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王太子の結婚 2

「屋敷で支度をするんだと思ってた」


 チップの口調は穏やかだった。

 しかし、キャットは首の後ろで冷たい風が吹いたように感じた。


「当日は交通規制があるっていうし……」

 言葉を濁すキャットに、チップが同意した。

「うん、渋滞しそうだね。わかるよ」

 声にも態度にも何も表れてはいない。

 表れてはいないが……チップは喜んでいない。キャットには分かった。そして多分リーには訊くまでもなく分かっていたのだろう。

 

 チップの屋敷、九月三十日荘でキャットが使っている部屋には寮に置けないドレスが何枚かかけてあるし、チップと二人で支度をしてそこから一緒に出かけることもあった。

 しかし郊外にある屋敷から式場となる大聖堂までは車で一時間ほどかかる。それに一人きりは色々と不安だ。

 背中のファスナーが噛んでしまったらとか、後ろ髪がおかしかったらとか、気付かない場所にしつけ糸が残っていたらとか。


 留学前はベスの家に泊めてもらうことが多かったが、今回は王太子の身内であるベスの家に泊まるなど論外だ。

 王都中心部に住む友達もいないわけではないけれど、式に招待されていない友達の家をドレッシングルーム代わりに使わせてもらうなんて申し訳なくてできない。


「あの、ね。断った方がいい?」


 口にした途端にキャットは後悔したが、言い直すより前に答えがかえってきた。

「いや。君はドンナ・フィレンザと一緒の方が安心だろうし、ドン・カルロの好意の申し出を断る理由はないんじゃない? 僕もそれが一番いいと思うよ」

 チップはいつもと同じ、快活な口調に戻っていた。


 キャットは心の中で「ああ、やっちゃった」とつぶやいた。

 

 電話を切った後、キャットはベッドにぐったりと倒れ伏した。

 キャットは他の恋人をもったことがないから比べることはできないけれど、友達の話を聞くとチップはとても寛大な恋人だと思う。

 『イタリア男に口説かれた時のうまい断り方』などというものをキャットに教え込んだりはするけれど、一度だけと言いながら他の男の子とのデートにすら賛成してくれた。


 だがしかし。チップは寛大ではあっても妬かないわけではない──という言い方では控えめにすぎる。はっきりきっぱり独占欲が強い。

 ケンカして、もっと僕を見ろと怒られたこともある。キャットの手作りパンを貰ったというだけでフィレンザに妬いたとも言っていた。あれはさすがに本気だったと思いたくないが、キャットが映画に夢中になっている時にわざと邪魔をするような子どもっぽい焼きもちはしょっちゅうだ。そんなチップが、カルロの招待を喜ぶわけはないのだ。

 それなのにキャットはわざわざ断ったほうがいいかと訊いて、チップに言いたくもないことを言わせてしまった。

 キャットは枕に顔を埋めてぐずぐずと考えた。

 

 ちゃんと顔を見て言えばよかった。

 もっと一緒にいる時間があればいいのに。

 もっとフライディが分かりやすい人ならよかったのに。

 もっと束縛してくれたらいいのに。

 

「ん?」

 キャットはくるりと回って仰向けになった。

 束縛してなんて言ったら、チップは悪役になりきって嬉々としてキャットを椅子に縛り付けそうだ。

 真剣に落ち込んでいたはずなのに、コメディにありそうなそんな場面を想像した途端に笑いがこみ上げてきた。

 どうやらキャットにも、『息をするようにふざける』恋人の悪い癖が移ってしまったらしい。

「フライディ、大好き」

 様々な思いを込めて、キャットはつぶやいた。

 

 翌日、キャットは仲良しの友達ローズとフェイスに、カルロの招待についてどう思うか訊いた。

「別にいいんじゃない?」

 ローズのあっさりとした返事にキャットは肩透かしをくらった。

 以前キャットのデートで頭ごなしに怒ったローズだから、今回もまた怒られるかと覚悟していたのだが。

「キャットとフィレンザとは寝室が別なんでしょう?」

「もちろんそうだよ」

 キャットが強く答えた。

「なら別に……だって、そんなこといったらドミトリーだって泊まれないよ?」


 学生が泊まる安宿では大部屋に二段ベッドがいくつか入ったドミトリーが普通で、男女混合のところも多い。大学には異性とルームシェアをしている学生もたくさんいる。一人暮らしの弁護士女性の家にホームステイをしている法科の男子留学生は、家での雑談がとても勉強になっていると言っていた。


 だからそんなに気にするほどのことじゃないとはキャットも思うのだが、なんとなくまだ気持ちがおさまらなかった。

 二人の会話を黙って聞いていたフェイスが言った。

「フィレンザのお兄さんって、素敵よね」

 キャットとローズが大きく二度頷いた。二人には夏休み明けに、イタリア旅行のお土産を渡して写真も見せていた。

「彼がうちの兄みたいなタイプなら安心なのにね」

 キャットが思わず口を開けた。

 

 フェイスは控えめで静かなタイプだが、時々穏やかな言葉で核心を突いてくる。

 もちろんキャットは、イタリアでほんの一瞬だけあった『かもしれない』出来事を誰かに話したりはしていない。チップにすら『イタリアでとっても素敵な人に見つめられたけど、教わったフレーズを言ったら笑われたよ』としか言っていない。

 でもフェイスは、その持ち前の鋭さでキャットの悩みの本質を感じ取っていた。


 つまりキャットがチップに伝えるのをためらったのは、あの黒い瞳の持ち主と(寝室が別とはいえ)同じ部屋に泊まることに、何となくやましさを感じるからだと。


 カルロに会ったからといって何かが起こるとは思わない。あれはあの日没前の一瞬だけのもので、過ぎた時が戻ることはない。それでもその一瞬を共有した相手に近づくのがいいこととはキャットには思えなかった。

 しかしチップが言うとおり、色々な都合を考えると「それが一番いい」のも確かだった。

 

 ──キャットはこの二ヶ月というもの、一つ解決したと思えばまた新しく生まれる悩みのせいで、すっきり心が晴れることがない。

 いつもキャットを元気にしてくれる恋人と会う時間が減ったのも、心が晴れない原因のひとつだ。

 アートとアンの結婚を一点の曇りもない気持ちでお祝いしたいのに、自分の心のどこかに「結婚式さえなければこんなことで悩まずにすんだのに」という思いがあることに気付いて、キャットは結婚する二人に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

 しかしちょうど同じ頃、アンもまたキャットと同じ思いを抱いていた。

 もっともこちらの理由はキャットとは全く違うものだったが。

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