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今日よりいい日 1

「フライディと私」の頃のキャット両親のお話。全2話です。


※更新予約の日付を間違えていて7時にアップできませんでした、ごめんなさい。

 キャットが戻ってきてからしばらくして、キャットとリーの二人で夕食を作る習慣ができた。

 リーが遅くなる日は通いの家政婦と一緒に、キャットができるところまで準備をしてくれる。


 その日もキャットと一緒に食事の支度をしていたリーは、隣に立つ娘に声をかけようとし、ラジオのニュースに気を取られた娘の手が止まっているのに気付いた。

 ほんの数分の短いニュースが終わり、再び放送は元の音楽プログラムへ戻った。

 隣国の王室に関係したニュースは今日もなかった。

 娘は何事もなかったかのようにまたサラダを混ぜはじめた。


 リーは下ごしらえの済んだ肉を自分の憤りと一緒にオーブンへ収め、音高く扉を閉めた。


 『あれ』がもっとふさわしく振舞っていれば、きっとこんなことにはならなかったのだ。


 和やかな夕食が終わり、夫婦の寝室に入ってすぐに夫のジャックがリーに訊いた。

「リー、今日はどうだった?」


 二人はベーカーズというベーカリーを営んでいる。

 最初はジャックが友人とはじめた小さな店だったが、リーが手練手管を使って共同経営者に納まってから店は発展を続け、今では名の知られるベーカリーになっていた。

 店から企業になり従業員が増えてからも、小さな店だった頃と同じようにジャックは工房で、リーは事務所でこのベーカーズを守ってきた。


 しかし娘が帰ってきてからの数ヶ月、リーは店の仕事を他のスタッフに任せたり家に持ち帰り、できるだけ娘を一人にしないようにしていた。

 ジャックの方は工房を持ち帰るわけにはいかなかったものの、娘を案じる気持ちは夫婦とも変わらなかった。


「いつも通りよ。キャットは相変わらず学校からまっすぐ帰ってきて食事の支度を手伝ってくれて、ニュースのたびに耳を澄ませていたわ」

「そうか」

 短い返事に夫の気持ちを察したリーが、そっと寄り添った。

 ジャックの方もリーの肩を抱いて言った。

「大丈夫。またそのうち今日よりいい日が回ってくる」


 ジャックはずっとそう言ってきた。

 店がもう立ち行かないだろうという日の夜も、娘が行方不明だと知らされた夜も。

 そしてその通り、すぐ明日とはいかなくてもいつか必ず今日よりいい日がやってくる。

 だからリーは今回もジャックが言うとおりになることを疑わない。


 キャットが行方不明になった時に二人が絶望しきらなかったのは、ジャックのこの信念と……習慣の力のおかげだった。キャットが行方不明になったのは、漂流が最初ではなかったのだ。


 最初は三歳の時、ナニーに連れられて遊びに行った公園でいなくなった。

 ナニーは必死にキャットの名前を呼び続けたが、生憎と周囲には迷子の猫を探し回っているとしか思われなかった。その頃のキャットの愛称がキャット(猫)またはキトゥン(子猫)だったから無理もない。

 それでも親切な誰かが一緒に近くの茂みを捜してくれて、猫ならぬキャットが二匹の子猫と一緒に茂みの中にいるのを見つけて腰を抜かしそうになった。


 二人が帰宅して事件を知ったリーは娘を厳しく叱った。

 どうして一人でいなくなったのかと訊かれたキャットは、子猫が見たかったのにナニーは汚くて嫌だと言ったからと答えた。

 リーを見上げたキャットの目はさらに雄弁だった。

 分かってもらえないのなら仕方がないが、ともかく自分はやりたいことができて満足だ、と。

 ──顔立ちで言えば母親似のはずなのに、その目つきは父親のジャックに恐ろしく似ていた。


 その時にリーが予感したとおり、キャットはそれからもたびたび行方不明騒ぎを起こした。

 たいていはごくつまらない理由、つまり帰り道に新しくできたお菓子屋さんの店のひさしが緑だったか青だったか確かめに行こうとしたとか、ツバメの巣を直すために泥を集めていたとかそういったものだったが、捜す方には何故いなくなるのか本人を見つけて問いただすまで分からない。キャットの方は何故いつも叱られるのかが分からない。


