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遅れてきた人魚姫 05

「今日だけはコンバーティブルじゃなくてよかったな」

「そんなこと言ったら調子悪くなるかもよ」

「彼女はそんなに心の狭い車じゃないよ」


 チップと軽口を叩きながらキャットは荷室からそのまま後部座席に移動し、シートにその身を横たえた。

 バックミラーでキャットが落ち着いたのを確認してから、チップは助手席で毛布に包まれたトリクシーに視線を移した。

 毛布を目深にかぶったミノムシのようなその姿にキャットとの違いを見分けられるのは、おそらくチップくらいのものだろう。


「ここはいつ人が通るか分からないしカメラに映るかもしれないから、少し行ったところで君たち二人の役を入れ替えよう。ロビンは助手席で僕の恋人役、ミズ・モーガンは後部座席で毛布の役だ」

 チップのつまらないジョークを聞き流して、キャットが後部座席から言った。

「途中でどこか寄れない? ミズ・モーガンの着られそうな服を買わないと」

「フィッツアランに買ってこさせるか。きっと嫌がるぞ」

 嬉しそうに意地の悪いことを言うチップを、キャットがたしなめた。

「やめなよ。そんなことしたら私が隠れてる意味なくなるじゃない」

 

 会話に置き去りにされていたトリクシーが、そこに加わろうとした。

「ミズ・ロビン……」

 言いかけたトリクシーに、キャットが訂正を入れた。

「ロビンは名前じゃなくて、本当はキャサリン・ベーカーです。友達はキャットと呼びます」

「……では。キャット、私のことはトリクシーと。それから、私のために窮屈な思いをさせてしまってごめんなさい」

 トリクシーは『危険』という言葉を使わなかった。船から降りる前にチップとキャットが危険か危険じゃないかで散々揉めたのを知っている身として、その話題は避けた方がいいと判断したからだ。正しい判断だった。

 キャットが答えるまで、少し時間が空いた。

 キャットは言葉を選びながら答えた。

「あなたのためというわけでもなかったんです。それよりは自分とチップのためだし、私にはできたから」

 チャールズ王子の年若い恋人は、気負ったようすもなくそう言った。

 

 途中で車を止めたチップはいったん外へと追い出され、女性二人が途中で買うものの詳細(種類とサイズ)を相談しながら席と立場を入れ替えた後に車へ戻った。

 途中の店で、チップの財布を渡されたキャットがトリクシーの当座の着替えを買った。

 そうして三人はチップの屋敷、『九月三十日荘』に到着した。この奇妙な名前はチップ達がお互いを呼ぶ時の名前と同じくデフォーの『ロビンソン・クルーソー』に由来している。

「ミズ・モーガン、あなたにはキャットと一緒にこの屋敷に留まってもらう。一人で勝手に出て行かないように。僕はいったん王宮に戻って図書室の下見をしてくる」

 玄関で二人を降ろしたチップが、そう言ってキャットに短いが熱心なキスをし、車に戻った。

 

 朝起きた時には想像もしていなかった組み合わせで取り残されたキャットは、トリクシーのために扉を開けた。

「どうぞ。お茶と、何か軽く食べるものを用意しますね」

 その言葉に、改めてトリクシーがキャットの顔を見つめた。

「あなたはここに住んでいるの?」

 キャットはその言葉に、さっと頬を染めた。

「いえ、ここはチップの屋敷です。ここには誰も働いていないので私があなたのお世話をします」

 言い訳をしながらもキャットは先に立って正面の階段を上がり、トリクシーをゲストルームに案内した。

 チップと一緒に使っている寝室とは階段を挟んで対称にある一番いい部屋だ。定期的なハウスクリーニングが入っていつでも使えるようになっている。

「さっき買った着替えをここに置いておきます。バスルームはこの奥です。

 落ち着いたら、階段を下りて右手にあるサロンにお茶を用意しておくので、降りてきて下さい」

 そう言ってキャットはゲストルームを出た。

 

 ちゃんと落ち着いてみえたかな、と内心でキャットはどきどきしていた。

 なんといってもキャットはついこの間十九になったばかりの若い娘だ。

 それに対してゲストのトリクシーは、どこへ行っても最上級の敬意を払われる立場の人だ。

 いつも自分の母が家で来客をもてなす時に口にする言葉が、自分の家ではない場所で王位継承者をもてなすのに適しているかどうか、キャットには分からなかった。でも、チップが二人を残していったからにはこの役はキャットしかできない。


 自分がでしゃばりすぎていないか不安になったキャットの心に、チップの言葉がよみがえった。

『他でもない僕たちのところに漂流者がやってきたからには』

 チップはそう言った。

 

 キャットは自分が漂流した時に見た海と空しかない景色と、これからどうなるんだろうという絶望的な不安を思い出して身震いした。

 キャットはあれから足のつかない深さの開けた海で泳げなくなった。

 いっさい泳げないというわけでもなく、鎮静剤が必要になるほど深刻な恐怖症ではないが海に入ることを考えると嫌な気持ちになる。チップのクルーザーで海に出るのにも、最初は抵抗があった。

 

 ──この屋敷での自分の立ち位置なんてどうでもいい、今は彼女を精一杯くつろがせることが最優先だと、キャットは改めて自分に言い聞かせた。

 昔キャットたちを乗せてくれた船の船長は、礼儀やもてなしのことなんかで悩まずにできることをしてくれた。キャットはその親切に感謝こそすれ礼を欠いているなどとは全く思わなかった。

