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Venerdi 2

 その日の講義が終わってから、キャットは一緒に過ごせなかった週末の埋め合わせにチップの家を訪れた。

 王宮を囲む錬鉄製の柵に設けられた通用門で門番に名前を言って、迎えに来たチップに宮殿までエスコートしてもらうという一連の手続きを『家を訪れた』という言葉で言い表すのにはやや語弊(ごへい)があるが、チップにとってここが家であることは間違いない。


 キャットはまずフィレンザからの伝言をチップに伝えた。

「フィレンザが昨夜のこと『本当にありがとう』って言ってたよ」

 フィレンザには『知り合い』がチップであることは伝えていなかったから、本人同士が昼間会っていたのにこういうおかしな伝言になってしまったがやむをえない。


 キャットをいつものように膝に座らせてチップが言った。

「君のルームメイトってドンナ・フィレンザだったんだね」

「うん。フライディと知り合いだったんだね」

「連れが彼女の顔を知ってたんだ。僕は言われなければ気付かなかった。知り合いって言っても彼女がまだ小さい頃、ご両親と一緒の時に一度挨拶しただけだから」

 パーティーのたびにどれほどの人数に挨拶をされるか見たことがあるキャットから言わせてもらえば、一度挨拶をした程度の知り合いを思い出せるだけで充分凄いと思えた。

「急に無理頼んでごめんね。でもフィレンザがフライディの知り合いで良かった」

「相手が誰だろうと君の頼みならいつでも力になるよ。君に僕のことをもっと好きになって欲しいからね。僕ってすごく健気(けなげ)だろ?」

「私、もう充分フライディのこと好きだと思うよ」

 ふざけた問いかけに素直に答えた恋人に、チップはにっこりと微笑み返した。

「僕は君が思うより欲深(よくぶか)なんだよ、ロビン。本当はドンナ・フィレンザにも妬いてる。僕も君の焼いたパンが食べたい」

 キャットは一瞬驚いた顔をして、すぐ笑い出した。

「君が僕のために焼いたパンを食べたいんだ」

 チップがだだをこねる子どものように言い張ったので、キャットがこれも子どもをなだめる大人のように答えた。

「じゃあ今度いつかね」

「いつか毎朝焼いてくれる?」

「いつかね」

「……君は僕のあしらいが上手くなったな」

 チップの不満げな顔を見たキャットは声を立てて笑い出したが、すぐにキスで口を塞がれ、笑い声は吐息へと変わった。


 キャットがフィレンザの家に招待されたことを話すと、チップが口笛を吹いた。

「ラッキーガール、あのパラッツォに泊まりたいって人達が何年も先の予約をしてその日を楽しみに待ってるって知ってる?」

「フィレンザの家ってホテルなの?」

 キャットが首を傾げたのを見て、チップが言い足した。

「その様子じゃ聞いてないみたいだね。統一国家になる前にあった公国の一つを治めていた一族の直系だよ、彼女。一部を開放して一般客を泊めてるけど、彼女の家族もまだ宮殿(パラッツォ)に住んでるよ」

 キャットは、フィレンザから出自については聞いたことがなかった。でもそれを聞いてチップと面識があったことやこの一ヶ月の共同生活であったささいな出来事が色々と繋がった。


