エメラルドの酒瓶
わたしにとって、書く、というのは、現実であって、現実ではない。
逃げでもあるし、受け止めることでもある。
「ねぇ、絵を描くって、誰かのためじゃなくて、自分のためにするものなんだね」
わたしは前触れもなく、口にする。
「わからないけど、そうなの?」
夫は慣れたように、返事をする。
「だって、それを見たひとが何かを勝手に感じたりするものでしょう。描いた本人には、そんな意図はないかもしれないのに」
「まあ、たしかにね。そういうのって、あいまいなものだし」
夫は、わたしの手元にあるポストカードに視線を落とす。
青い静物画。
わたしが好きな作家が描いたもの。
「わたしはね、絵を描くにも、文章を書くにも、ごちゃごちゃ考えすぎて思考が複雑に絡まっちゃったひとが、とんとんって整理できて落ち着けるような・・・おだやかなものを目指してた。でも、それはちがったらしい。自分がそういうものしか見たくないから、そういうものをかこうとしてたってことが、わかった」
夫は、興味なさそうに、ふうんと相づちをうって、焼酎をあおる。
氷が小さく音をたてた。
「なにかあったんでしょ、会社で」
夫が言った。目元が笑っている。
わたしは、少し驚く。
こんなに他人の変化に敏感なひとだっただろうか。
「まあ、ちょっとだけ。なんでわかったの」
「だいたい○○が創作について何か言い出すときと、アセロラの焼酎のときは、そういうときだから」
わたしは、そうだっただろうか、と記憶をたどって、ああ、確かにそうだったかもしれないと思う。
わたしの目のまえに、アセロラの酒瓶が、凛とした風情で立っている。そこだけ、クールで、とてもさわやか。そして、さりげなく甘い。
「良いことがあっても、嫌なことがあっても、その瞬間だけ目いっぱい感情に浸って、すぐに流す。できるだけ早くフラットになる」
わたしは、夫の抑揚がないセリフのような言葉に耳を傾ける。
「おれたちはここ数年で、流せないような辛い思いをしたよ。けれど、○○が今日味わった感情は、何年か経っても覚えているような気持ちじゃないでしょ」
夫は眠そうに欠伸をして、掌で軽く口元をおさえる。
わたしは、そのとおりだと思う。
流していく。
舞い上がるくらいうれしいことも、雷が体をつらぬいたと思うくらい嫌なことも。
生きていたら毎日は進んでいくし、いろんな思いもする。
すべてをためておくことはできない。
なにかがあっても、できるだけ早く戻る。
いつもの自分に。
いつもの場所で、いつもの位置で、いつもを。
生きていくって、複雑で、でも実はとてもシンプルなのだろう。
アセロラのあっさりとした匂いがグラスからただよう。
わたしはゆっくりと深呼吸をしてから、目をつむった。