇んでいる。その猪はここらを支配しているヌシの子分であることを狗は知っていた。

 どうやら娘は運の悪いことにその猪に惚れられたようで、猪の口からは夥しい量の涎が垂れている。

 娘は恐怖から腰を砕いたようで、土に坐したまま、動くことが出来ないようだ。


 狗は薮に隠れてその経緯をじっと眺めていた。猪はじわじわと娘に近づいていく。娘は震えるばかりで抵抗すら出来ない。

 別に珍しい光景でもない。これが自然の摂理、これが弱肉強食。そもそも、か弱い娘が一人で山に入ったこと自体が無謀だったのだ。

 見るのをやめてさっさとここからおサラバしよう。狗はそう思ったが、なぜだか娘と猪から視線を離すことが出来ずにいた。


 そしてとうとう猪が、娘に飛びかかった。娘は短い悲鳴を挙げ、目を瞑る。

 娘は来たる激痛と死を覚悟した、が一向にそれらが娘に到達することはなかった。

 娘は不思議に思い、目を開けると先程まで健在だった猪が無様に横たわっていた。

 そして、その喉元に食らいつく巨大な山狗。


 狗は猪から口を離し、怯える娘を見据える。娘は目に涙を浮かべながら口を絶えず開け閉めさせている。

 仕留めた猪は呻き声をあげながらしばらく痙攣していたが、それも猪が息絶えたことにより直ぐに止んでしまった。静寂が狗と娘の間を支配する。


 やがて、狗は娘に興味を失いその場を立ち去った。娘は暫く動けずにいたが、どうにか立ち上がり山からすぐに降りていった。


 それからは狗とってのいつもの日常が続いた。一人で殺し、一人で食う。

 同じことの繰り返しであったが、狗は特に変化を求めることはなかった。

 ある日、またいつものように山を渡り歩いていた。すると、また件の娘がおっかなびっくりに山道を歩いているのが見えた。


──懲りないものじゃ。


 狗はそう思った。

 娘はどこか思い詰めた表情をしていた。なんとなく、狗は戯れに脅かしてやろうと思い、山道に飛び出た。

 娘は狗を見るなり、悲鳴をあげた、がそこから逃げ出すような真似はしなかった。

 寧ろ娘は逃げ出すどころかそこに跪いてしまったのだ。

 娘は震えながらたどたどしく言う。


「どうか私を腹に収め、気をお鎮めください。 どうか村の他の者たちだけはご勘弁を」


 狗は困惑した。

 まさかこんなことになるとは思いもしていなかった。だが、狗の戸惑いを他所に娘は先述の言葉を何度も何度も、まるで経の如く繰り返している。

 狗はどうすればいいかわからなかった。

 そもそも近辺に村があることすら知らなかった狗にとって、娘の言っていることは的外れもいいところであった。


──面倒な、喰ろうてしまおうか


 そんな考えが狗の頭に浮かぶ。

 だが、生憎狗の腹は丁度膨れており、目の前のやせ細った娘を食べる気にはとてもなれそうになかった。

 暫く、思案してみたが、やはりどうすればいいかわからない。


 もう帰ってもらおう。

 狗はそう思い、娘の着物の裾を引っ張った。娘はやはり怯えた目で狗を見つめている。


「あ、あぁ……どうか……」


 狗は懇願する娘を無視し、娘がやってきた道を歩いていく。娘は怯えながらも狗の後をついて行く。

 どうやら狗の住処にでも連れていかれると勘違いしているようで、その面持ちはある種の覚悟が刻まれていた。

 狗はたまに振り向き娘の様子を確認しながら、娘の足跡を辿っていく。

 そして、山の出口までやって来た。それは狗にとって生まれて初めての外の世界との対面であった。


 本来の予定ならばここで娘を放して、自分はさっさと帰るつもりであった。だが、ふとある好奇心が湧いた、湧いてしまった。


──山の外はどうなっているのだろう。


 狗はそう思ってしまったのだ。ふと後ろの娘を見据える。娘は状況を飲み込めずに戸惑ったような顔をしている。

 道を見るとやはり娘の足跡が続いている。つまりこれを辿りさえすれば娘の言う『村』に行ける。

 狗はやはり何も言わずにそれを辿る。娘の顔は段々と青ざめていった。

 狗が村の人間を食ってしまう気だと勘違いしたのだ。


「どうか、どうかっ、私だけでご勘弁を!お願いします!お願いします!」

 

