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王太子の結婚 10

 午餐会の会場は、王宮の大広間だった。

 先程の出来事で化粧直しに行きそびれたキャットはパウダールームを借りることにした。


 キャットが手を洗っていると、少し離れた鏡の前で化粧直しを終えた女性達の雑談が聞こえてきた。

 年頃からいって、アンかアートの友達なのだろうと思われた。

「チャールズ王子、見た?」

「もちろん、見た見た。久しぶりに見たけど、やっぱり軍服が最高に似合う!」

 キャットはくやしくてたまらなくなった。

 

 キャットはチップの軍服姿をライブで見たことがない。いや、初めて会った時にチップが着ていたのも軍服ではあるのだが、略服といわれる作業着的なものだったし、事情が事情だけにかなりくたびれた状態だった。

 数ヶ月の別離を経て再会した時にはチップはもう予備役になっていたので、人命救助でもらったという勲章も話に聞いただけで、つけたところは写真でしか見ていなかった。

 キャットは、これで百度目くらいの「どうして自分はメルシエに、フライディのそばに生まれなかったんだろう」という思いで身を焼いた。キャットがパンだったらもう真っ黒に焦げているはずだ。

 

 キャットの気持ちも知らずに、彼女達の話は続いていた。

「あの格好で『脱ぐのを手伝って』って言われたら断れないわよね」

「それロニーの話でしょ。チャールズ王子と寝たって、やっぱり本当なの?」

「さあ? でも『理想の恋人』は色々すごかったって自慢してたわよ」

「若くてしかも経験豊富だものねえ」

 キャットの頭にかあっと血が上った。

 キャットは噂をそのまま信じるつもりはなかった。

 チップにもこういう場はにっこり笑ってやりすごしてと言われている。でもその瞬間からロニーという名前が大嫌いになった。


 続く会話で、頭のてっぺんまで上っていたキャットの血がすっと下がった。

「アーサー王子は経験あまりなさそう」

「アンが病気で同情させてずっとつかまえてたからね」

 

 さっきとは違う、冷たい怒りでキャットの頭の芯がきんと冷えた。

 悔しくて、悲しくて、情けなかった。

 どうしてこんな人達が二人の結婚式に呼ばれているのか。ひとつも祝福なんてしていないのに。

 あの二人は決してこんな風に言われて良い人ではないのに。

 

 きっとキャットは彼女達があと一言でも余計なことを言ったら、後先考えず手首にかけたパーティバッグを投げつけていただろう。

 しかし二人の会話は続かなかった。キャットは母から借りたパーティバッグを投げずにすんだ。


 代わりに聞こえたのは小気味のいい平手打ちの音だった。

 ぱっと振り向いたキャットが見たのは、喋っていた二人から少し離れた場所で化粧直しをしていたはずの女性が、さっきアンについて心ない発言をした方の女性のすぐ横で、落ち着いた様子でクラッチバッグを別の手に持ち変えるところだった。

「何するのよっ!」

 そう叫んだ女性は頬を押さえていた。

「あら、ごめんなさい。手があたったかしら」

 全く心のこもらないとわかる謝罪の言葉に、相手は一層いきりたった。

「どうみたってわざとでしょ!」


 責められているのは、赤いドレスに揃いの帽子の、叩かれた方より少し若く見える女性だった。


 彼女が小首を傾げて言った。

「謝っているのにそんな言いがかりをつけられては、困るわ」

 最初からその場にいた人でなければ信じてしまいそうな、困惑でいっぱいという口調だった。


 キャットは内心で舌を巻いた。キャットは言いがかりをつけられると正面から受けてたってしまう方なので、言い合い叩き合いになりがちだ。

 しかしこの方が賢いやり方なのかもしれない。キャットにはできそうにないが。

 

 叩かれた方がもう少し気の弱い相手なら、このまま終わっただろう。

 残念ながら相手は叩かれたままでは気が収まらなかったらしい。(キャットは叩かれるだけの原因があると思っていたが)目には目をとばかりに怒りを込めて手を振り上げた。

「きゃあ助けて」

 赤いドレスの女性は空々しい悲鳴を上げた。

 パウダールームのドアが勢いよく開いた。叩こうとした方は振り上げた手をそのままにドアの方を向いた。

 キャットもドアを向いた。地味なドレスを着た中年女性が立っていた。

「いかがなさいました?」

 赤いドレスの女性は、先程と同じ困惑した口調で説明した。

「偶然その方に手が当たってしまったのに、わざとだと言われて叩かれそうになったの。私が理由もなく人を叩くと思われたのか、それともその方に何か叩かれそうなことをした自覚があるのかしらね」

「念のため医者に診せますか」

「それがいいと思うわ。ゆっくり休ませてあげて」

 二人は言外の意味を通じて頷き合い、中年女性は全く納得していない表情の女性とその友人を有無をいわせず連れて行った。

 キャットは喝采を叫びたかった。

 赤いドレスの女性は何事もなかったかのように落ち着いて鏡を眺め、帽子の角度を直していた。

「胸がすっとしました!」

 キャットが我慢できずに声をかけると、赤いドレスの女性はいぶかしげな顔をした。

「何をおっしゃってるの?」

 彼女は落ち着いた様子でクラッチバッグを取り上げると、パウダールームを出て行った。

 

「ウーマン・フライディだ」

 後姿を見送ったキャットは、そうつぶやいていた。

 もちろんあのとんでもないうそつきへの賛辞だ。


 彼女の神経の太さと巧みなやり口は、彼女の恋人フライディにそっくりだった。

 もっともチップと違って彼女はあくまでも真面目な顔つきだったが、最初から最後まで真面目にふざけていたと言えなくもない。


 いったい誰だったんだろう、そう思いながらキャットも彼女の後を追おうとし、鏡の前を通り過ぎたところで自分が化粧直しをすっかり忘れていたことに気付いて急いで化粧ポーチを取り出した。

 

 キャットがパウダールームを出ると、廊下にリックが立っていた。

「わっ、リック!」

「遅い。そろそろ午餐会が始まるぞ」

「迎えに来てくれたの?」

 キャットがまさかと思いながら訊いた。リックは質問には答えずに質問で返した。

「さっき腕掴まれてたけど大丈夫だったのか?」

「うん」

 どうやら本当にキャットを心配して来てくれたらしい。

 心配しなくても一人で大丈夫なのに……と、ついさっき別件で一触即発の危機を回避したばかりなのをすっかり忘れてキャットはくすぐったく思った。


 キャットはさっきリックからもらったアドバイスを思い出して訊いた。

「ねえ、リック。相手が知ってる人か知らない人か分からない時はどうすればいいの?」

「俺が知るか」

 リックは不機嫌そうにそう言った後は口をきかなかったが、テーブルにつく時はちゃんとキャットの椅子を引いてくれた。

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