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宇宙よりもっと 1

久々の非日常。全10話。

「冷房がきつすぎてちょっと寒いわね。ここ少し開けましょうか」

 そんな声とともに、室内のざわめきが窓から漏れ出した。


 いくつかの会話の断片は、やがてひとつの話題にまとまっていった。

「十八歳ですってよ」

「ふうん。ずいぶん下なのね」

「歳は関係ないんでしょう? だってほら前には」

 意味ありげな沈黙が挟まった。

 笑いを含んだ別の声が続いた。

「それにしてももっと綺麗な子にしたらいいのに、分からないわね王子様の趣味は」

 



 下のテラスでぬるい夜風に当たっていたキャットは、まず『十八歳』のところで頭上の会話を意識し、『もっと綺麗な子』のところでぴくりと身じろぎした。


 キャットに腕を回していたチップはそれに気付き、黙って反対の手でやりにくそうに上着の内側にあるポケットを探った。キャットに回した方の手を使えばいいのだが、恋人を手離すのが嫌だったのだ。

 不自然なチップの動きをキャットが見とがめた。

「何してるの?」

「待ってろ。いま手袋を投げてやる」

「やめてよ。それ私の手袋でしょ。投げるなら自分のにしてよ」

 キャットは小声で抗議し、チップの手を押さえて止めた。

 キャット本人は自分の名誉のためにも恋人の名誉のためにも手袋を投げるつもりがなかった。

 綺麗じゃないと言われて嬉しいわけでは決してないが、さっき聞こえた会話には悪意はあっても嘘は混じっていなかった。


 今キャットが十八歳でチップより六つ下(チップの誕生日が来るまで)なのも、あまり綺麗じゃないのも事実だ。チップの趣味が分からないという意見にも頷ける。

 ……でもどうして言い方ひとつで事実があんなに不愉快に聞こえるんだろう。

 

 十八という年齢は『時が解決してくれる』のを待つしかない。チップとの六または七つの年の差は変えようがないが、これも時が経てばたぶん今よりは気にならなくなる筈だ。

 容姿については、見る人の主観で──趣味に合うかどうかだけでなく、好意を持ってみるか悪意をもってみるかでもずいぶんと評価が変わるものだ。ベスでさえ「整いすぎて笑顔が不自然」と陰で言われるのだから。(それを聞いた時キャットはベスのために怒らなかった。笑いをこらえるだけで精一杯だった。)

 あのベスの美貌にすらつけようのないけちをつける人がいるのかと思ったらなんだか馬鹿馬鹿しくなって、それからキャットはあまり多くを望まなくなった。

 そもそもキャットの本業は学生だし空いた時間にはテニスの練習もしたい。エステ三昧の女性達ほど見た目に気を配ってばかりもいられなかった。

 

 過去にはクラスメイトや友人から口々に綺麗になったと言われ、チップからはむきになるなとまで言われた時期がほんの一瞬あったが、あの時は変化が急だったから皆が珍しがって驚いただけだと今にしてキャットは思う。

 今のキャットは、自分が納得できる範囲で見た目に気を配り、たまのパーティでパートナーにふさわしく装えれば、それ以上頑張って雲の上にある美の頂を目指さなくてもいいと思えるようになった。

 

 しかし、いったんはそう悟ったつもりでもいざ人から綺麗じゃないと言われたら、やはりあれこれと迷いがでるのが女心だ。


 どんなに頑張っても言う人がいることは分かっているが、それでも今日はもうちょっとだけ頑張ってくれば良かった。そうすれば自分のことでチップがあんな言われ方をされずに済んだかもしれないのに。

 夏休みだからって遊びすぎたし、実家でのんびりしすぎてちょっと気が抜けていたかもしれない。

「……自分でも日焼けしすぎたとは思ったんだよね。久しぶりにドレス着たら似合わなくて」

 もう少し続くはずだったキャットの内省的なつぶやきは、チップのキスで途切れた。

 

「初めて会った時も君はソーセージみたいにこんがりと焼けて、島一番の美人だったよ」

 本気なのかふざけているのかよく分からない口説き文句はいつものことだが、そこに込められたチップの気遣いにキャットは笑顔を返した。

「『無人』島一番のね」

「君は世界で一番可愛くて綺麗だ。僕が保障する」

 チップはキャットの輪郭を指で顎までなぞり、添えた指で顔を上げさせた。キャットはうつむこうとしたが、チップがそれを許さなかったので朱に染まった頬を隠すことができなかった。