 娘は泣き叫んだ。だが狗の好奇心の前ではとってそんなことは些末なことに過ぎない。

 狗は特に気にせず、村へと着々と足を進めた。そして、狗の目に沢山の建築物が飛び込む。家々を囲む田圃では様々な人間たちが仕事をしていた。

 初めて見るそれらの光景は狗の目に酷く新鮮に映った。小童らがなにやら楽しげに走っている。壮年の男がつまらなそうに牛の手網を引いている。

 

──なんじゃこれは。


 自然と息が荒くなる。まるで雷に心臓を貫かれたかのような衝撃に震えが止まらない。 

 絶えず目に飛び込んでくる、様々な営み。なんと騒がしいことか。なんと忙しないことか。なんと羨ましいことか。


 狗はそこで初めて喧騒というものを知った。初めて群れというものを知った。初めて食う食われる以外の関係を知った。


 初めて孤独という状況を、それに伴う淋しさという感情を知った。知ってしまった。


 暫くそこで呆然としていると、一人の若者が狗と娘を見つけてしまう。

 若者はすぐに叫びを上げると、他の村人たちも狗を見て声を上げる。

 皆一様に怯えの色を浮かべる。


 狗はそれによってようやく我に返った。娘を見るとやはり狗に許しを乞うていた。村の若い衆は鎌や鍬を持ち出し狗から村を守るように立ち塞がった。

 狗はすぐさま後ろに飛び下がり、村人達と娘を一瞥すると山に帰っていった。


 それからというものの、狗の日常は変貌してしまった。なんてことのなかった孤独は地獄の業火のように狗の心を焦がした。

 自分もあのように生きたい。叶わぬ望みと無意識に悟っていながらも、そう願わずには居られなかった。

 獲物を狩りながらも、頭に浮かぶは楽しそうに駆ける子供たちの顔。

 肉を屠りながらも、口が欲するは食ったことも無い稲の味。


 憧れに身を焦がしながら狗は生きた。なんど村に降りてしまおうかと思ったことか。獣としての本能と、ケダモノとしては類稀な理性によってそれらを自制はしていたが、それも時間の問題であった。

 

 そんなある日、狗の身に大きな変化が訪れた。朝起きると、猩々さえ真っ二つにする鋭い爪が無くなっていた。猪の牙さえ噛み砕ける牙が無くなっていた。遥か彼方の物音さえ聞き分けることのできる耳が無くなっていた。全身の毛が無くなっていた。


 狗はすぐさま、水場に走った。狗は未だ気がついていなかった。己が二足で立っていることに。手を使わずに走っていることに。


 水面に浮かぶ見慣れない己の顔を見た時、全てを悟った。


──人間になれたのだ!


