扉の向こうに
月が朧気に夜を照らしている。それをただ眺めていた。それ以外に私には何一つなすべきことがなかった。
病気というのは厄介なもので、これまで私が生きてきたおよそ三十年という、そこそこ長い歳月。その間、何かを自由にできた試しなどただの一度もなかった。そして、それは現在進行形で続いている。
ただぼんやりと月を眺めるのが日課になってからというもの、それらのことがあまり気にならなくなった。それまでは、やりたいことができないことや、行きたい場所に行けないことに苛立ち、時には溢れる怒りに身を任せ、比喩でなく胸を掻き毟ったりもした。あの抑えきれないほどの感情はいったいどこへ消え失せてしまったのだろう。今の私には、けして見つけることができない。
扉の向こうに気配がした。もちろん病室の中からは見えないのだが、私にはそれが小さな女の子だとわかった。不思議と確信めいたものがあった。ひどく純粋で、無邪気で、残酷な雰囲気が扉の隙間から漏れ出ていた。
「今夜も来てくれたんだね」
そもそも月を見るのが日課となったのは、この少女のためだった。もう一月ほど前になるだろうか。夜中にふと喉の渇きを覚えて目が覚めた。自由に動くことのできない私のために、飲み水はいつも枕元に置かれていた。常ならば、不自由な腕で引き倒さないよう慎重に水差しを掴むところだが、グラスに移す時間さえもどかしく思えた私は、水差しを無理矢理引っ張り、直接そこから水を飲んだ。
喉の渇きが癒えると、扉の向こうに誰かがいることに気づいた。初めは気のせいだと思った。入院して長いが、こんな時間に院内を徘徊する患者を私は知らない。医師や看護師なら扉の前でじっと立っているはずもない。
気配は何をするでもなく、ただ扉の向こうに立っていて、しばらくすると、霧のように消えていた。
最初の頃は気味の悪さや恐怖を覚えたが、何度か気配に遭遇するうちに、私は月を眺めながら気配の到来を待つようになった。
――少女は決まった時間には来なかった。まるで気が向いたから来たのだ、とでも言うようにふわりと現れる。時間はバラバラだったが、少女は毎日現れた。
「どうぞ。入っておいで」
私の呼びかけに少女は答えない。ただ、扉に触れさえもしないことが、そのまま答えであるように思えた。顔も見せない。言葉も交わさない。しかし、私はその少女のことを愛しいとさえ思った。少女は、病院のスタッフを除けば、私を訪ねてくる唯一の存在だった。
「一度でいい。顔を見せてくれないかな」
少女は扉の向こうに立ったまま、身動き一つしなかった。
私は自分の命がもう残り少ないことに気がついていた。病院の人間は皆悟られまいと笑顔を絶やさないが、刻一刻と肉体から力が抜け出ていくのを感じていた。そのこと自体には何の感情も持たなかった。ただ、この命が終わるその前に、少女の姿をこの目で確かめたかった。しかし、少女は扉を開けてはくれなかった。
――枕元で叫び声が上がった。何事かと目を開けようとするが、瞼が鉛のように重い。叫び声だと思ったのは看護師が医師を呼ぶ声だった。私の周りがしだいに騒がしくなっていく。どうやら自分が危険な状態にあるのだとわかるまでに、しばらく時間がかかった。
もうすぐ死ぬのだろうな、とまるで他人事のような気持ちで周囲のざわめきを受け止めた。ようやく微かに開いてくれた目で、いつものように月を眺めた。
美しいとは言えない形だった。
どうせなら満月がよかったな、などと考えていると、病室の外に気配を感じた。
なぜだか、来てくれるだろうという予感めいたものはあった。まるで何年来の友人のように少女はそこに立っていた。
扉は開かれたままだった。こちらを眺める少女の顔には何の表情も浮かんではいない。それどころかぼんやりとまるでそこだけに靄がかかったように、その顔かたちは判然としない。悲しむでもなく、憐れむでもなく、ただそこにあるものをありのままに視認している、そのような目をしているのだけが見て取れた。
顔こそ見えないものの、私は初めて見るはずの少年とも少女ともつかないその姿をどこか懐かしく思った。どこまでも透き通るように白いその姿は、一度も見たことがないはずなのに、ずっと昔に見ているように、あるいは、生まれる前から知っていたような気さえした。
少女は小さな歩幅でこちらへと歩いてくる。少女が一歩を踏み出すたび、自分の中から何かが抜け出てゆくような錯覚を覚えた。どれだけ近づいても少女の顔は見えない。喉がひりつく。私は恋い焦がれるような想いで少女の方へと手を伸ばそうとするが、私の意志に反して、指先一つ動いてはくれない。肉体と精神との間に大きな溝を感じた。肉体が私から、或いは、私が肉体から乖離していくような、そんな感覚だった。そして、それを引き起こしているのは目の前にいる少女なのだという実感があった。
恐怖はなかった。痛みも悲しみも自分の中には何もない。否、自分というもの自体がどこか曖昧で、そもそも自分とは――個としての自分とは何だったのだろう。
今、私と世界とを隔てるものは何もなく、それらを区別して捉えることはできない。私は世界で、世界は私だった。無限の海を揺蕩うように、私はそこかしこに存在しているようでいて、しかし、物質としての私はどこにもいないのだ。
――いや、もうそれすらもどうでもいい。ああ、なんと心地よいのだろう。
存在と非存在の間で、私はこれ以上ないほど満たされていた。それももうすぐ、世界そのものに溶け込んで、消えてなくなるのだろう。私にはもう可能もないが、その代わりに不可能もないのだ。全能感とでも言うのだろうか。生まれる前に戻っていく。それは、現世で培ったものを失っていくことであると同時に、失ったものを取り戻していくことに他ならない。ああ、思考が定まらない。溶けていく……何もかも――
◇◇◇
そばにあった機械が、その者の命が尽きたことを知らせる。
医師が時間を確認するのを横目に、少女(あるいは、少年かもしれない)は静かに瞼を閉じた。
彼/彼女は何か呟いたようだったが、その声が誰かの耳に届くことはなかった。
睫毛の間で月明かりが微かに煌いた。