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パウダールームにて(グロリアのお話)

メルシエ王国の令嬢グロリア視点のお話。一話完結。

 鏡の中から完璧な笑顔が見返した。


 この日のために毎日贅沢なパックを奢った肌は思わずその手触りを確かめたくなるほどにやわらかく輝き、アイラインも一ミリの狂いもなく引かれていた。今日のパーティーで一番輝いているのは間違いなく私。

 

 の筈だった。

 鏡の笑顔が歪んだ。


 私は鏡に向かって手に持ったルージュを投げた。

「なんであんな子」

 チークを投げた。

「いかり肩だし」

 ファンデーションを投げた。

「ぜんぜん綺麗じゃないし」

 マスカラを投げた。

「どんな手使ったのよあの泥棒猫っ!!」

 最後はブラシを投げた。


 こんな鏡割れてしまえばいい。

 鏡を割ると良くないことが起きるっていうけど、今以上に不幸になることなんてあるわけない。

 

「うるさいっ!」

 勢いをつけてパウダールームのドアが開き、私は息を呑んだ。

 そこに肩を怒らせてすっくと立つシルエットは、さっきあの方の隣で見かけたのと同じものだった。

「泥棒猫っ!」

「誰が泥棒猫よっ!」

「あなたよっ!」

 本当ならあのルージュもチークもぶつけたかった先は鏡じゃなくてこっちだ。

 でももう小さなパーティーバッグの中は空っぽだ。言葉しか投げるものがない。

 

「何言ってるのか全然分からない」

 人を馬鹿にするように顎を突き出し、泥棒猫はかちんとくる言い方で人をあおった。

 

「あなたじゃ納得できないっ!」

 ひとことで言えばそういうことだった。

 

 チャールズ殿下は私の王子様だった。

 小さい頃は顔をあわせればいつも何か一言かけたり頭を撫でて下さった。

 子どもの頃に一度だけ、いとこの結婚披露パーティーでワルツを踊って頂いたこともある。

 その夜から寝る前の祈りには『私が大人になるまであの方が他の人と結婚しませんように』という願いが加わった。

 

 でも私が年頃になるのを待たずにあの方の隣にはいつも誰かが寄り添うようになった。

 私はその誰かが定まらないことに安心しつつも自分が幼なすぎることが口惜しくてたまらず、早くあの方にふさわしい歳になりたかった。

 そんな密やかで熱烈でしかも長かった恋はある日の父の一言で突然終わった。

 『チャールズ殿下はエリザベス殿下と婚約されることになったそうだ』

 ショックのあまり、今まで拒んでいたスイスのフィニッシングスクールへの留学を受け入れたものの、心の底には苦い澱が残った……なぜ一度も思いを告げなかったのかと。

 

 フィニッシングスクールで自分を磨きながらひとつの計画を立てた。

 帰国して社交界にデビューしたその時、もう一度あの方に踊って頂こう。一度でいいからあの方に私だけをみつめて頂こう。


 もちろん私ではエリザベス殿下の高貴な美しさに遠く及ばないし、二人の間に割り込めるとも思えなかったけれど、それでも日々のたゆまぬ努力は惜しまなかった。あの方の隣に少しでもふさわしくなれるようにと。


 私の努力はある程度まで報われた。


 小さい頃から私を知っていた筈の男性達が皆、今日のパーティーで私に注目し、競うようにダンスに誘ってきた。──目標にしていたただ一人を除いて。

 そして何故かその方の隣にはエリザベス殿下ではなく、不機嫌な顔をしたいかり肩の見知らぬ小娘がいた。

 

「私はエリザベス殿下だからあきらめたのよっ! それがどうしてエリザベス殿下はあの不器用なエドワード殿下にエスコートされてるのっ? なんでチャールズ殿下の隣があなたなのっ!? パン屋の娘のくせにっ、私より年下でチビでそのうえぜんぜん綺麗じゃないくせにっ、外国人のくせにっ!」


 自分でも暴言を吐いているという自覚はあった、が、嫌な言葉が次々と口から零れた。

 もっとひどいことを言って彼女を傷つけたかった。私の心の傷と同じくらいの傷が彼女の心に残ればいい。

 

「言いたいことはそれだけ?」

 硬い声で彼女が言った。


 何か白いものが目の前に飛んできた。

 とっさに悲鳴をあげそれを手で払った。


「確かにパン屋の娘だし年下だしチビだし全然綺麗じゃない外国人だけど、あなたに泥棒猫とか言われる筋合いはないからっ! そんなにパン屋が気に入らないならパン食べるなっ!」

「パンなんか食べなくたって困らないわよっ!」

「自分が勝手にあきらめたんでしょっ! 私の家族とエドにまでやつあたりしないでっ! 今すぐ謝るか手袋を拾いなさいっ!」


 そう言って泥棒猫が私を(にら)みつけた。

 さっき飛んできた白いものは手袋だったらしい。


 怒りで目の前が真っ赤になった。

「あなたなんかに命令される筋合いないわよ! 決闘なんて受けるわけないでしょ! いつの時代だと思ってるのよっ、馬鹿じゃないのっ!」

「私が馬鹿なら謝罪も決闘も受けないあなたは卑怯者よっ!」

 

