表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/208

あと一ヶ月、あと三年 2(おわり)

i.

 チップの予定が空いた昼過ぎからキャットの寮の門限までの半日だけとはいえ、久しぶりの遠出デートでハンドルを握るチップは上機嫌だった。


「緑とオレンジ、どっちがいいと思う?」

「君は何を着ても可愛いよ、ロビン。何なら緑とオレンジのストライプでも」

 浮かれたチップに言い返したキャットの声は地を這うようなトーンだった。

「そういうことを訊いてるんじゃないの。どっちがいいかの意見を訊いてるの」

「僕の好みで言わせてもらえればどちらも着てない……」

 キャットはおもむろに身を乗り出し、サイドミラーをちらりと確認した。

 

 突然白煙を上げてスピードを落とした愛車を、エンストしないよう立て直すまでにチップは数十秒を要した。


 再び元のように走り出したところで、チップは短く注意をした。

「いきなりブレーキを引くなよ。後続車がいたら追突されてたぞ」

「もちろんいたらやらないよ」

 生意気な口調でキャットが答えた。

 運転中に助手席からサイドブレーキを引くのはもともとチップが、キャットがスピードを出し過ぎた時やただキャットの関心を引きたい時にやりだした悪戯だ。キャットほど手加減なしではなかったが。

 チップはこのことで彼女を怒れないし怒るつもりもなかったが、隣を見なくてもチップには、キャットのあのとがった顎がいつもの角度に上がっていることは分かっていた。


 そこでチップはキャットを怒るかわりに、キャットにではなく自分に向かって大きな声でひとりごとをつぶやいた。

「ああ、こんなことなら君が運転免許を取るって言い出した時に『僕が一生君専属の運転手になるから』って止めればよかった」

 珍しくキャットは言い返してこなかった。


 チップが助手席に目をやると、キャットは頬を朱に染めて進行方向を見つめていた。

 チップの視線に気づいて朱色を濃くしたが、かたくなに運転席側を見ようとはしない。

 

 今度はチップ自身が踏み込んだブレーキで車が急停止した。もちろん後続車が来ていないことはキャット同様、彼も確認している。

「危ないじゃない、いきなりブレーキ踏んだりして」

 前に揺さぶられたキャットがチップをにらんでどの口が言うという文句を言った。怒った顔をつくっているが頬の赤みは消せない。

 キャットの視線を受け止めたチップが満足そうに笑った。

「君ときたら普段の口説き文句は聞こえてないみたいに流すくせに、何気ないひとことがこんな風にいきなりヒットしたりするんだから。まったく目が離せない」

「そんなこと言うために停まったの?」

「そうじゃないってことは分かってるだろ」


 キャットは一度瞬きをして、それからゆっくりとまつげを伏せた。

 

 後続車の姿が現れるまでの数分で、二人は天国を覗いた。

 やがて二人は地上に戻り、道に残る黒いブレーキ痕に後続車が追いつく前に再び出発した。

 

 それからしばらくの間──具体的にはキャットが結局ドレスの色問題が何も解決していないことに気付くまで──二人はとてつもなく幸せなカップルだった。

 

ii.

 キャットは最近ひどくナーバスになっていた。

 本人はサード・セメスター(二年目前期)が始まったばかりで忙しいからだといいわけしているが、チップには理由が分かっていた。

 アートの結婚式が近づいているせいだ。

 そして同じ理由で二人で会える時間が減っているために、たまの短い逢瀬でチップはキャットの気持ちをほぐしきれずにいた。

 

 キャットは今までも非公式の集まりに出ることは出ていたが、それはチップのパートナー、ゴシップ誌に言わせると「恋多き王子の最新の恋人」という代替可能な枠での出席だった。

 しかも学生であり一般人であるキャットのプライバシー保護のため、国内メディアはキャットの顔が分かる写真や映像を使わないことになっていた。名前も公表されていない。


 王位継承権を放棄したとはいえチップがこの国の、臣民に愛される王子であることに変わりはなく、こういった『ささやかな配慮』を求めて叶えられる程度の力も持っていた。

 このささやかな配慮への返礼として、チップは時々マスメディアが喜ぶような相手をパートナーにして、大きな話題のない時期に空いたページや余った放送時間を埋めていた。

 メルシエ王国の観光資源ともいわれる四王子のうちで、こういう華やかな話題を提供してくれるのは第三王子であるチップだけだったから、マスメディアもこの無言の協定を破るような真似はしない。選ばれるそのパートナーがメディアグループで総力を挙げて売り出し中の女優だったりもするから尚更だ。