「言いすぎ」

「事実だよ。僕には君しか見えてないから君が世界一だ」

 再びキスをしようとキャットに顔を寄せたチップが、途中でぴたりとその動きを止めた。キャットに添えていた手を手すりに伸ばしてからちらっと頭上に目をやり、手首のスナップを利かせて何かを投げた。

 

 窓の奥でちょっとした騒ぎが起きた。

「きゃっ!」

「いやだっ、何!」

「頭っ、頭にほらっ!」

「取ってよ!」

「いいから窓閉めて、早くっ!」

 

 途中でばたんと窓が閉じられたのでその後どうなったのかは分からない。

 何事もなかったかのように改めて顔を寄せてきたチップを、キャットは目を開けたまま至近距離で見上げた。

「フライディ、何投げたの?」

「僕が?」

 堂々としらばっくれる恋人を目の前にして、キャットは思わず溜息をついた。

「今頃誰かがショックで倒れてるかもよ」

「夏のパーティは虫が多いんだ。不可抗力だよ。飛び込んできたのがコガネムシならまだましな方さ」

「うそつき」

「うそつきが『僕はうそつきだ』って言ったらその言葉は本当だと思う? 嘘だと思う?」

 嬉しそうに絡んでくるチップと哲学的な会話や、ましてやキスを交わす気にはとてもなれず、キャットはもういちど溜息をついてから肩に回されたチップの腕をするりと抜け出し、室内へ戻ろうときびすを返した。

 すぐに追いついたチップがテラスのドアを開け、自然な仕草でキャットに手を差し伸べた。

 

 二人に気付いた人々は王子と恋人を微笑ましく、またはうらやましく見守ったが、王子の手を取った恋人が目を伏せたのが、恥じらいからではなく諦めからであることまでは読み取れなかった。

(どうして私、キスの途中でコガネムシ投げるような人のこと好きになっちゃったんだろう)

 キャットの言葉にならない嘆きは、誰にも伝わらなかった。

 

 帰りの車で、キャットはチップが前を向いているのをいいことに恋人の横顔をじっくりと眺めてみた。

 

 盛装しているチップは素敵だった。

 とびきりのハンサムというわけではないけど、立ち居振舞いが優雅で自然だし、なにより自信に溢れている。エスコートも完璧で紳士の鑑、まさに理想の恋人の名にふさわしい。

 もっとも中身の方は紳士の鑑とはとても言いがたい。

 何よりもまずうそつきだし、ふざけて欲しくない時には必ずふざけるし、子どもっぽいいたずらが好きだし、精神年齢では自分より下なんじゃないかと思う時さえある。でもチップが誰よりも優しく勇敢で思索的で情熱的であることもキャットはよく知っている。

 その全て──時に矛盾する性質のどれが欠けても彼は彼でなくなってしまう。

 チップのこの複雑さはキャットにはない。だからこそキャットは彼に惹かれるのかもしれない。


 結局のところキャットはチップの全てを愛していて……時々はコガネムシを投げるのにも我慢しなくてはいけないのだ。

 

 運命的な出会いではあったけれど、出会った瞬間に恋に落ちたわけではなかった。

 キャットは悲鳴を上げて逃げ出したし、チップはチップでキャットを死体モドキと呼んでいたらしい。それだけではない。自分からキスしておきながらキャットをキスも返せない子どもとまで言った──よみがえったあの時の悔しさと悲しさを静めようと、キャットは胸を押さえた。


 あの時のことを思い出すと今でも心が波立つが、確かにチップが言うとおりだったことも今のキャットは知っている。

 キャットは子どもだった。あの時のキスはキスとも言えないものだった。ただほんのちょっと唇が触れただけ。ただのキス。

 キャットがほんのちょっぴりロマンティックな気分になって楽しめていたら、あんなに大騒ぎしないで済んだ。


 あの時にちゃんとしたキスができたら、あの後チップはキャットのことを大人として扱ってくれたのだろうか。怒ったり怒鳴ったりしないで、もっと優しくして、ちゃんと女性としてみてくれたんだろうか……。

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