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ロビンと僕 3

 ロビンが「数学が苦手」と口を滑らせたので、僕は彼女に数学を教え始めた。正直なところロビンとお互いについての打ち明け話をしたいわけじゃなかったので、数学は丁度いい暇つぶしになった。

 加減乗除の算数以上のいわゆる数学の場合、理屈に納得がいかないと解けない頭脳派と、理屈では理解できなくて練習問題をひたすらやらないと身につかない肉体派と、おおざっぱに二つに分けられる。ロビンは肉体派の方だったから、文句を聞き流してひたすら問題を解かせた。

 最初はひーひー言ってたが無視したら、やがて閾値(いきち)を越えて解けるようになった。本人も何故自分が解けるようになったのか分からないらしくて首をひねっていたから可笑しかった。


 勉強は砂浜でした。船影を見つけて救助を頼めるかもしれないから、僕は海にも目をくばりながらだった。

 一日砂浜にいてただ船を待っているのが、かなり落ち込む時間の過ごし方だということを僕はよく知っていた。勉強のためにここにいるというのは便利な言い訳だった。

 数学の楽しみを知っていて良かった。そう言ったらロビンには数学の苦しみだと言い返されたけど、時間を潰すには数学はとてもいいものだった。(と思っていたのは僕だけだったかも知れない)

 雨の日は建物の中、元のホテルロビーの薄汚れた床に拾ってきた棒で僕が問題を書き、ロビンが解いた。


 僕達が夜寝るのも同じロビーの床にマットレスを敷いた寝床だった。

 もともと僕がひとりだった頃、光が入りやすい全面ガラスのロビーを寝場所としたのだが、ひとりじゃ怖いと言うロビンが加わってからは彼女のマットレスも並べて寝るようになった。こうすれば暗くても呼ばれたらすぐに答えられるし、手を伸ばせば届く。これは夜中にトイレに行きたくなった時用に、一つしかないミニライトに両方から手を届かせるという都合もあったのだが。


 ロビンにせがまれてという態だったが、実を言えば僕もロビンと一緒なのはありがたかった。

 ひとりで真っ暗な中で目が覚めて、世界戦争が起きてもう誰ひとりとして人類が生き残っていなかったらどうしようとか、この地域一帯が原潜の放射能漏れで隔離されてたらどうしようとか、そんなことを考えた時に隣で寝息をたてている誰かがいると、自分の馬鹿さかげんを笑ってまた寝直すのがずっと楽だった。


 雷の鳴る夜もロビンがいるおかげでいくらか楽に過ごせた。


 その晩も嵐だった。

 稲光か雷鳴で目を覚ましたのだろう。僕を見つけたロビンが訊いた。


「フライディ? どこか痛いの?」

「大丈夫」

 自分でも無理があると思った。稲光に照らされて僕が縮こまっているのは隠しようがなかったから。ロビンは僕の額で熱を測ろうとした。

「どこが痛いの?気持ちが悪いの?」

「大丈夫……ちょっと、雷の音がね」

「嫌いなの?」

「事故を思い出す」

 どんな事故だったのかと訊かれたらどうしようかと、僕はいっそう身を硬くした。

 

 事故に遭ったのが今と同じような嵐の晩で、横殴りの雨でずぶ濡れになった甲板にいたことは覚えている。すぐそばで爆発音を聞いたことも。僕の記憶はそこでいったん途切れ、意識を取り戻した時の洋上の景色から再び始まっていた。

 僕は自分がどうして海に落ちたのかの記憶がない。

 それは僕にとって非常に悩ましい問題だったので、できれば触れて欲しくなかった。


 僕が恐れた質問はなかった。代わりに差し伸べられたのは救いの手だった。

「……ありがとう」

 女の子って皆こうなんだろうか。こんな子どもがどうして一瞬で聖母みたいになれるんだろうか。


 僕はロビンの腕で耳をふさがれ、嵐から守るように胸に抱かれていた。こんなの駄目だ。僕は君を守らなくちゃいけないのに。

 でもその腕の中はあまりに安らかで、僕はどうしても彼女から離れたくなくてロビンの子どもっぽい腰を抱き寄せていた。

 ベッドの中で女性を抱き寄せたことなら何度もある。でもこれはそれとは違う。今の僕に必要なぬくもりはこのロビンからのものだけだった。

 ロビンの腕の中にいても、爆発の音に似た雷鳴が時折響いた。そのたびに身を硬くする僕の頭をロビンは静かに撫でてくれた。


 やがて、雷鳴も稲光も間遠になり、いつの間にか消えた。ロビンの手は時々びくっとしてはまた段々に脱力しながら熱くなって、持ち主の眠気を伝えてきた。僕はそっとロビンの手を外し、彼女から離れた。これ以上傍にいると、よこしまな思いを抱いてしまいそうで。そしてそれは彼女のしてくれたことにはふさわしくなかったから。


