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楽園までは何フィート 6(おわり)

 一方バルコニーが明るくなった時点で役目が終わったと見定めたチップは、さっさと正面玄関に回って屋敷を訪れていた。


 それから伯父の書斎で、伯父と一緒にブランデーを飲みはじめてからもうずいぶん経っていた。

 肘掛け椅子の上でチップはのんびりくつろいでいた。

 伯父のアンソニーは、決してくつろいでいるようには見えなかった。

 

「そろそろ挨拶に来てもいいと思わないか? まさか来た道から帰るつもりじゃないだろう」

「挨拶が明日の朝ではいけない理由でもあるんですか?」

 チップはグラスを握る伯父の指に力が入ったのを見て、笑いをこらえた。

「エドは大丈夫ですよ。僕の弟とは思えないくらい真面目だから」

「もちろん大丈夫に決まっている。エドはともかく、ベスがはめを外す筈がない」

「父方の血の呪いですね」

 陰気な声で告げる甥に、ベスの父であるアンソニーがブランデーをかける真似をし、チップは笑いながら避ける真似をした。

「お前も同じ血を受け継いでいるんだぞ」

「僕は母方の遺伝が強く出たみたいです」

 軽く答えたチップを見て、アンソニーは手にもったグラスを口に運び、もう一口ブランデーを飲んでからつぶやいた。

「……お前くらい不真面目だと吊り合いがとれてちょうどいいかと思ったんだがな」

 

 小さい頃チップは時々、王宮から逃げ出したくなった。そんな時でもあてもなく逃げ出すことはできなくて、必ず警護官がついてきた。それがチップには長い鎖でつながれた囚人のように感じられた。

 逃げ場を作ってくれた伯父には今でも感謝している。

 ……でも、どう見てもベスはチップといるよりエドといる方が幸せそうだ。

 アンソニーにそれが分からないはずはなかった。

 

 伯父はエドに不満があるわけではなく、ただ娘の父親としてセンチメンタルになっているだけだと分かっていたので、義理の息子になりそこねたことを全く残念に思っていないチップは軽く受け流した。

「吊り合うまでに揺れすぎて、天秤皿ごと落ちていたかも」

「そうかもしれないな」

 どこか遠くをみつめながらそう言ったアンソニーは、いきなりその視線を天井に向けた。階上の娘の部屋まで穴を穿とうかという鋭さで。

「それにしても遅い」

 チップは再び浮かんだ笑いを隠すためにグラスをあげ、もう一口ブランデーを口に含んだ。

 

 アンソニーの苛立ちも、それを笑うチップのことも全く頭にない婚約したばかりの二人が何をしていたかといえば……。

 

 ベスとエドは婚約が公のものになる前にもう少し二人だけでこの特別な夜を祝いたくて、どちらからともなく言い出し、手に手を取って屋敷の音楽室にいた。

 ベスはあのナイトドレスから、シンプルでシックな部屋着に着替えていた。フリルもレースもリボンもなかったが、後ろでゆるくまとめた髪には薔薇のつぼみが差してある。

 ベスはこの一輪の薔薇を、どんな豪華なティアラとも交換する気になれなかった

 

 二人は幸せに酔ったようにくすくすと笑いながら、先ほどのソナタを練習中だった。

「今のところ、もう一回やりたいわ」

 そう言ったベスが、エドを見上げて微笑みを深くした。エドも幸せそうに微笑み返して言った。

「うん。もう一度合わせよう、シュガーケーキ」

 ベスが真っ赤になって、急にいいわけをはじめた。

「あっ、あのナイトドレスだけど……いつもああいうのを着ているわけじゃないのよ?」

「そう? 昔から着てなかった?」

 ベスは目をみはった。

「むかし……って」

「子どもの頃。お祖父さまがいらした頃、夏に離宮に行った時も――覚えてない?」

 エドは首を傾げてベスに訊いた。ベスが頬を赤らめたまま目を伏せた。


 長いまつげがつくる影の美しさに、エドは小さくため息をついた。

「覚えてないけど、着ていたかしら。……エドは覚えてるの?」

「うん」

 当然という態度でエドが答えた。

「エド――」

 エドは言葉にならないベスの願いを汲み、楽器をピアノの上に置いて、ベスが座る椅子の背もたれに腕をついて身をかがめキスをした。

 やがて、ベスが言った。

「もう一回」

「合わせて弾く?」

 エドの問いかけにベスがうめき声をあげそうになったが、エドはぎりぎりのところでそれを止めた。

 もちろん、ベスの望んだとおりの方法で。

 

 やがて、名残惜しそうなエドが言った。

「そろそろ誰か探しに来るかな? ここで何をしてるんだって怒られるかな?」

「バイオリンソナタの練習中だって言うわ」

 答えたベスがくすくすと笑った。


 エドが腕の中のベスを覗き込んだ。

「信じると思う?」

「まあ、エドったら、音楽室で他に何をするっていうの?」

 ベスはそう言って、咲いたばかりの薔薇の香りをまとい、内側から光り輝くような微笑を浮かべた。

 

end.(2012/03/13)

タイトルはマザーグースの「バビロンまでは何マイル(How many miles to Babylon)」からとっています。チップがエドに言った「猫ならともかく犬は~」もマザーグース「猫とバイオリン(The Cat and the Fiddle)」つながりです。「雨の歌」についたクラウス・グロートの詩も含めて著作権フリーの翻訳がみつからなかったので参照リンクはありませんが、興味をお持ちの方はそれぞれタイトルで検索してみてください。

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