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Nothing Special 8(おわり)

 当時のマックスは学校で一、二を争う人気男子だった。クラス委員に立候補して選ばれたのはその人気からも当然、しかしそのせいで女子は牽制しあってなかなか委員が決まらなかった。

 結局くじびきで自分が選ばれた時、アンは自分の幸運が信じられなかった。

 もっともそれはその一時だけのことだった。実際にクラス委員の仕事を一緒にするようになると彼のめっきは徐々にはがれ、先生への報告だけが立派なマックスの真実の姿にアンの憧れはすっかり消えてなくなった。


 さっきの様子ではマックスの方は、クラス委員だった頃にアンに面倒な仕事を押し付けていたことは都合よく忘れているらしかった。今更謝って欲しかったわけではないが、調子のいいところは昔のままのようだ。


 アートがためらいながらまた口を開いた。

「その、あまり親しくされて困るようなら、言ってくれ」

 アンはその言葉を、利に敏い人々につけこまれていないかというアートの心配と受け取った。

「大丈夫。皆が私に何を見ているかは分かっているつもりよ。病気をした時に人が離れていくのを見ていたもの」

 眉根を寄せたアートの顔を見上げ、アンが微笑んだ。

 アートこそは花嫁候補でなくなったアンから離れて当然の人だった。でもずっと離れずにいてくれたのはただこの人だけだった。


 婚約が公表されてから周囲がどんなに態度を変えても、アートが心配するほどアンは傷つかなかった。

 アートは生まれながらの王太子だ。アンが王太子妃候補に選ばれたことで二人は出会った。アートとの結婚と王太子妃となることの二つは切り離せない。

 アンは将来の王太子妃という立場にときおり気後れを覚えるが、それを誇らしく思う気持ちがあることも否定はしない。知り合いが、何らかの形で王太子の結婚につながっていると思うことではしゃいだり浮かれる気持ちも分からなくはない。

 けれどアンが何より誇らしく思うのは、結婚を申し込む時も膝をついて(こいねが)ったりしなかった、個人的な好悪を口にすることに慎重な彼がアンを『必要だからではなく』求めてくれたことだった。そのアートの気持ちに応えることが何よりも重要だった。周囲の変化などはささいなことだ。

 逆の変化を一度体験しているアンは、ほとんどの人が他人より自分自身を大切にしていることを知っていたし、そうでない人がいることも知っていた。一人は今アンの隣にいる。


「今更そんなことで傷ついたりしないわ。病気になったおかげね」

「君はしっかりしているな」

「そうじゃないことも、あなたはご存知でしょう」


 五年間の療養の間、友人という立場でアンを見舞い続けてくれたアートに心の内側をこぼしてしまいそうになる瞬間は何度かあった。

 そんな時、アートは礼儀正しく、アンの涙に気付かないふりをして黙ってそばにいてくれた。

 それはどんな言葉よりもアンにとって嬉しかった。同情から見舞ってくれているのだと自分に言い聞かせなければ、期待しすぎてしまうくらいに。


 アートがほんの少しでもアンへの気持ちを打ち明けていたら、みっともなく両手ですがりついていたと思う。いや、もしかしたら逆に、自分は王太子妃にはふさわしくないと身を引いていたかもしれない。

 でもアートは何も口にしなかった。ただずっと同じ態度でそばにいてくれた。


 周囲から他の誰がいなくなってもアートがいてくれたから、次々と結婚して子供を生み育てる友人に取り残される焦りに、満足に陽も浴びられない制約の多い療養生活に、アンは誇りを保ったまま耐えることができたのだ。


