死んだはずの彼女に、お盆にだけ会える話。
生暖かい夏の夕暮れ。
迎え火のために、玄関先で新聞紙にマッチで火をつける。
藪蚊の羽音と、ひぐらしの声がうるさい。
のろのろと、白く細い煙がのぼっていく。
これで、また、君に会える。
「……やっほ」
煙の先には、照れくさそうに笑う、夏服姿の女子学生。
まっすぐの黒髪と、少し日に焼けた肌。
待ち焦がれた、君がいた。
「…やっほってなんだよ」
一年ぶりに見るその姿に、俺は目頭が熱くなるのを無視して笑った。
「第一声って、いつもなに言おうか迷う」
浜辺の防波堤の上を、少女とスーツ姿の男が歩いている。
「別に普通でいいだろ、なに気合い入れてんだよ」
「だって一年ぶりなんだよ?ちょっと気恥ずかしいじゃん」
女心がわかってないね、と少女は頰を膨らませた。
「なんだよそれ。柚月は相変わらず変なとこ気にするよな」
少女の名前は柚月という。
「そういえばなんでスーツなの?」
「…今ちょうど就活中でさ。午前中面接行ってきた」
「…そっか。浩大ももうすぐ社会人なんだね」
浩大とは俺のことで、今は大学三年生。絶賛就職活動中だった。
「早いなぁ…」
柚月は笑っているが、声には寂しさが混じっていた。
彼女と俺は同い年だった。
海が近くの小さな街で、共に育った。幼馴染と呼べる関係だったと思う。
俺は、明るくて、いつも一生懸命で、変なところで真面目な、この幼馴染のことがずっと好きだった。
高校二年目の夏。
野球部に所属していた俺は、初めてスタメンに選ばれた大会で、どうしても柚月に応援にきてほしくて、その前夜にぽろっと思いを伝えてしまったのだ。
火が出るかもしれないぐらい顔が熱くなったのを今でも覚えている。
同じくらい紅く染まった柚月の顔も、鮮明に覚えている。
俺たちは両想いというやつだったのだ。
柚月は笑って絶対行くと約束してくれた。ものすごい大声を出すからって意気込んでいた。
柚月が応援してくれるなら、明日の試合に俄然勝てるような気がしてきていた。
翌日、柚月は来なかった。
試合には負けた。
敗北と、約束を破られたことに悔しさと悲しみがないまぜになった。会場からの帰り道、なぜ来てくれなかったんだ、そのせいで負けたのだとさえ思い、心の中で理不尽に柚月へ怒りをぶつけていた。
俺は大バカ野郎だった。
柚月は試合会場に来る途中、事故に遭い即死していた。
呆然としたまま一年が過ぎて、また夏がやってきた。柚月の初盆のとき、俺は祖母に教えてもらって迎え火をした。
霊は自分が暮らしていた家に行くから、俺の家でやっても意味はないかもしれない。
気休めでいいから、彼女に会えるための何かがしたかった。
でも白く揺らぐ煙の中から、君は現れた。
あの日となにも変わらない姿で。
「神さまがさすがに可哀想に思ってくれたのかも」
そのとき柚月は言った。
「そうだな…」
俺は自分のことを指してると思っていた。バカな約束のせいで、もっとも大切にしたかった人を失った俺を哀れんでだと。
「あたし、どうしても浩大に会いたかったから」
頬を染めて照れる君を見て、本当に俺を好きでいてくれたんだと、胸の中に鉄が溶けていくような熱さが広がっていった。
それから毎年、夏が来ると柚月に会えるようになった。
迎え火から送り火までのたった4日間だけ。
それも、夕暮れから夜にかけて。
だが俺にとってはなによりもかけがえのない時間だった。
「それで、浩大はどんな会社を受けてるの?」
俺たちは二人で砂浜に腰を下ろした。
さざ波が耳に心地よく響いている。空は紅からだんだんと紫色に変わっていき、星たちが存在を示し始めた。
「地元の企業。金融とかかな」
その言葉に、柚月はあからさまに眉をひそめた。
「…なんで地元なの?浩大、野球雑誌の仕事に就きたいって言ってたじゃん」
「それは高校のときだろ。色々現実見たら手堅い方がいいかなって。親も安心だし」
一番の理由は言わないでおいた。
「……嘘。あたしのせいでしょ?」
図星だった。
一番の理由は柚月に会いにくくなるのが嫌だったからだ。野球雑誌の会社に就職となれば東京に出て行かなくていけない。
甲子園シーズンにお盆休みがあるとは到底考えられない。そうしたら彼女に会える貴重な時間が削られてしまうかもしれないのだから。
「嘘じゃねぇよ。だいたい狭き門だし。俺一人っ子だしさ」