 例えばこうだ。


「だって暗くなったら緑か青か分からなくなっちゃうから、早く見に行かなくちゃいけなかったんだもの」

「もうすぐ暗くなる時間に子どもが一人で外に出てはいけないの」

「大人はいいのにどうして子どもはいけないの?」

「子どもは小さくて、車を運転する人から見えないからよ」

「ふうん、知らなかった」


 あるいはこんな風だった。


「早くツバメの巣を直してあげなくちゃいけないと思ったの」

「人が泥を塗っても巣は直せないのよ。ツバメは自分で巣を修理するの」

「でももしかしたら、泥がなくて直せないのかもしれないよ」


 どうしてこの娘は家でおとなしく過ごせないのかと、リーは何度思ったか分からない。本人にも何度も言った。

 しかしジャックと同じ目をした娘が、ナニーや母親に叱られたくらいで自分の決心を鈍らせることはない。何かが起こるたびに後手後手で何かを禁止するルールが増えていったが、キャットの行動はいつもその上をいった。

 リーはキャットを産んだ時、ジャックを子育てに参加させるつもりではなかった。パンと店のこと以外でジャックを煩わせてはいけないと思っていたからだ。しかしとうとうある日、ジャックは自分の家で何が起きているのかに気付いた。


 ジャックはキャットと二人だけでしばらく話をした。やがてリーを部屋に呼び戻し、二人に向かって言った。

「今までのルールは一度リセットしよう。キャット、お前はやりたいことをしていい。ただし、最後には説明しなくてはいけなのだから、後からではなく先にやりたいことを言いなさい。できるかどうか、危険なことならより安全な方法がないか、私達が一緒に考える。そうやっていくうちにお前も私達も、お互いの考えを理解できるだろう。それでどうだろう、リー」

「あなたがおっしゃるとおりにするわ、ジャック」

 最後にジャックがリーに指示したとおりナニーを替えると、キャットの脱走はぴたりと収まった。

 そのかわり新しいナニーとリーはキャットの小さな頭から次々と繰り出される『やりたいこと』の説得に、多くの言葉と時間を費やすことになった。


 そんな二人の報われない努力の結果として、キャットはジャックに相談した方が何事もより簡単だと学習した。


 ──キャットが甘やかされて育ったと思っていた人々は、キャットが遭難した時に高校生をダイビングツアーに行かせたりしたからだとジャック達を非難した。


 ここぞとばかりに今までの教育方針について批判する人々の得意げな顔つきにリーは吐き気すら覚えた。

 彼らにとってはキャットの消息や両親の心痛よりも、自分の考えが正しかったと主張することの方が重要なのだ。むしろこんな事故を願っていたかのようだった。


 大きな不幸にはほんの少しいいこともある。例えば誰が本当に信頼できるか知ることができる。

 リーは皮肉っぽくそう考えながら心を閉じて彼らをやりすごしたが、誰が何を言ったかは死ぬまで忘れずにいるつもりだ。


 ある晩、何かの気配に目を覚ましたリーは、窓際に立ちこちらに背中を向けたジャックを見つけた。

 リーは無言で起き上がってジャックの背中を抱いた。

「リー、私は間違っていたと思うか?」

「いいえ、ジャック。何事もなくいつも通る道だけを往復していても、」

 リーは一度そこで言葉を切り、また続けた。

「不運に見舞われることはあるわ。いつもあなたがそう言っているじゃない」

「ああ、そうだね。リー。ただ──」

 リーが回した腕に力を込めたのに気付き、ジャックは続きを言わなかった。


 またある晩、ジャックの寝顔を見ていたリーは、ぱちんと目を開けたジャックの手に頬を包まれた。

「何を考えていた?」

「あなたに……家族を持たせてしまって良かったのかしらって」

「君もキャットも、素晴らしい贈り物だよ」

「ありがとう、ジャック」

「もうおやすみ、リー」


 そうやって二人は一番深い闇を乗り越えてきた。


 リーの信頼は裏切られなかった。

 ジャックが言ったとおり、いい日はちゃんと回ってきた。


 それからほどなく警察から電話があったのだ。お嬢さんが見つかりました、と。


 ジャックとリーは店のスタッフに運転は危ないと止められ、タクシーで病院に駆けつけた。

 カーラジオから流れるニュースは身元不詳の男性とキャサリン・ベーカーさんが救助されたと報道し、すぐに慌てた声で未確認情報として身元不詳の男性は数ヶ月前に行方不明になった隣国の王子らしいと続けた。