 やりすぎて周囲に心配をかけることもあるが、これも『君の名誉も君自身も、僕に出来る限り守る』というキャットへの約束を果たす、チップなりの方法のひとつだった。

 

 キャットはそういった事情については何も知らなかったものの、自分がこの国で匿名の存在でいられるようにマスメディアから手心を加えられていることは分かっていた。

 隣にある母国で本気の取材陣に取り囲まれたことがあるから、それがどんなものかも分かっていた。

 

 しかし、一ヶ月後には王太子の結婚式が執り行われる。

 

iii.

 結婚式まで二ヶ月を切った先月のある日、ミス・キャサリン・ベーカー宛にメルシエ王国の紋章が金押しされたカードが届いていた。

 メルシエ王国王太子アーサー・レクサングロムと、その婚約者、ベンシングトン侯爵令嬢レディ・アン・バーグレットの結婚式とその後の午餐会への公式な招待状だ。

 今回に限っては、キャットの顔だけをぼかすというわけにはいかない。キャットも公式ゲストの一人としてカメラを向けられることになる。

 公式ゲストは他にも千人以上いて、キャットよりも興味深い被写体が数百人単位でいるということが分かってはいても、キャットの気は晴れなかった。いつもとは大きく違う点がもうひとつあるからだ。


 頼もしい友人フィレンザが一緒に行こうと誘ってくれたとはいえ、キャットは結婚式、それに続く午餐会に一人で出席する。

 今回キャットの隣にチップはいない。招待もアンの友人枠だった。

 

 キャットは、バディなしで大海に泳ぎ出すような気分でいた。

 でもこれが乗り切れないようでは、この先へは進めないということも分かっていた。

 

 午餐会は着席なので席順が決まっている。身分の高い方から順番に、だ。

 実は当初キャットの席は、一番遠い端にかなり近いところだった。チップとキャットの関係は、お互いにとってはともかく、公的には親しく付き合う異性の友人でしかないし、チップの立場的に正式な婚約者でもない女性を家族と同じ席につかせることはできない。


 それでもチップはできるだけのことはしていた。

 家政官のヘンリックはコンピュータよりも正確に、生まれついての身分と最近の功績そして人間関係を考慮した席順を決めるという貴重な才能を有している。

 チップがそのヘンリックにまず、ミス・キャサリン・ベーカーはただの大学生ではあるものの、リヴォーリ公爵令嬢とは元ルームメイトとして親しく交流しているので、席を近くにしてあげるくらいのことはしてもいいんじゃないかと提案した。

 「殿下がごり押しして席順を変えたりしたらミス・ベーカーの今後のお立場が悪くなりますよ」と言いながらも、ヘンリックはしつこいチップに根負けしてキャットの立場ではぎりぎりのところまで席を移動してくれた。

 彼女の席を僕から見える位置にしてくれというチップの願いも、ヘンリックは、しばらく空をにらんで想像上のゲストのあちこちを入れ替えた後で叶えてくれた。

 テーブルの真ん中の花を低くしてくれという希望には、にっこり笑うだけで返事すらしてくれなかったが、チップはほぼ目的を果たしたとみて快く引き下がった。

 こんなことができるのもチップが普段の行事で面倒な賓客の隣席を引き受けていたからだ。

 そのために恩を売っていたわけではない、が。チップは手持ちのカードを使うタイミングをちゃんと心得ていた。

 

iv.

