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遅れてきた人魚姫 17

 メルシエの王子のセイリングクルーザーに密航し、毛布をかぶって密入国をして王宮の図書室で隠し戸棚を捜して過ごそうと。

 家から一歩も出ずにパジャマのまま録りためたドラマを見て過ごそうと。

 誰にも等しく週末は過ぎ、いつもと同じ日曜の夜がやってくる。

 

 トリクシーは上昇するエレベータの中でひとり目を閉じていた。

 

 結婚を回避するためにはどうすればいいかと真剣に悩んでいるのに、家に帰ったらすぐ洗濯をしなくちゃなどという些末事も頭の隅から捨て去ることができずにいる。

 解凍したままの肉も今夜のうちに煮るか焼くかしなくては悪くなってしまう。

 チャールズ王子のクルーザーが出航準備を始めたと聞いてそのまま置いて出てきてしまったからもう肉汁が出すぎているだろう。ベーコンで巻いて焼いたら何とかリカバリーできるかも?

 

「もうっ」

 トリクシーはいまいましそうにつぶやいた。

 自分が今どうしても考えなくてはいけないことから逃避していることには気づいていた。それは、そのことについて考えるともれなく甦る幻からの逃避だ。

 その幻はホワイトタイを結び、燕尾服を普段着のように着こなしていた。

 

 エレベータはトリクシーが住む最上階に到着した。

 両開きの扉が開く音を聞いてトリクシーはやっと目を開いた。

 自宅のドアの前には退屈そうな顔の王子が一人待っていた。

 

 トリクシーは平坦な声で話しかけた。

「何の用事? 私いま帰ってきたところで疲れてるの」

「重要な話がある」

 トリクシーは一つためいきをつくと、ベーコンを巻いて焼かれる筈だったぱさついた肉に心の中で別れを告げてドアに鍵を差した。

「どうぞ、入って。ブランドン」

 

 トリクシーのいとこ、ブランドン王子がトリクシーのフラットを訪れるのは初めてだった。

 ミニマリズムの写真集に載っていそうな白一色の応接間に、ブランドンはどこを見ていいものか戸惑ったように視線を泳がせた。

「う……ん、君らしい……かな?」

 あいにく心の中は真っ黒よ、と思いながらトリクシーはブランドンの前にワイングラスを置き、もうひとつのグラスを手に向かい側に座って客に勧める前にぐびりと飲んだ。飲まずにはやってられない気分だった。


「それで、話の方は?」

「……父から、君と結婚するように言われた」

 トリクシーは、ブランドン王子のポケットの不吉なふくらみを一瞥して彼の話を遮った。

「小さい頃私にさんざん『変な顔』って言ったの覚えてるわよね、ブランドン?」

 ブランドン王子は無言だったが、そのやましそうな表情が答えだった。

 

 トリクシーが美醜について一歩引いた態度をとるもう一つの原因はこれだった。

 小さい頃のトリクシーは自分の顔もよく見えなかった。そのよく見えない顔を繰り返し変な顔だとからかわれたら普通ならコンプレックスの塊になる。

 トリクシーはその評価基準のあいまいさを知っていたから『見えるのって面倒』と思う程度で済んだが、からかわれることが愉快だったわけでは決してない。

 成長してトリクシーの個性が顔の上でうまくバランスをとるようになって周囲の評価が変わり、ブランドンも無闇にからまなくなったが、かつて彼に言われたことをトリクシーは決して忘れていなかったし、これからも忘れるつもりはなかった。

「……あの頃は、本当にそう思ってたんだ」

 ブランドンが目をそらして言った。

 今はそう思ってないというニュアンスを含めてこちらに向けたわざとらしい流し目がいやらしい。

 

 センチメンタルな雰囲気に転じる前にと、トリクシーははっきりと自分の意見を告げることにした。

「あなたのことは好きでも嫌いでもないけど、いとことしか思えない。それよりもなによりも、あの人の義理の娘になって一生がみがみ言われるのは絶対に嫌」

「僕だってそうだよ」

 ブランドンがトリクシーの率直さ(とみせかけたもの)につられ、プロポーズに来た求婚者という立場を忘れて愚痴りだした。

「僕は結婚したら王宮を出て可愛い奥さんと仲良く暮らして、父に怒られる役はビアンカの結婚相手が引き受けてくれると思ってたのにさ。ビアンカにいつまでもいい相手が決まらないし、病気のこともあって父が焦りだしたんだ。次代の国王としては力不足だが、お前なら今日からでもそばで仕込むことができるとか言い出して困ったものだよ。でも国王陛下の命令に逆らうわけにはいかないだろう?」