 なるほどと思いつつ、口に出しては違うことを言った。

「そっかぁ。やっぱりイタリア語勉強していった方がいいかなぁ」

「それは喜ばれるだろうけど、あそこの方言は標準からはけっこう離れているからなぁ。僕も聞き取るのに苦労したよ」

 そう言ったチップが珍しく王子様らしい顔をしたので、キャットはその頬をつまんでみた。

 チップがすぐに手を伸ばしてキャットの頬をつまみ返そうとしたのでしばらく二人でつまみ合いになり、主にお返しの回数について低次元で争った。

 ようやくお互いに気が済んだところで、キャットがさりげなく言った。


「フライディ、イタリア語もできるんだね」

「そうだよ。イタリア語で口説いてほしい?」

 そう言ってチップが逃げるキャットを抱き寄せて、耳に吐息の触れる距離でイタリア語を滔々(とうとう)と注ぎ込んだのでキャットが笑い出した。

「やめてやめて、くすぐったいー。それに意味わかんないからー」

「言葉が分からなくても気持ちは伝わるだろ。君はただ Si.(はい)って答えればいいんだよ」

「もうやーだ。Non.(だめ)」

「……本当は意味分かってるんじゃないのか?」

「いったい何て口説いてたのよ、もう」

 いつまででもこのままじゃれあって過ごせそうだったが、キャットが時計に視線をやった。

「あ、もう帰らなきゃ」

 チップがわざとらしく溜息をついた。

「君がその気になってくれさえしたら、一日中でもイタリア語の個人教授をしてあげるんだけどな」

「やだ。フライディはスパルタだから」

 チップが大げさに胸を押さえイタリア語で何か叫んで倒れたが、キャットは笑いながらチップを見捨てて立ち上がった。


 寮までチップに送ってもらったキャットは、フィレンザの待つ部屋へ戻った。

「ただいま。昼間はお先に失礼しちゃってごめんね」

「こちらこそあなただけ仲間はずれにしちゃってごめんなさいね。それにキャットがチャールズ殿下が好きだって言ってたの、すっかり忘れてて。私もまさか殿下が私のことを覚えているなんて思わなかったから、驚いて紹介を忘れてたわ」

 フィレンザは申し訳なさそうにそう言ったが、フィレンザからチップに紹介される場面を想像したキャットは噴き出した。

「いいのよ、好きって言ってもそういうんじゃないから。この葉書がおかしくて気に入ってるだけだよ」

 そう言って壁に貼った王子達の絵葉書を指してまた笑った。

 チップがいかにも王子様らしいわざとらしい微笑みを浮かべてふざけた台詞を言わされているこの葉書が、今のキャットのお気に入りだった。

「それに私はイタリア語が分からないから。でもフィレンザのお家に伺うまでには、挨拶くらいは覚えていくからね。フィレンザ、私に教えてくれる?」

 キャットがそう言うとフィレンザが嬉しそうに頷いた。

「もちろん。キャットはイタリア語だとGattaね」

「じゃあ金曜日は?」

「Venerdi」

 ヴェネルディ、と小さく口にしてみてキャットは一人で微笑んだ。が、続くフィレンザの言葉に驚いた。

「そういえば子どもに『金曜日』って名前をつけようとした人がいてニュースになってたわ。結局受理されなかったそうだけど」

「そうなの? どうして?」

「ほら、『ロビンソン・クルーソー』に出てくるでしょ。あんまりいいイメージがないから」

 キャットはちょっとおかしい位に笑い転げたが、フィレンザには理由を説明できなかった。


「キャットが帰ってからあのパンの話をしたら、殿下がキャットのことを聖母みたいに優しいって言ってたわ」

 フィレンザが思い出したようにそんなことを言ったので、キャットは真っ赤になった。


 今ここでチップとの関係を告白してしまおうか。

 ここで告白をしてしまえばもうおかしな伝言ゲームもしなくて済むし、後になればなるほど告白は難しくなるだろう。


「あのねっ……」

「キャットは何でもないことみたいに言ったけど、私は本当に嬉しかったのよ。本当に思いやりがあって優しい人って自分ではそれが当たり前で気付かないのね。あなたと友達になれて嬉しいわ、キャット」

 そう言ったフィレンザがまた目を潤ませてキャットを抱きしめたので、キャットはとうとう真実を告げることができなかった。


 友達を騙すようで気がとがめる。

 でもフィレンザ自身もまだ出自についてキャットに話していなかった。

 自分はたまたま聞いてしまったけど、家にパンを食べに来てと誘われてそこが宮殿だと思う人はいないんじゃないだろうか、だからこそフィレンザも言い出しにくいのだろうか。

 ……そんな風に考えをめぐらせた挙句、キャットはフィレンザが自分から家の話をするまで自分ももう少しだけ言わずにいることにした。


(嘘までつくつもりはないから聞かれたらもちろん話すけど。フライディと付き合ってるって話すと漂流の話もしなくてはいけないし、ローズ達に話した時はすごく同情してくれたけどずいぶんショックを与えて泣かせてしまったし、ずいぶん気も遣わせてしまったから、フィレンザにはいつかまたタイミングを見計らって話すことにしよう。それに私が告白をすると、フィレンザがまだ私に言いたくないことを、お返しに言わなくちゃいけないような気にさせてしまうかもしれないし。