「秋っぽいオレンジがいいかなとも思うんだけど、皆がそう思ったら他の人と被りそうじゃない?」

 車内の話題は再びキャットのドレス選びに戻っていた。

 正確には、キャットに限っていえば車に乗り込んでからほぼその話題しかしていない。キャットはプロのスタイリストにアドバイスを受けていて、実はもうドレスは緑とオレンジの二着まで絞られている。

 あとはどちらかに決めさえすればいいのだが、キャットにしては大変珍しいことにその思い切りがつかないのだ。

 

 前を向いたまま両方のドレスの良い点悪い点を語るキャットは、横顔に向けられた視線に気付かなかった。

 チップがキャット本人から注意深く隠している思いにも、気付いていなかった。

 

 王太子である長兄アートの結婚はチップにも影響を及ぼしていた。

 家族が集まればどうしても話題はそれに関連したものになる。

 アートの公務の兄弟間での割り振りなどは、ジャグリングの手玉が少し増えたようなもので、キャットに会う時間が減ったこと以外はさほど負担にも思われない。

 しかし結婚準備を間近で見たチップが感じていたのは、漠然とした憧れとは違う焦燥だった。


 七歳年上の兄の結婚がやっと決まったとはいえ上にはもう一人兄がいるし、弟からも「僕が先」と宣言されている。

 キャットはまだ学生だ。チップに順番が回ってくるにはまだ何年もかかることはもっと前から分かっていた。

 しかし恋人と帰る場所が違うということは、会えば必ず別れの切なさを味わうということだ。

 その目の前にごく簡単な解決法がぶらさげられた。ちょうどチップの手の届かないあたりに。

 もどかしいことこの上ない。

 

 なのにチップの最愛の恋人ときたら二人の将来についてではなく、他人の式で着るドレスのことばかり話している。

 もう少し僕達のことについて真剣に考えてくれないかな、と言えばきっと驚いた顔をしてキャットは言うだろう。

 もちろん考えてるよ、と。

 

 チップは切ない溜息を押し殺した。

 

v.

 気分を変えようと軽く首を振ってから、チップはわざと快活にキャットにいくつかアドバイスをしてみた。が、コインを投げるなどの有益な提案は全て却下された。


 とうとうチップが言った。

「そんなにドレスを気にしてるのは、午餐会でリックと同じテーブルになるから?」

 キャットが噴きだした。

「そんなわけないじゃない」


 キャットはチップの裏交渉を知らなかった。

 チップはただ「君のテーブルにはフィレンザとドン・カルロ、それにリックまで揃ってるよ」とだけ告げていたが、いずれにしてもヘンリックを知らないキャットに成果を理解してもらうのは難しかっただろう。

 

「何色でもいいけど、より露出の少ない方が僕の好みだな」


 さっきとは『僕の好み』が真逆になっていたが、キャットはそこには突っ込まなかった。もともとチップの言葉の半分以上はふざけるか、まぜっかえしだ。キャットもいちいち矛盾を問いただしたりはしない。

「露出なんてするわけないじゃない。教会式と午餐会でしょ」

「よかった。君のハート型のそばかすを、他の男に見られるのは嫌だから」

「なにそれっ!」

 あわてたキャットにチップがわざと目をあわせず、前を向いたまま片頬だけで笑ってみせた。

「君が知らない、君の秘密だよ」

 

 キャットはしばらく無言でその横顔と、ハンドルを握る手を見つめてからいきなり言った。

「フライディ、愛してる」

 

 チップの愛車は、本日三度目の急停止という仕打ちに耐えた。

 グリップ力の強いタイヤは消しゴムのように減り、駆動系にも負担になることこの上ない操作だが、そういう心配をするのは車両担当の仕事だ。チップの仕事ではない。


 キャットの関心をやっと取り戻した今、チップにはもっと大切なことがあった。

 

 道路の真ん中で交わせるキスの濃さの限界に挑戦し、それを成し遂げたチップが、キャットの髪をもて遊びながら囁いた。

「ねえ、さっきはどうしてあんなに赤くなったの?」

「だって……私専用の運転手になるなんて言うから……」

 キャットの瞳の色に魅入られたチップは、息を止めて続きを待った。

「どうやって運転してくれるのかと思って」

 

 チップは返事をしなかった。

 代わりに大きく息を吸って、叫びだしたい気持ちを吐く息と一緒に体から逃がした。


 一度では足りずに何度も深呼吸を繰り返しながら、チップは心に誓った。

 

 ──三年以上は、ただの一日だって待たない! 絶対にだ!

 

end.(2011/08/14)

※作中の危険行為は物語上の演出です。重大な事故を引き起こす可能性がありますので絶対に真似しないで下さい。


明日からは「王太子の結婚」全15話です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