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遅れてきた人魚姫 15

 こちらを向いたベネディクト王子は、元の顔に戻っていたがまだ少し目のあたりに笑いの余韻を漂わせていた。

「実にユニークだ」

 トリクシーは淑やかに目を伏せ感情を隠した。

「お気を悪くされていたらお詫びします」

 むしろ気を悪くしていなかったら奇跡だ、とトリクシーは思った。

 人によっては陰で噂するより面と向かって尋ねる率直さを好ましいと思うこともあるだろうが、あいにくトリクシーはそういった美徳からも縁遠い。

 そもそも会話の相手に好かれようと思っていない。

 とにかくヘテロセクシャルであるという告白に嘘の気配はなかった。これでトリクシーの用事は済んだ。

 

 ここで王子が『ではこれで』と言ってくれたら会見は終了だが、ベネディクト王子はまだトリクシーを解放してくれなかった。

 それどころか、ソファの上でくつろいだ姿勢に変わった。

「ミズ・モーガンはエリザベス大叔母の名づけ子でいらしたと思いますが、メルシエにはおいでにならないのですね」

「ええ。以前メルシエを訪問中に家が火事になったので、それからはなかなか島を離れる気になれなくて」

 すましてそう言ってからトリクシーは視線を上げた。

 ベネディクト王子の真剣なまなざしに出会い、トリクシーの心臓が再び跳ねた。

「知りませんでした。お母様はその時に?」

「いいえ。もっと後に、別のことで」

「ご苦労を――」

 その言葉に、トリクシーは首を横に振って止めた。

「いえ、伯母夫妻の世話になれましたし、恵まれていた方だと思います」

 家族に加えてもらったという気は全くしなかったが、ロイヤルファミリーとその親戚では身分も役割も違うから仕方なかったと思っている。

 それにトリクシーには『海の女王の娘』という、家族よりは薄いが確かな血縁関係もあった。ずっと会ってはいないが父親も生きている。天涯孤独でもなく、金銭面の苦労もしていない。ただ親のない子どもだったというだけだ。

「しかしそれでは、メルシエに良い思い出はないでしょうね」

「そんなことはありません。一度訪れただけですが、あの荘厳な王宮で拝見したステンドグラスの美しさは今でも覚えています」

 トリクシーは場の雰囲気を変えようと、明るく言った。

 するとベネディクト王子は少し身を乗り出し、低い声でトリクシーに言った。

「本当に? 眼鏡がないと字も読めなかったのに?」

 

 トリクシーは、自分の心臓が胸を突き破るのではないかと思った。

 あの時ぼやけた世界で見た少年の瞳は、目の前にいる王子と同じ色だった。

 

「しるしの箱を返してっ」

 テーブルを越えそうな勢いで身を乗り出したトリクシーに、王子が肩をすくめてみせた。

 ボディ・ランゲージの通訳などいなくても、返す気がないことは明らかだ。

「図書室の忘れ物や読みかけの本は動かさない決まりだ」

 トリクシーは顔色を失った。

 八歳の時とは違い、今のトリクシーはしるしの箱が持つ意味も価値も理解していた。

 知らない人にとってはあれはただの白木の箱に過ぎない。しかし本物のチャンシリーのしるしの箱がメルシエの図書室にあると誰かが気付いたら。母とトリクシーの秘密を知られたら。

 トリクシーは低い声で訊いた。

「それは誰でも持っていけるような場所に置いたままになってるという意味?」

「いや」

「あの時、箱をどうしたの?」

「図書室には隠し戸棚がある」

 トリクシーの背中から少し力が抜けた。

 王子にも誰彼かまわず見せない程度の良識はあったらしい。


 トリクシーはソファに座りなおした。うっかり弱みを見せてしまったが、このまま終わるつもりはない。

 顔を上げ、今さらの笑顔をつくった。

「殿下。取り乱してすみません。先程も申し上げたとおり、私は火事で子供時代の思い出の品を全て失くしてしまいました。あの箱が手元に戻ればこれほど嬉しいことはありません」

 ベネディクト王子はトリクシーの話がまるで聞こえなかったように言った。

「あなたは海の女王が認めた人だけが開けられると言った」

 トリクシーは心の中で舌打ちをした。

 子どもだったとはいえ、箱について得意になって喋ってしまった過去の自分が恨めしい。

「ただの伝説です」

「あなたがそれを言う?」

 咎めるようにじっと見つめられてもトリクシーはびくともしなかった。


 トリクシーは海の女王の伝説を信じてはいない。

 確かに海の女王の娘たちには、遺伝で受け継がれる何かの資質があるのだろうとは思う。古い時代には天候や漁場について助言を行うこともあっただろう。

 だからといって伝説を信じさせるためのトリックが行われていないとは思わない。しるしの箱に関しては何かのからくりがあるだろうと疑っている。

 