 突然、場違いなくすくす笑いが聞こえた。

 

「どうして君はそうやって片っ端からケンカを買って歩くんだよ」


 泥棒猫の後ろから──ああ、何てこと。

 

 私の王子様が現れた。

 

「今日はまだ殴られてない? 誰も殴ってない?」

 笑いながらチャールズ殿下が泥棒猫の頬に手を添えた。

 泥棒猫は嬉しそうな顔もせず殿下をにらみ上げた。

「何しに来たの。ここは女性用」

「なかなか戻ってこないから合わない靴のせいで歩けなくなったんじゃないかと心配になったんだよ。来てよかった。──やあグロリア、久しぶり。スイスの学校に行ってたんだってね。あんまり綺麗で見違えたよ」

 後半は私に向かって、泥棒猫の頬に手を添えたままで殿下が話しかけて下さった。


 それは私が言って欲しかった言葉と一字一句違わなかったのに……私が夢見ていた光景とは大きく違っていた。

 

 本当ならパーティーの席で周囲に群がる人波を二つに割ってこの方が現れ、私を誘う筈だった。

 

「こちらの『女性』は『僕の歴代の彼女』の一人?」

 皮肉っぽい言い方で訊いた泥棒猫に、殿下は愛想よく答えた。

「残念だけどグロリアとは縁がなくてね。彼女のお父さんにゴルフで負けて『娘達には手を出すな』って約束させられてるんだ」

「えっ?」


 横から話に口を出すのが失礼だとは分かっていたけれど、思わず声を上げてしまった。


「何のお話ですか?」

「君のお父さんはほら、在野の歴史研究者として活躍されているだろう? 僕のご先祖達の王権の正当性に疑義を唱えている立場上、王子の一人と娘を交際させるわけにはいかないって。……自分がゴルフをするのは構わないらしいんだけどね」


 私の計画を頓挫させたのは目の前に立ちふさがる泥棒猫ではなく、知らない間に後ろでドレスの裾を踏んだ父の存在だった。

 そう知ったとたんに眩暈がした。


 確かに私は密かな恋を誰にも話していなかったけど……どうしてもっと前に教えてくれなかったの、お父様。

 

「チャールズ殿下」

「何でしょうか、グロリア嬢」

「もし父との約束がなかったら、私と……私のことを……」

「魅力的な女性だと思うよ。小さい頃から綺麗になるだろうと思ってたけど、やっぱり思ったとおりだった」

 優しくそう仰る殿下の微笑みが、最後に残っていた希望の火を消した。


 殿下のお言葉は社交辞令ではない、真実の響きがあった。

 そしてそこに私を欲しいと思う気持ちはなかった。

 

 私の失恋を彩るように、切ないバックミュージックが開いたドアから流れ込んできた。

 甘く切ないその曲は、本当なら殿下の腕の中で聞きたかった。

 じわりと目に涙が浮かんだ。

 

「二人で踊ってきたら?」

 泥棒猫がつまらなそうな口調で思いがけないことを言った。

「君は踊ってくれないの?」

 からかうように仰った殿下に、眉を上げた泥棒猫が答えた。

「靴ずれでもう一歩も歩けない。それに手袋なしで踊るわけにはいかないでしょ」

 そういって裸の左手で差し示した手袋──さっき私に投げつけられ私が手で払ったもの──は、零れたチークが作ったピンクの小山の上に狙ったように着地していた。

 殿下が礼儀に適わない笑い声を立てた。

「次に決闘を申し込む時には予備の手袋を持って来いよ」

 そこで表情を改めた殿下が私に向き直って手を差し出してこう仰った。

 

「僕と一曲踊って頂けませんか、グロリア?」

 

 ダンスの後で戻ったパウダールームで、彼女は私の謝罪を受け入れて臆病者の言葉を取り消してくれた。

 殿下に横抱きにされた時の恥ずかしそうな笑顔は、さっきの不機嫌な顔よりはずいぶんとましに見えた。

 私はそのままパウダールームで二人を見送った。

 

 次にお会いした時に殿下から伺ったお話によると、あの後で殿下から彼女に新しい手袋を一グロス贈って突き返されたらしい。


 だから僕がキャットの予備の手袋を持ち歩くことにしたよ、念のため二組、ととても楽しそうに話す殿下のお顔を拝見しながら、もしかすると殿下の恋人役は、私は論外としてもエリザベス殿下にも……すこぅしばかり荷が重いかもしれない……と今更ながら気がついた。

 そしてほんの少し彼女のことを見直した。

 

end.(2010/02/13)

明日も一話完結のお話です。

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