 それからもロビンは、雷が鳴る夜には黙って僕を抱きしめた。僕はロビンの腕にすがって自分を支えた。それに馴染むことに危うさを感じないわけではなかったけど、僕はどうしても自分からは大丈夫だから離してと言い出す気になれなかった。ロビンは何も訊かず、ただ黙って僕を甘やかしてくれた。

 男同士の友情とは違う、でも男女の愛情とも違う。この島で、僕ら二人の間でしか成立しない何かがそこにはあった。


 僕とロビンの関係は一言で言えばバディだった。お互いに相手の命を握ってサポートしあう関係。

 ロビンのバディはダイビング中にロビンをサポートしなかった。僕は何としてもロビンを最後までサポートするつもりだった。


 それなのに。僕は一度大きなミスをした。そしてそのミスをリカバリーしてくれたのはロビンだった。


 僕の誕生日のことだった。いつものように眠り込んでいたロビンと僕は、その朝、場に全くふさわしくないちゃかちゃかした電子音に叩き起こされた。

「何これっ!?」

 ロビンが叫んだ。僕は腕時計のスイッチを押して、ハッピーバースディのメロディを止めた。

「誰かが勝手にセットしてたみたいだ」

 それは僕が軍に入隊する前から使っていた、安物だけど丈夫なのがとりえの耐圧耐衝撃の腕時計だ。誕生日にメロディが流れる設定を誰がしたのかは分からない。同じ部隊の連中の誰か、それとも兄弟の誰か。そんなことをしそうな連中の顔を順番に思い出していったら、急にみんなに会いたくてたまらなくなった。

「もしかして、フライディの誕生日なの?」

「ああ。……誕生日パーティをすっぽかしちゃったな」

 そううそぶくと、ロビンが横になったまま僕を見つめて言った。

「三十歳の誕生日?」

「えっ……ああ、ああそうだよ」

 そうだった。僕は最初に会った時ロビンに二十九歳だと言っていたんだっけ。

「おじさんだ」

 十六歳というのは容赦ない年齢だ。

 僕は本当はまだ二十三だけど、三十歳になったその朝に「おじさん」と言われて喜ぶ男はどこにもいないだろう。暴言のお返しにロビンの柔らかい頬をむにーっとつまんで返した。

「生意気なガキだ」

「ガキじゃないもん」

「僕の半分じゃないか」

「フライディがおじさんなだけ……わわっ、やめてよ」

 ロビンは笑いながら転がって、僕がぺしぺし叩く手から逃れた。


 予定外の早起きはしたけど、その日も普段と変わらない一日だった。

 僕等は果物を薄く切って日に干した。ドライフルーツ作りは傘なしでは外出したくないような嵐の日や動けないような怪我でもした時のために、当座の食料にと思って始めたことだった。

 魚や貝は長期保存に向かない。ひとりの時に試したことがあるが(この時は動けなくなった時のための備えは切実だった)腐って捨てることになったので、それからはドライフルーツづくりに専念している。

 本当はタンパク源としての保存食もあった方がいいのは分かっているが、保存食づくりには加熱するための燃料と、大量の塩とそれを作るための燃料が必要だ。二人で食べきれないほどの魚がいる今、あえて作ろうという気にはなれなかった。


