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チップとキャット 2

「行っちゃった」

 キャットが少し寂しそうに、でも思いがけず恋人に会えた嬉しさで少し赤くなってそう言った。やはり少し赤いベスがキャットににっこり笑って言った。

「チップも楽しみにしてることだし、うーんと綺麗にして行きましょうね」


 夕方エドとベンが迎えに来た時には、キャットはいつもの小鹿のような元気あふれる様子から一変して、開きかけた蕾のような初々しい淑女に変身していた。


 ローティーンだった頃のベスが着ていた濃いすみれ色で膝丈のドレスは、ごちゃごちゃと飾りのないデザインに布本来のつやが映え、ダークスーツの企業関係者が集まるパーティにふさわしい落ち着きと、場違いにみえない華やぎの両方をキャットに与えていた。

 髪をアップにしたことで現れた細いうなじと可愛らしい耳に、若さ以外の装飾品はなかった。

 これはベスの手持ちを勧められたキャットが固辞した結果でもあるが、このままで十分に可愛らしいという、ベスと支度を手伝ってくれたメイドのお墨付きも得ていた。うなじや耳を飾ることで、このドレスのミニマルな魅力を打ち消す心配があったのだ。


 完成されたキャットの淑やかな姿は、今夜のパートナー、エドのお眼鏡に適ったようだった。

「わぁ、キャット、可愛くしてもらったね。チップは君をエスコートできなくて悔しがるだろうな。ざまあみろ。僕にうーんと甘えていいからね。せっかくだからできるだけチップを悔しがらせてやろうよ」

 エドはそんな風にまず言葉を尽くしてキャットを誉め、それからようやくベスに向き直った。

 こちらは逆に短い言葉だったが、声にこもった気持ちが足りない言葉を補って充分に埋め合わせをしていた。

「エリザベス、本当に綺麗だ」

「ありがとう。皆もそう思ってくれるといいんだけど」

「もちろんだよ。ベンもそう思うだろう?」

「そうだな」

 ベンの一言でさっと赤くなったベスを見て、エドは少し面白くなさそうな顔をしたが、その後で恋人が自分を見て恥ずかしそうに微笑んだので機嫌を直した。

 そこへキャットが横槍を突き入れた。

「ねえエド。どうして私は『可愛くしてもらった』でベスは『本当に綺麗』なの?」

「あまり欲張るなよ。君の出番はもう少し後でちゃんとあるよ。きっとチップなら、エリザベスなんか目に入ってないみたいにキャットのこと持ち上げてくれるから」

 エドが口を尖らせたキャットにそう言って、皆は笑いながら車に乗り込みパーティの開かれるホテルへ向かった。


 会場はまるで水族館の巨大水槽のようだった。誘致される企業の現地駐在員とその家族、彼らの本社がある国の大使館員とその家族、それぞれの交渉相手(カウンターパート)となる国内の担当者とその家族という所属も年齢も雑多な人々がごちゃ混ぜに泳ぎ回っていた。

 四人は飲み物を手にあまり目立たない会場の一角に落ち着き、他の招待客が挨拶しにくるのを鷹揚に迎えた。

 今夜は公務ではなく関係者の家族ベスとその連れという立場ではあったが、四人のうち三人までが王族である彼らはどうしても周囲の耳目を集めてしまった。

 最初は見慣れないキャットの存在に興味津々だった周囲だが、『ベスの所へ遊びに来た友人』という簡単な紹介の後では急に関心を失った。

 彼女がチャールズ王子と一緒に救出されたあの少女だと分かればきっと違う意味で関心をひいた筈だが、キャットについての報道はチップの意向もあってこの国では特にできるだけ控えられていたし、救出された時の真っ黒に日焼けした少年のような姿と、目の前の初々しい淑女を結びつける人は誰もいなかった。


 キャットは周囲から空気のように扱われること自体は気にならなかったが、会話に参加できない自分がこの場にいていいのかと本気で思い始めていた。

 何気なく会場を見渡すと、周囲の視線が急に入り口に集まった。キャットもつられてそちらを見た。


「主賓の到着だ」

 誰かがそう言った。

「ゴージャスだな」

「絵になる」

 そんな声も聞こえた。


(フライディってちゃんと格好つけるとやっぱり格好いいかも)

 キャットはぼうっとそんなことを考えながら自分の恋人を眺めていた。一緒にいる時と何が違うのか分からないが、何だか周囲がきらきらして誰か別の人みたいだった。視察団代表の綺麗な女性が彼の肘に手をかけているから、尚更知らない人のように見えた。


 チップはパーティーの主催者のところへ連れをエスコートし挨拶をしてから、周囲に群がる人々それぞれに連れを紹介していた。

「確かに、こういうのはチップが一番如才ない」

「キャットには悪いことをした」

「ううん、大丈夫」

 そう答えながらも、キャットは近づいてくるチップから目が離せなかった。こちらを確認した様子はなかったが、二人は段々にこちらへ近づいてきていた。そしてとうとう、紹介の順番が回ってきた。