 今頃トリクシーは、自分がどれだけ危険な手段をとったのか気付いて恐怖を感じているかもしれない。

 暖かい飲み物と冷たい飲み物、サンドイッチ。それから、クッキーとチョコレート。

 キャットはすぐに出せそうなものと、用意する手順を歌のように口ずさみながら残りの階段を駆け下りた。

 

 用意した飲み物をサイドテーブルに置いたキャットは、窓際のカーテンを開けはじめ、手入れされていない植物が伸び放題の庭を改めて他人の眼で眺めた。

 チップとキャットにとってそれは意味のある景色なのだが、知らない人が見たらどんな廃墟に迷い込んだのかと目を疑われそうだった。

 キャットは開けたばかりのカーテンをそそくさと閉めはじめた。


「野性的ね」

 そう声がして、キャットは振り返った。トリクシーは入口に立ち、閉まりかけたカーテンの向こうを眺めていた。

「これだけ植物があると、生き物が多そう。楽園ね」

 この瞬間に、キャットはトリクシーのことを好きになってしまった。

 常識が通用しない彼女からの、無理やりひねり出したのではない言葉が嬉しかった。

 

 初めて会った時は平手打ち。次に会った時は密航。

 その突拍子もない行動は、キャットが知る王族らしさの枠からは(チップの例があるとはいえ)大きくはみ出している。

 それに加え、彼女はもしかしたらキャットの立場を脅かすかもしれない人だ。

 自分のやりたいことのために圧力をかけたり、あからさまな嘘をついたり、とても『いい人』とは言えない。

 でも、なぜかキャットは彼女が嫌いになれなかった。

 彼女はとても自分勝手だけれど、謙虚なふりをして人を動かす狡さがない。やることは出鱈目だし嘘ばかりついているが、彼女に騙されて後で泣く人はいないだろう(何かを強要されて怒る人はたくさんいるだろうが)。

 人によっては彼女の手法は受け入れられないだろう。嫌いな人にはすごく嫌われるタイプだと思う。でもキャットには彼女の悪びれない態度がどうしても憎めないのだ。


 そこまで考えてキャットはにこりと笑った。……そもそも、チップに似た人を自分が嫌える筈もないと気付いて。

 

 チップが戻るまで重要な話はできないし、キャットが訊くべきことでもない。あたりさわりのないところで、トリクシーと以前に出会った時のことを話題にした。

「私、あなたに以前にお会いしたことがあるんです」

「そうだったかしら?」

「アーサー王子の結婚午餐会の前、パウダールームで」

 トリクシーが改めてキャットの顔を見た。

「ああ、そういえば」

 トリクシーの堂々とした態度は、手が当たったと主張した時と同じで罪悪感のかけらも見あたらなかった。

 キャットはずっと気になっていたことを訊いてみた。

「あの女の人、どうなったんですか?」

「あのまま別室で休んだみたいよ。無理をして午餐会に出て具合が悪くなったらいけないし……」

 トリクシーの最後のつぶやきは、キャットには『もともと祝う気もなかったようだし』と聞こえた。

 キャットの胸に、あの時の冷たい怒りが甦った。あの人が作り笑いで午餐会に出たりしなくて良かったと思った。


 キャットは、気になっていたことをもう一つ思い出した。

「あなたは午餐会に出ていらっしゃらなかったんですか?」


 チップはトリクシーの顔を知らなかった。名前は知っていたが、別人が名を騙っているのかもとまで言った。

 キャットも結婚式の後で『ウーマン・フライディ』が誰だったのか気になって写真を捜しはしたのだ。しかしどの写真にも彼女の姿を見つけらなかった。

 あまりにも不愉快な陰口から始まった出来事をチップや他の誰かに言う気になれなくて、キャットはあの時のことを自分だけの胸にしまってそのまま今日まで忘れかかっていた。


「ええ。招待されていなかったから」

 キャットは目を丸くした。

 でも彼女は王位継承者であの日王宮にいて……

「付添いだったの。招待されていたのは従妹のビアンカ王女の方よ」

 キャットはますます訳が分からなくなった。


 そういえば何故トリクシーは『ミズ・モーガン』と呼ばれているのか。

 王位継承者なのにただのミズとはどういうことなのか?

 

 キャットの疑問はそのまま顔に出ていたのだろう。

 トリクシーが手にした飲み物を置いて、説明してくれた。

「従妹は私の母の姉の子ども。私の伯母と結婚した伯父が、現国王よ。チャンシリーの王位は母系で伝えられるから、従妹のビアンカにも私にも王位継承権があるけど、私は王族じゃないの。母が亡くなってからは伯母に引き取られて王宮で育ったけど、何の称号もないわ」

「へっ?」

 そんなことが──

 あり得るのだろう。本人が言うのだから。

「私が結婚させられそうになっているブランドン王子はビアンカの兄だけれど、男だから王位継承権がないのよ」

 トリクシーが顔をしかめて言った。

 王子には継承権がなく王女に継承権がある──キャットは今までそんな制度があるなんて聞いたことがなかった。


「母系相続の方が歴史的には古い制度なのよ。チャンシリーが王国として独立したのは最近だけど、それよりずっと前から私たち一族は母系で続いているの。

 きっと島だから古い習慣が残りやすかったんでしょうね」


 トリクシーの話でキャットは、自分の頭にある常識が万能ではないことを知った。

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