「ジャック」

 思わず名前を呼んだリーの手を、ジャックが無言で握った。


 病院に着くと警官がキャットの病室に二人を案内した。

 リーはたまらず訊いた。

「娘は無事なんですね」

「健康状態はおおむね良好です。発見された時は同じく遭難者の男性と一緒でしたが」

 そこで警官は言いよどんだ。

「本当にチャールズ王子だったんですか」

「現在確認中です」

 そこで三人は病室に着き、警官がドアの前に立つ別の警官に声をかけてからドアを開けた。

 ベッドに体を起こした検査着姿の少女が顔を上げた。


「お父さん、お母さん」

 二人は呼びかけに答える前に真っ黒に日焼けしたキャットを抱きしめた。

 リーはこみ上げる思いを声にできなかった。ジャックはもう何年も使っていなかった古い愛称で娘を呼んだ。

「おかえり、キトゥン」

 三人が確かにこれが現実だと納得して、やっと話を始めようとしたその時に、ダークスーツ姿の隣国大使館員が現れた。


 今後の対応についてよどみなく告げる姿は、こんなことはよくあることで自分はエキスパートだとでもいわんばかりだった。

 彼は明らかにその場の主導権を握ろうとしていた。できれば両親がショック状態のうちに全てを決めてしまおうという考えが透けてみえた。


 リーが息を吸って痛烈な言葉を返そうとした時、ジャックが先に口を開いた。

「ご親切なお申し出に感謝します。のちほど検討しますので連絡先を置いて、もうしばらく家族だけにしてもらえませんか」

 それはジャックが商談を持ちかけられた時にいつも使う断りの文句だった。


 気を悪くした様子もみせずに男が病室を出ていくと、ジャックがリーに言った。

「彼は仕事でやっているんだから」

「……ええ、そうね。ごめんなさい、ジャック」

 いつものやりとりを耳にしたキャットがくすくすと笑い出した。

「ああ、本当に帰ってきたんだ」

 くすくす笑いはすすり泣きに変わり、やがてキャットは声を上げて泣き出した。

「帰りたい。早く家に帰りたい」

「すぐ帰れるわよ。あなたが家に帰りたがって泣くなんておかしいわね。いつもは『まだ帰りたくない』って泣くのに」

「『いつも』って、いつの話よ。うんと小さい時でしょ」

「あら、一昨年のバカンスでも最後の日に泣いてたじゃない」

「お母さん、そんなこと覚えてないでよ」

「誰が最初に『いつの話よ』って言ったんだったかしら。私じゃないことは確かだけど」


 リーはもっと違う迎え方をするつもりだった。

 自分にとってもジャックにとっても、キャットがどんなに大切な娘か、戻ってきてどんなに嬉しいか告げるつもりだった。

 しかし習慣というものはおいそれとは変えられないらしい。

 そういう話は後でゆっくりしよう。リーはそう思いながら幼子のように泣く娘を抱いた。

 

 ずいぶんと長い時間が過ぎたように思ったが、きっとそれほどは経っていなかったのだろう。

 ドアのすりガラスに影が見えたと思ったら今度は白衣を着た看護師が入ってきた。


「これからいくつかの検査を行います。まず過去の病歴を確認させて頂きます。出生時に異常は?」

「いいえ」

「今までに次に挙げる病気をしたことはありますか?」

 それに続く看護師からの質問には主にリーが答えた。最後に看護師は無言で問診票をキャットだけに見えるように差し出した。

 とたんにキャットが火のように怒り出した。

「いいえっ! なんでそんなこと訊かれるんですかっ!」


 リーには何が書いてあったのか見当がついていた。

「キャット、やめなさい。誰にでも訊くことになってるの」

 健康で病院に縁のなかったキャットにはショックが大きかったようだが、ある年齢以上の女性であれば必ず訊かれる質問だ。

 看護師なりに、母親の前で答えにくいだろうと気を使ってくれたのだ。


「簡単に検査できますが」

 事務的に告げた看護師に向かって、リーが答えた。

「私の娘がいいえと言ったらそれはいいえの意味よ。必要ありません」


 いくつかの検査の結果、キャットは栄養失調気味ではあるものの血液検査の数値は許容範囲内だし感染病などの罹患は認められないとわかった。

 健康な十六歳の身体は、食事を摂るようになればすぐに快復するだろう、おそらく心の快復の方が時間がかかるが、そちらも家族の支援と適切なカウンセリングがあればそう長くひきずることはないだろうというのが医師の所見だった。

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