 いつかフライディについて話す時にはちゃんと名前の由来も説明して、ヴェネルディという名前についてあんなに笑ったわけも説明する、でももうちょっとだけこのまま、過去や出自と関係ない穏やかな日々を送りたい……)


 これがある意味でごまかしであることは自分でも分かっていたが、お互いに口にしにくい何かをかかえてこの場所で出会い、ささいな問題──例えば寮の洗濯機は二番が一番より時間がかかるとか、今日の夕食はおかずが少なすぎるとか──そんな話だけをしながら共に暮らす日常は、キャットにまるで修道院にいるような心の平安をもたらしてくれた。そういう時キャットは留学して良かったと心から思えた。

 お互いについてもっとよく知ることでフィレンザとの関係がもっと良い方向に向かうのだとしても、今が快適な分だけ変化は怖かった。


 やがて提出したレポートがA評価で返ってきたとフィレンザがキャットに報告をし、キャットはそれをまたチップに伝えた。

 フィレンザは相変わらず同じ講義をとる男の子達とは親しくなれないらしい。

 フィレンザが口ごもる様子から想像すると、どうも先方が過剰に親しくなりたがることが一番の原因らしかった。


 寮に送ってもらう車中でキャットがそんな風にフィレンザの話をしたら、チップが笑った。

「まあ分からなくもないけどね。彼女が同じクラスにいたらクラスメイトは勉強に集中できないだろうな。でも本当は彼女のレポートにはイタリア語を直訳したみたいな文章が結構あったから、これからも誰かに添削してもらった方がいいと思うんだけど。できれば専門の内容までアドバイスできる人を紹介してあげたいけど、僕が彼女にいきなりレポートの話をすると唐突すぎて不自然だしなあ」

「この前フライディのことフィレンザに言おうとしたんだけど、タイミングが悪くて……」


 申し訳なさそうなキャットにチップが言った。

「君の『知り合い』の正体を明かさずに済む方法を何か考えてみるよ。首尾よくいったらご褒美にキスしてくれる? 前払いでもいいよ」

 そう言って頬を差し出したチップがあんまり殊勝にみえたので、キャットはきまぐれを起こして頬の代わりに唇にキスをした。

 キスに応える暇もなく元の位置に戻ってしまったキャットを横目で見て、チップが溜息をついた。

「君はまたそうやって僕を翻弄する。もし僕がここでキスしていい? って聞いたら絶対に駄目って言うくせに。……ねえ、キスしていい?」

「絶対に駄目」

 キスをしようとするチップとされまいとするキャットが、運転席と助手席で可能な限りの攻防戦を笑いながら繰り広げた。

 本音はお互いに離れがたくてぐずぐずしていただけだったが、さすがに時間がなくなってきたので最後は仲直りに軽いキスをしてからキャットが車を降りた。


 車の中とはいえ寮からワンブロックしか離れていない場所でチップとこんな風にふざけあうなんて今までなかったことだった。

 誰に見られるか分からないのに。


(私、もしかしてフィレンザのことでちょっとやきもちやいてるの?)


 寮の前まできたところで不意に自分の気持ちに気がついたキャットは、一人で恥じ入って真っ赤になった。


 チップは親切で言っていたのだし、理由も『君に僕のことをもっと好きになって欲しいから』と言っていたじゃないか、自分以外の相手に親切にしないで欲しいと思うなんて私は何て心が狭いんだろう、キャットはそう反省した。


 ──しかし、なかなか頭で思うように心は動いてくれなかった。

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