 二人の間の沈黙を、控えめなノックが破った。

 トリクシーは思い出した。さっき「それほど長くはかかりません」と言ったのは自分だ。王子にはこの後も予定があるのだろう。

「長居をしてしまったようですね」

「――いつも話が途中になる」

 ベネディクト王子がため息交じりに言った。

「いつもと言うほどお会いしていません。まだ二度目です」

 トリクシーの切り返しに苦笑らしきものをうかべた王子が、ソファから立ち上がった。トリクシーもさっと立った。

 

 ドアの前までトリクシーを見送ったベネデイクト王子は別れの握手の手を離さずに、トリクシーの瞳を覗きこんで言った。

「三度目は?」

 まるで逢瀬を交わすような問いかけだった。

 口を開きかけたトリクシーは、目の前にある危険に気付いた。

 この人とはもう会わない方がいい。でも、しるしの箱は返してもらわなくてはいけない。

 トリクシーは答えをためらった。

 

 二人のすぐ横のドアから、二度目のノックが響いた。

 ベネディクト王子はゆっくりと握手の手を離し、反対の手でドアを開けた。

「またお会いしましょう、ミズ・モーガン。ご依頼の件については検討しておきます」

 王子はドアの外で待つ秘書に聞こえるようにそう言った。

 

 トリクシーはビアンカには会わず、まっすぐ自分のフラットへと戻った。

 ずっと気になっていた箱の行方がとうとう分かった。取り返さなくてはいけない。

 しかしベネディクト王子は、今のところ素直に返してくれるつもりがないらしい。

 

 ――王子は、あの時の誓いも覚えているのだろうか。

 

 トリクシーは無意識に自分の唇に手をやり、熱いものに触れたようにぱっと指を離しもう一方の手で強く握った。あんな、子どもの頃の口約束をまともに信じてはいけない。それに。

 トリクシーの顔が引き締まった。

 ベネディクト王子は王室間の次世代交流、言い方を変えれば見合いのために来た。そんな交流に巻き込まれるのはごめんだ。王子が出国するまで、もう王宮には近づかないようにしよう。


 そこまで考えて、トリクシーはふと思った。

 ……もしも海の女王が認めた人だけが開けられるという伝説が本当なら、王子はビアンカのしるしの箱も開けられるのだろうか。

 純粋に科学的興味として、ベネディクト王子にはぜひ試して欲しかった。

 

 もう王宮には近づかないようにしようと決めた翌日、トリクシーは伯母からの呼び出しで嫌々また王宮を訪れた。

「何でしょうか、伯母様」

「昨日、ベネディクト王子を訪ねたそうね」

 トリクシーはこんなことぐらいで驚かなかった。ベネディクト王子の部屋に誰が出入りしたかは、セキュリティチェックの範囲だ。室内のプライバシーはさすがに守られているだろう。それに関してはメルシエ側でもチェックしているだろうから。

「はい。ベネディクト王子がゲイか確かめて欲しいとビアンカに頼まれたので」

 王妃自身も海の女王の娘なのでトリクシーの勘の良さは知っていた。首を傾げて、続きを促した。

「違うと思います」

 トリクシーは少しためらったが付け加えた。

「でもビアンカとは、あまり合わないように感じました」

「王子が何か?」

「いえ、王子は何も。ただビアンカがおしゃべりを止められてつらそうなので」

 王妃が気弱な笑みを浮かべた。

「ビアンカもそろそろ口を閉じていられる歳でしょう」

 トリクシーは口を引き結んだ。その言葉が誰の受け売りかは聞くまでもなかった。まだ十代の娘の見合いを設定したのと同じ、ビアンカの父親である国王だ。

 トリクシーが、急に話題を変えた。

「伯母様、一週間ほど別荘へ行ってきてもいいでしょうか」

 この見合いのためにたくさんの人が動いている。

 王子を訪ねたことが国王夫妻にまで知られているからには、うまくいかなかった時に火の粉がかからないよう王宮からはできるだけ離れた方がいい。少なくともこの視察が終わるまでは、ベネディクト王子との三度目の邂逅を避けなくてはいけない。

 王妃が小さな声で言った。

「……気を使わせるわね」

「面倒が嫌いなだけです」

 これはトリクシーの本音だった。

 

 結局この時の見合いはそれ以上に進展することなく、今後も王国同士の交流を深めていこうということで終わったらしい。トリクシーは視察団出国のニュースを確認するまで別荘に引きこもっていたので詳しくは知らない。

 

 二人の三度目の邂逅は、メルシエでのことだった。

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