「デミ。こちらが文化交流財団の理事アンソニー王子のご息女エリザベス王女に、僕の兄弟のベネディクト王子とエドワード王子。ベス、ベン、エド、視察団の代表を務めるデメトリアだ」

「お会いできて光栄です」

 そうして紹介を受けた三人が挨拶を交わしている間に、チップが脇に避けていたキャットをようやく見てくれた。

「キャット、部屋に入った時からずっと気になっていたんだ」

 微笑んでそう言ったチップが続けた。

「パッド何枚入れたの?」

 キャットがかっとなって何か言い返そうとした時チップが顔を寄せ、耳元で素早く囁いた。

「僕がエスコートだったら絶対パーティーになんか連れてこないで二人だけで過ごすのに。悔しいな」

 そして赤くなったキャットが返事を思いつく前にチップは、近づいてきた他の客に紹介しようとデメトリアを促して行ってしまった。

「そんなに赤くなってチップは何を言っていったの?」

「パッド何枚入れたのって」

 ぼおっとしたキャットがうっかりそのまま答えたせいで、パーティー会場にあるまじき声をあげかけた三人が必死で堪えた。

「可愛いがってるくせに、いつもひどすぎるよな」

「キャットが素直だから余計に面白がって」

 そんな会話も右から左へ抜けていき、キャットはチップが手を置いているデメトリアの背中を見つめていた。

(あの人の背中には下着の線が見えない。ということは、あの人の胸はパッドじゃない。)

 きっとチップはそれにも気付いてるんだろう、そう思ったキャットは胸がもやもやとした。

「何かすっきりしないな」

 そうつぶやくと、エドが素敵に美味しいフルーツパンチを持ってきてくれた。

「これ美味しい。甘いのにすっきりしてる」

「ちょっとだけアルコールが入ってるみたいだけど、キャット大丈夫?」

「ちょっとなら平気。ワイン一杯くらいなら飲めるから」

「大丈夫ならもう一杯飲む?」

「うん」

「エド、食べ物も取ってきてあげて」

 キャットはそうやって甘やかしてもらい、飲むのも食べるのも充分堪能して、じきにもやもやした気分を忘れた。


「ちょっとお化粧を直してくるね」

 そう言ってキャットは一人で会場を離れた。

 鏡の前で粉を刷いて口紅を直してパウダールームを出たところで、いきなり腕をつかまれた。

 声も出せず硬直したまま少し窪んだ電話用のブースに引っ張り込まれ、驚いて抵抗しそうになったキャットも、相手が誰か分かったとたんに力を抜き、身体を預けて恋人からのキスを受けた。


「このまま二人で抜け出したい」

 熱っぽくそう囁かれて、キャットは思わず頷きそうになった。が、返事を待たずに耳もとから首筋をつたい降りてきたチップの唇に慌てた。

「ちょっ、ちょっとっ! フライディ!」

 叫んだ声は裏返っていた。

「君たちは楽しそうに過ごしてるのに僕だけ真面目に仕事してるんだから、ちょっとくらいご褒美が欲しいな」

 チップは悪びれた様子もみせずに笑顔でキャットを見上げ、指でドレスの胸元と肌の境目に触れた。

「ここにキスしていい?」

「駄目っ!」

 チップは膝を伸ばしてキャットの頬に手を添え、もう一度唇にキスをした。

「強情な小娘だ。ところで口紅はもう一度直した方がいいよ」

 そう言ってチップは自分のポケットから出したハンカチで口を拭ってキャットに見せた。

 そこに移ったルージュを見て真っ赤になったキャットを残し、チップはにやっと笑うと挨拶なしにいってしまった。ほんの数分の出来事だった。

「もう……フライディってば。ふざけてる」

 キャットはパウダールームにふらふらと戻って鏡の前の椅子に座り込み、胸元を押さえてそうつぶやいた。

 それほど衿ぐりの広いドレスではなかったが、指で触れられた場所を鏡で見たらまた胸がざわざわした。

 本気だったのかからかわれたのか、はっきり聞き質せばよかった。いかにも手馴れた様子だったのも気になった。

 チップには何でもないことで、自分はからかわれただけなんだろうか。キャットはそんなことを時の経つのも忘れて考えていた。


 結局キャットは心配したベスが迎えに来るまで椅子に座ったまま、さっきキスされそうになった場所に手を置いて動悸を手のひらでうけていた。

「キャット、どうしたの? 大丈夫? 顔が赤いわ。酔ったのかしら?」

「そうみたい」

 キャットはチップに会ったことをベスには言えなかった。

「どこかで休む? 少し外の空気でも吸う?」

「うん。エド達は大丈夫かな」

「あの人たちなら大丈夫。話をしたいって人がここぞとばかりに押し寄せてるだろうから」

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