 定期健診でみつかった国王陛下の腫瘍は既に手術で除去されていた。幸い良性のものだったそうだが、その際に将来について色々と思うところがあったのだろう。

 トリクシーにとってはいい迷惑だ。

「ビアンカだってまだこれからいくらでも相手は見つかるでしょう」

「陛下が曰く『知らない苦労より知ってる苦労』」

 トリクシーは思わぬところでこのフレーズを再び耳にして噴き出しそうになった。そこを咳でごまかして、気になっていたことを訊いた。

「あなたのガールフレンドはこのことをどう思ってるの?」

「結婚は最初から考えてなかったし」

 トリクシーにじいっと見つめられて、ブランドンはつい本音をもらした。

「父に紹介できるようなタイプじゃない。会わせたら泣くよ、きっと」

「ああそう、大事に大事に包んでしまっておくつもりなの。そういう子が昔から好きだものね」

 トリクシーの嫌味に、ブランドンは開き直ってみせた。

「いいだろう? 好みは人それぞれなんだ。食事の席で世界情勢についての話をしたくない人間は世の中にたくさんいるんだよ。綺麗で頼りなくて難しい話が苦手な女性が目の前で微笑んでくれることが僕の人生で一番大事なことなんだ」

 

 男女同権主義者からは石が飛んできそうなことを口にしてはいても、彼は彼なりに真面目なところがあり、普段は王族としての義務をきちんと果たしていることをトリクシーは知っている。

 王位継承に関わりのない立場である彼が誰と付き合おうと将来国を揺るがすような事態には至らないのだから、個人的嗜好をあてこすったのは言いすぎだったかもしれない。


 ともかく知りたい情報は手に入った。

 ブランドンがガールフレンドと別れていないと確かめたトリクシーは、しおらしく謝ってみせた。

「悪かったわ」

「いいよ。……君とは本音で話せるから楽でいい。こういう話は誰にでもできるわけじゃないから」

 

 また話が妙な方向に進みそうになって、トリクシーは警戒を強めた。

「言ったでしょ、あの人と家族になるのは嫌だって」

「今だって家族みたいなものじゃないか」

 違う、とトリクシーは口に出しそうになった。


 家族というのは、自分の味方になってくれる人たちのことだ。そうでない場合も多いらしいが、だいたいにおいてはそうだ。

 普段は自分に娘がいることを忘れているような態度だったけど、それでもトリクシーの母は火事の後でトリクシーの味方になってくれた。

 ブランドンの家族が今までトリクシーの味方になってくれたことは一度もない。

 故に、彼らはトリクシーの家族ではない。


 トリクシーの無言の否定にブランドンは困った顔をして、違う方面から彼女を説得しようとした。

「こんなこと言ったら悪いけど、君だってもうすぐ三十だろう? これが最初で最後のチャンスかもしれないよ?」

 

 ああそう、そうなの。とトリクシーは思った。

 『重要な話』をしにきたと言ってるわりにずいぶんくつろいでると思ったら、私に施しをするつもりで来たってことなの。大事な恋人の盾代わりに使われて喜ぶと思われるなんて、ずいぶんと見くびられたものね。

 ……トリクシーがこんなふうに思ったとしても責められるいわれはないだろう。

 

 無闇に手札を見せるのは得にならないと分かってはいたが、トリクシーはどうしても誘惑に抗えなかった。

 思わせぶりな微笑みを浮かべ、トリクシーは言った。

「これが最後のチャンスかどうかはまだ分からないけど、最初でないことは確かよ」

 トリクシーはブランドンの驚いた顔を十分堪能できなかった。

 彼が倒したアンティークなワイングラスの方が彼女には大切だったので。

 手早くワインを拭き、ステムにヒビがないかと灯りにかざすトリクシーに、やっと我に返ったブランドンが慌てて訊いた。

「まさかもう箱を渡したりしてないだろうね?」

 ブランドンは意図せずトリクシーの急所を突いた。

 一瞬息を飲んだトリクシーは大切なグラスのステムをへし折りそうになった。

 何と答えるべきか。

 

 そこへ天の助けのように、インターフォンの呼び出し音が鳴った。

「ちょっと失礼」

 モニターに映っていたのは、ブランドン王子の警護官だった。

「ブランドンに用事?」

「いえ、ミズ・モーガンに陛下より至急昇殿するようにとのご命令です。ブランドン王子とご一緒に王宮へお送りします」

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