先程あげた理由も決して嘘ではない。そもそも野球だってとっくにやめている。
「それより佐々木のやつがさ〜」
俺は無理やり話題を変えようとかつてのクラスメイトの名前を出した。
柚月はまだ納得していないようだったが、それ以上言及することはなかった。
一日一日を、宝物のように大切に過ごす。
後で取り出して、何度でも眺められるように。
それでも、どんなにこの手の中に抱えようとしても、時は瞬く間に過ぎていく。
柚月に会えるのも残り1日となっていた。
黄昏時の波打ち際を歩く。
「浩大」
君は俺の名を呼ぶ。
改まった態度に、嫌な予感がした。
「今年で最後にする」
それは、この3年間ずっと恐れてきた言葉。
「………は?」
「浩大に会いにくるの、これで最後にする」
「……なんでだよ」
俺は爆発しそうになる感情を必死に抑えながら問いかける。
「あたしの存在が浩大を縛るの嫌だから」
「そんなことない」
「あるよ。野球の話もしなくなったし、あたしのせいで夢を諦めようとしてる。あんなに好きだったくせに」
「ちげーよ!野球には興味がなくなっただけ。夢見てる年でもねーし。おれも少しは大人になっ…」
ハッと気づくと、目の前の少女の目に涙が溜まっていた。
時が止まってしまった柚月の前で、俺はなんてことを言ってしまったんだろう。
「そうだよ。浩大はどんどん大人になる。あたしは変わらない。あたしのことなんて早く忘れた方がいい」
ひどく傷つけてしまったことに、後悔してももう遅い。何か言わなければと思うのに、喉からうまく声が出せない。
「……1年に4日しか会えないんだよ?」
溜まっていた涙は飽和量を超えて、溢れ始める。
「織姫と彦星より会えてるだろ」
しぼりだした言葉に柚月は少しだけ笑ってくれた。
「そうだね。そうだけど、ずっとそばにいれない」
「会えるだけでもいい」
「触れ合うこともできない!」
悲痛な叫びに、思わず息を飲んだ。
柚月と再会してから、もし触れることができなかったらと思うと、怖くて手を繋ぐことすらできなかった。
大粒の雫が何度も頰を伝った後、ついに彼女はしゃがみこんでしまった。
今すぐ震えるその肩を抱きしめたいのに、やはり俺にはできないでいる。
あたりはすっかりと暗くなり、夏の闇に包まれていた。
「好きだ」
気づくと口からこぼれていた。
「好きなんだよ。ずっと。頼むから最後なんて言わないでくれ」
一語ずつ、祈るように言葉にする。
「あの日、応援に来てくれなんて言うんじゃなかったって、死ぬほど後悔した。俺も死のうと思った。でも柚月は会いに来てくれた。お前と会えるだけで俺は…っ」
俺の目からも熱い雫が流れ落ちてきた。
「また会えなくなるなんて…二度とそんな想いしたくない…!そばにいてくれなくてもいい。ずっと変わらなくていい。俺のエゴだ!頼むから…」
バカみたい涙が止まらなくて、男のくせになんて情けないんだろう。
柚月は立ち上がって、困った顔を浮かべて俺を見つめている。
「ごめんね、浩大。あたし死んじゃってごめんね」
その言葉に俺は首を振りながら嗚咽した。柚月もまた涙した。お互いの言葉にならない声だけが、夜の海へと飲み込まれていく。
最後の日だ。
俺と柚月は、いつもの海にいた。
昨日した会話にはお互い触れられずに、ただぼんやりと寄せては返す波を見つめていた。
だが日は少しずつ沈んでいき、別れの時間は刻々と迫っている。
「……帰りたくないな」
ポツンと君は呟いた。
毎年、別れ際にする会話だった。これに俺が「じゃあ帰るなよ」と返して、苦笑いする柚月が「また来年だね」と続けるのだ。
だけど今年は違う返答をした。
「連れてってくれ」
君は目を見開いてこちらを振り返る。
「残れないなら、俺をつれてってくれ」
昨日から、ずっと考えていた俺の答えだった。
まっすぐに君の瞳を見つめる。
「ダメ」
舌をペロッと出してふざけて君は笑った。
「本当はね。初盆のときだけ会うつもりだったの。突然で浩大も悲しんでると思ったし、ちゃんとお別れを言えたら良いって。でも会ったら名残惜しくなって毎年会いにきちゃった」
だから、あたしのエゴなんだよ、と言う。
「あの日、あたし浩大の応援がしたかった。毎日家でも素振りしてたの知ってたし。浩大の頑張ってるとこ見たかったの。だからね」
君は、俺の大好きな、ひだまりのような笑顔を浮かべた。
「今度は浩大の人生を応援したい。空から応援してるから。だから頑張って」