 それからいつものようにロビンに数学の勉強をさせて、貝を掘って夕方になった。

「誕生日、おわっちゃうね」

 ロビンが沈む太陽を見てそんなことを言い出した。

 君と違って、もう僕は誕生日を誰にもお祝いしてもらえないからってすねるような子どもじゃないんだよ。

「まあそんなに嬉しい日でもないからね、もう」

「お誕生日おめでとう、フライディ」

「ありがとう、ロビン」

「お誕生日プレゼント」

 ロビンがそう言って僕の頬にちゅっと音を立ててキスをした。

「……こっちがいいな」

 僕は無分別にもそう言ってロビンをひきよせ、唇にキスをした。


 腕の中のロビンががちがちに硬くなっているのを感じて、僕はやっと自分のした大失敗に気付いた。


 ロビンを離し背中を向けた。僕は今すぐこの場から離れなくちゃいけない。

「ごめん、ちょっとふざけすぎた」

「今の、なに?」

「なんでもない」

「待ってよ、ねえ、フライディ……どこ行くのよ」

「どこでもいいだろ」

「よくない! 分かんないよ、今の何だったの?」

 ロビンが駆け足で追いかけて僕に食い下がった。

 僕は馬鹿だ、大間抜けだ。ロビンはどうして僕を放っておいてくれないんだろう。

「私達、明日も明後日もふたりきりなんだよ。ちゃんと言ってくれなきゃ困る。分かんない」

 キスした後でどういう意味か追いかけて訊いてくるような十六歳の少女にキスをした僕は最低な大馬鹿野郎だ。自分に腹が立って仕方がなかった。

「多分、ストックホルム症候群とかと同じなんだ」

「何のこと言ってるの?」

「ふたりで仲良く協力した方がこの事態を乗り切りやすい。異常な状況をやりすごすための思い込みだ。そうじゃなきゃキスも返せない子供に関心なんて持つわけない」

 自分で自分を殴って揺さぶって正気に戻したい。それが駄目なら水をかぶるのでもいい。

「そんな言い方ひどいじゃないっ! それじゃ私全然魅力ないみたいっ!」

 ロビンは容赦なく僕を追い詰めた。

 そろそろギリギリなんだ、勘弁してくれ。

「じゃあ何て言って欲しいんだよ。君と寝たいって言われたいのか?」

「言えばいいじゃないっ!」

「冗談じゃないよ、勘弁してくれよっ!」

 もう耐えられなかった。僕は自分への苛立ちをロビンにぶつけていた。つまりはやつあたりだ。

「ひどいじゃない……どうしてキスされて怒鳴られなきゃいけないの?」

 ロビンがその場にしゃがんで顔を覆って泣き出した。


 僕は最低だ。

 自分がしたいっていうそれだけの理由で、ふさわしくもない相手にキスをして、そのことで腹を立ててやつあたりして、女の子を泣かせるなんて。こんなに女の子相手に余裕がなくなったのも初めてだ。

「ごめん、怒鳴ったりして」

「私がお荷物なのは分かってるけど、いいとこないみたいな言い方しないでよ。私だってせいいっぱいやってるんだよ」

「分かってるよ。君は頑張ってる。数学もサバイバルも」

「大人じゃないけど私だってちゃんと女の子なんだよ。キスだってはじめてだったのに、ふざけてされたなんてあんまりだよ」

 泣きながらロビンが精一杯僕に訴えてくる内容は、いちいち僕の胸を刺した。ロビンが心の中に抱えてはひとりで泣いて吐き出してきた、ロビンが自分なりに守ってきたプライドを僕がさっきどうしようもなく傷つけたのだということが骨身に染みた。

「ごめん……ふざけてたわけじゃない。僕は……ただ君にキスしたかったんだ」

「どうして?」

「よく分からない」

 キスした後でも友達でいられるような余裕のないこんな島で、どうしてあんな馬鹿な真似をしたんだろう。自分でも分からなかった。

 分かっているのは、こんなにロビンを泣かせている最中にも、まだ僕はロビンにもっとキスがしたくてたまらないってことだ。きっとロビンには僕が逃げ出した本当の理由は一生分からないだろう。分からないでいて欲しい。

 何か違うことを言おうと焦った僕は、また馬鹿なことを言った。

「婚約者がいるんだ」


 これじゃロビンが好きだって言ってるようなものだ。

 僕はずっとロビンの庇護者かつ家庭教師かつバディとしてやってきた筈なのに、こんなことを唐突に告白されてもロビンも困るだろう。それがどうしたのと言われる前にあわてて言葉を継いだ。

「君は子どもだし、偶然ここで会っただけだ。住む国も違うし、島を出たら離れることも分かってる。君にそういう気をおこしてもお互い困るだけだから、できるだけ気をつけてたのに。さっきのキスはふざけてしたわけじゃない、でも色んなことをあの時だけちょっと忘れてた。泣かせてごめん」

「ごめんじゃすまない」

 自分でもあんまりひどいと思う告白と謝罪を、当然ながらロビンは受け入れなかった。

 彼女は泣き濡れた瞳に力を込め、僕を見返して言った。

「やりなおし。最初から」

「ロビン」

「お誕生日おめでとう、フライディ。お誕生日プレゼント。受け取って」

 ロビンはそう言って手を前につき、僕の方に身を乗り出した。唇が震えていた。

 濡れた瞳を閉じたのは効果を考えてのことじゃないと分かってる。計算のない行為だからこそ余計にどきどきした。

「ありがとう、ロビン」

 そう言って僕はロビンがくれたプレゼントを受け取った。


 自分の心臓の音が数え切れないくらい聞こえてから、唇が離れた。

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