「……でもそう思って下さって嬉しいわ」

 微笑んだアンの手を引いて、アートが黙って歩き出した。


 やがて二人は池のそばに立つ女性の、暗がりでも目立つクリーム色のショールカラーに気づいた。隣の背の高い男性と手をつないでいる。

 アートがいつものよく通る声で弟を呼んだ。

「チップ」

 アートは、恋人と連れ立って近づいてくるチップに言った。

「さっき予備の手袋を持っていたな」

「キャットの手袋のこと?」

 アートは無言で片手を差し出した。

 チップは眉を上げたものの、何も言わずにタキシードの内ポケットから女物の手袋を一組取り出し兄の手に載せた。

 アートは礼も言わず、もう片方の手で握っていたアンの手から手袋を外して投げ捨てた。

「アート、何してるのっ?」

 慌てて声を上げたキャットをチップが腕で止めた。

 アートは二人を無視して反対の手からも手袋を外し、同じように投げ捨てた。

「──これを」

 アートは捨てた手袋の代わりに、チップから受け取った手袋をアンに差し出した。

 アンは何も言えずにそれを受け取った。

 何か察しているらしいチップがにやにやしながら言った。

「アート。独占欲も程々にしないと嫌われるよ」

「うるさい」


 アンはアートを嫌いになるどころか、幸せに目がくらみそうだった。

 アートに独占してもらえるなら、手袋なんて何組捨てられても構わなかった。


 ──実際のところ、アートのような男性から手袋を捨てられるというのは、髪に花を飾られるのと同じくらいロマンチックではないだろうか?


「アートも予備の手袋が必要だな。僕とは違う理由で」

 調子に乗ったチップの脇腹にキャットが肘鉄を入れ、チップは大げさにうめいて見せた。


 その時、空がぱっと明るくなった。

 少し遅れて爆発音が響いた。


 パーティの終わりを告げる花火が、夜空に打ち上げられた。キャットがさっき肘鉄を入れたばかりのチップの体に腕を回して空を見上げた。


「夏が終わるな」

 アートも空を見上げてそう言った。

「ああ。これから何年も『あの年の夏は』って思い出すような特別な夏だった」

 チップが同じように空を見上げて言い、抱きついたまましゃくりあげはじめたキャットに視線を戻した。

「ロビン、何べそかいてるんだよ」

「なんだか、寂しくなっちゃったの。……ずっと夏だったらいいのに」

「それは困るな。僕は三年ばかり早送りしたいと思ってるんだから」

 チップが優しくそう言って、キャットの髪に指を差し入れ頭を抱き寄せた。


 アンは少し大きい新しい手袋をした手で、そっとアートの肘を取った。

 アートが珍しく聞き取りにくい声で言った。

「そのドレス……よく似合っている」

 さっきの手袋の一件で少し大胆になったアンが、アートにささやいた。

「でも一番とは思って頂けなかったみたいね」

「私はっ──女性の容姿に順番をつけたりしない。だいたいキャットはまだ子どもだし、ベスは生まれた時から知っている従妹だ。君と比べる相手じゃないだろう」

 アートが早口でささやき返した。

 これがアートでなければ焦っていると受け取るところだ。まさかアートがこんなことで焦るとは考えにくかったが。


「体つきのことも君は気にしすぎだ。君はずっと色々なことを我慢していたんだ。食べるものくらい好きに食べたらいい。今くらいが女性らしくていいし、太ったって別に構わない。君と一生を共にしようとしている相手をあまり見くびらないでくれ」

 アートの一言一言が、耳にかかる吐息が、アンの体を熱くした。


 アートにこの熱が伝わってしまうのではないかとアンが心配になってきた頃、アートはようやくいつもの調子を取り戻して最後に短く言った。

「すぐ秋だ」


 結婚式が待ち遠しい、口にしなくても同じ気持ちの二人は、いつもより少しだけ近い距離で空を見上げた。


 兄達のように抜け出すことが叶わなかったエドとベスは、人の多いホールでラストダンスを踊っていた。

 ベスがエドにささやいた。

「花火が始まったみたいね」

「見に行きたい?」

「いいえ」

「ありがとう。その……要領が悪くてごめんね、エリス」

 ベスは答える言葉を一つしか思いつかなかった。微笑んだ唇にその言葉を乗せて贈った。

「エド、愛してるわ」


 ここにいないベンがその頃どこで何をしていたかは──また別の機会にでも。


end.(2011/02/28)

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