それは覚悟の表情だった。
「……本当に最後になるんだな」
俺の声は震えていた。本当は今すぐ叫び出したいほどの衝動を抑え込んでいた。
「……うん」
頷きの後、二人に静寂が訪れた。
波の音がいやに大きく聞こえた。いつもは心地よいはずなのに荒々しく、恐怖を覚える音だった。
俺は迎え火のときと同じように、鞄から新聞紙を取り出し、浜辺に置く。
ポケットからマッチの箱を取り出した。
指まで震えている。
マッチを一本取り出したが、なかなか次の動作に移れない。
「実はさ!最後だからって神さまにお願いしてきたことがあるの」
柚月はわざと明るい声を出して言った。
新聞紙を前にしゃがみ、まごついていた俺は彼女の方を向くため顔を上げる。
「お願いってなん……」
目の前に目を閉じた柚月の顔があって、唇が触れていた。
柔らかく、でも冷たいその感触。
俺たちの初めてのキスだった。
数秒して離れた後、
「へへっ。やっとキスできたね」
照れて笑ってた。
俺は彼女の腕を強く引いて、もう一度キスをした。
柚月の頰から水が垂れてきて、それが涙だと知った。
太陽は地平線の限界へと来ていた。
送り火を燃やさなければ、彼女はあちらへは戻れない。
決死の想いで、マッチを擦り上げる。
新聞紙に着いた火は少しずつ、燃え広がる。
小さく煙が上がり始める。
「柚月、俺頑張るよ」
無理やりに口角をあげて、笑顔を作った。
そんな無難なことしか言えない。それでも少しでも良い印象を残したくて。
「うん!…あとあたしの家に明日行ってみて。渡したかったものがあるから」
柚月もまた笑みを浮かべている。
煙が増えるにつれて、柚月の体が薄くなっていく。
それが我慢ならなくて、もう一度彼女の体を引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
「好きだ。ずっと」
夏の夕闇。
永訣の時。
この一瞬が、どうか永遠でありますように。
「あたしも、好きだよ」
柚月の声が耳にふわりと聞こえた後、強い力で抱いていたはずなのに、腕の中の君はもう消えていた。
翌日。
夜通し散々泣きはらした目を見て、親は驚いていたが何も言われなかった。
保冷剤で気休め程度に冷やした後、スーツへと着替えて柚月の家へと向かった。
幼い頃はよく遊びに行っていたが、お葬式以降は足を運ぶことはなかった。
突然に愛娘を亡くし、柚月の両親は深い悲しみの淵にいた。俺は自分の約束のせいである負い目や自分だけ柚月に会える申し訳なさから、彼女の家族から遠のいていった。
アポなしの訪問にも、彼女の母は快く受け入れてくれた。
家へと上がらせてもらい、まずは仏壇へと挨拶にいく。飾られた柚月の写真は、昨夜見た姿と変わらず、まぶしい笑顔を浮かべていた。
手を合わせ、お線香をあげさせてもらった後、リビングのソファへと案内された。
「久しぶりね。すっかり髪も伸びて」
高校球児だった俺は丸坊主だったので、柚月のお母さんもそのイメージが強いだろう。
「ご無沙汰してしまってすみません」
「いいのよ。お互い大変だったもの」
俺は何も言えず、出してもらった麦茶に手を伸ばした。暑さで汗をかいたコップの水滴で、指が濡れる。
「あなたに渡したいものがあるのよ」
俺がお参りしている間に、お母さんはなにかを取りに行っていたみたいだ。
ハンカチで包まれた小さなものを手渡される。
開いていくとそこに現れたのは、
「必勝祈願」
小さなお守りだった。
オレンジ色のそれには、よく見ると赤色が混ざっている。
きっと柚月の血だ。
「あなたに試合前に、渡そうと思っていたのね。本当はもっと早くあげたかったんだけど、これを見ると辛くて……遅くなってごめんなさいね」
『今度は浩大の人生を応援したい。空から応援してるから。だから頑張って』
君の声が頭の中に響いた。
昨日涙が枯れるほど泣いたのに、目からまた雫が溢れてきて、スラックスにシミを作っていく。
ついにみっともなくその場にうなだれて号泣していた。
柚月のお母さんは、そっと隣にきて俺の肩を静かにさすってくれた。
夏の終わりがやってくる。
君に会えた最後の夏。
きっと、来年のお盆に君はもう会いにきてくれないだろう。そのかわり空から俺を見守っている。
白い夏服が、小麦の肌によく映える。
向日葵のような温かな笑顔。
君は夏の空が誰よりも似合うのだから。
終