 狗は溢れ出る歓喜に身が張り裂けそうになる。なんという僥倖か。狗はすぐさま山を駆け下りた。

 顔はこれまでにない程に悦びに歪んでいる。


 忘れたくとも忘れられなかった村までの道筋を風のように走り抜ける。

 ようやくこの苦しみから抜け出させる。そう思うと、際限なく走る速度が上がっていく。


 気がつけば、そこは以前やって来た村の前だった。狗の口から初めて発する類の声が漏れる。それが笑みであることを狗はまだ知らなかった。

 一人の男が狗に気がつく。男は狗を見るなり驚愕し、近づいてきた。


「だれだてめぇ。娘が裸でらそれも山の方から」


 男は訝しげに狗を見つめる。だが、その目には警戒の色以上に劣情から生まれたものが含まれていることに狗は気づくことが出来ない。


「儂は人じゃ。 村に入れさせてくれ」


 狗は人間の言葉を使いそういった。嬉しさに溢れたその綺麗な声色と、なにより狗のあまりにも端正な容貌を前に、男は思わず息を飲む。


「ど、どこの村から来た」


「山から来た。 あそこの暮らしは飽きたんでな。 どうかこの村で暮らさせて欲しいじゃ」


「あの山に人が住んでいるなど聞いたことも無い。 本当はどこから来た? 」


「山じゃ」


 ただならぬ様子に男はどうすべきか迷った。まだ明け方早く、自分以外に外に出ている人間はいなかった。

 目の前の女は明らかに只人ではない。だが、それ以上に女の並外れた美しさが男の正気を惑わせたのだ。


「とりあえず、俺の家へと来い。 若娘が真っ裸で、みっともない。 俺の家に妹がいるから着物を貸してやろう」


 男は顔を紅潮させながらそういった。狗は男の言葉に大きく頷いた。自分が村に受け入れられたと思ったからだ。


 男の家はかなりのボロ屋だった。男の名を儀兵衛と言った。儀兵衛は幼い頃に飢饉で両親を亡くしており、以降は妹のきよとともに二人で力を合わせで生きてきた。


「少し待て、着物を持ってきてやる。 それと妹も連れてくる」


 儀兵衛は狗を居間に置くと、そのまま奥の部屋へと行ってしまった。狗はそわそわと辺りを見渡す。土以外で構成された地面の上で坐すのは初めての経験だった。

 目の前では竈がぱちぱちと音をたてて燃えており、それもまた面白かった。


「待たせたな」


 狗が火をじっと見つめてにこにこしていると儀兵衛が着物を携えて戻ってきた。


「変なやつだな。そんなに竈が物珍しいか」


 儀兵衛が可笑しそうに笑いながら着物を渡してきたので、狗はよくわからぬまま着物を受け取った。暫く、狗は受け取った着物を不思議そうに色々な角度から観察する。


「おいおい、遊んでないで早く着ろよ」


「男、これはなんじゃ?」


「はぁ?」


「兄さん、お客さんに着物は合いそう?」


 儀兵衛が顔を顰めると、今度は奥の部屋から娘が出てきた。

 驚くことに狗にとってその娘は初対面ではなかった。件の変な娘だ。


「えっ!?本当に真っ裸じゃない!! それにとても別嬪さんね!」


「言っただろう? それにしてもこいつ変なんだよ、きよ」


 戸惑う狗を余所に二人はやんややんやと騒いでいる。


「娘、これはなんじゃ?」


「えっ? なにって、着物よ」


「きもの? もしや、お主らが見に纏っとる、変な毛のことか?」


 きよと儀兵衛は一瞬、顔を見合わせた後、大笑いをはじめた。狗は益々不思議そうに首を傾げる。


「なんじゃ?」


「あんた、本当に変なんだねぇ。 どうやって着るか教えてあげるからこっちに来て」


「教えてやれ教えてやれ」


 狗はきよにされるがまま、着物を見に纏わされた。着物は上等なものとはとても言えない古く、汚れたものではあったが、狗の美しさによりボロ衣がまるで十二単かのように錯覚させられた。


「ほぉ…」


「はぁあ…」


 二人は思わず息を呑む。狗は着物による不自由さを不快に思いながらも、目の前の二人と同じような装いになれたことに嬉しさを感じてやはり笑っていた。

 

「これで貴様らの仲間か、仲間かっ?」


「あぁ? いや違うが」


「なんじゃと? じゃあどうやったら仲間になれる」


「そもそも私たち、貴方の名前も知らないわ。 とりあえずお互い自己紹介しましょうよ」


 狗はまた首を傾げたが、二人はそれを気にせずに自分たちの名前を狗に告げる。


「俺は儀兵衛。 こいつはきよ。 二人で細々と暮らしてる」


「よろくしくね。 それで貴方の名前は?」


「名などもっておらぬ」


 狗はきっぱりと告げた。二人は間の抜けた表情を浮かべる。


「はぁ? 本当に変なやつだなお前」


「名前ないの? 」


「うむ」


 二人は訝しげに狗を見据えた。ここにきて狗の怪しさへの警戒がまた強まってきたのだろう。


「ようわからんが、名というのはどうすれば手に入る? それがあればお主らの仲間に入れるのじゃろ?」


 だが、狗のそんな無垢な様子に警戒もすぐに絆されてしまった。二人はすぐに微笑むと、優しく狗に告げる。


「名が無いというのなら、俺たちがお前の名前を決めてもいいか?」


「ほう、お主らが名をくれるのか」


「えぇ、貴方が良いというのなら是非、名付けさせて?」

 

 狗が大きく何度も頷くと、兄妹はこしょこしょと小さな声で話し合い始めた。

 そわそわと狗は二人から名付けられるのを待つ。もし、無くなってしまったはずの尻尾が健在であるのならば、さぞ大仰に振られていたことであろう。


「あの子、物凄く犬ぽいわよね」


「確かに、仔犬みたいな表情してるしな」


「じゃあこんなのはどお?……」


「おぉ、そりゃいい。 俺もあれ好きだしな…よしっ」


 儀兵衛が己の膝を叩いたの合図に、二人は狗の前で居直った。


「なんじゃなんじゃ、もう決まったのか?」


 狗は笑みを浮かべながら、いまかいまかと物欲しそうに二人を見つめる。


「おう、決まったぞ!」


「貴方は今日から」


───伏姫。


 狗はその日から、人間になった。


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