第九色 彼女なりの贖罪と彼の思いやり
あの吸血鬼モドキを家に返そうとした時の事を思い出す。吸血鬼はいつも別れ際になるとその吸い込まれそうな双眼に涙を浮かべてベッドで寝たいと懇願するのだった。その度に溜め息をついて彼女を諭す。壮絶な闘いは毎回俺の甘さが敗北を招くことになのだが。
今の彼女の涙を止める術を俺は知らない。最初は声を殺して泣いていたけれど、不意にダムが決壊したかのように駄々を捏ねる子供のように泣き始めたのだった。
俺は黙ってそれを見ている事しか出来なかった。力不足と他人への興味喪失が重なって改めて自分の不甲斐なさを感じる。
無人の児童公園に響く一匹の蝉の鳴き声と無垢な少女の泣き声。
「ごめんねぇ…。ごめんねぇ…うぅ…」
いくつかの嗚咽と共にそんな声が聴こえた気がした。
「………」
声は出なかった。否。声を出せなかった。
「貴方を独りにしちゃった…まだ私の事、恨んでるでしょう?」
汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を向けて無理な笑顔を見せる。
「…わかんねぇよ」
その瞳を覗く事は叶わない。
「……そっか」
芽衣はビニールの袋に入ったクッションを両手でぎゅっと握った。いくつもの雫が音もたてずに落ちては弾かれる。
「私ね…」
ふと声の方を見ると芽衣は青色の空に描かれた二本の飛行機雲を見ながら口を開いたり閉じたりを繰り返していた。
「…なんだよ」
なんで俺はこんな時でもぶっきらぼうにしか振る舞えないのだろうか。
「…悲しかった…春樹が楽しそうにでもなく苦しそうにもせずにただ走っていて…」
暫くの沈黙。
「知ってる?春樹、走ってる時顔が全く変わらないの。…高二の関東大会、怖かった。感情のないロボットみたいにただ走るって行為をしてるだけだった」
「………」
否定は出来ない。確かに俺は走ることに快感も憶えていなければ、苦痛も感じないからだ。だがそれを他人にとやかく言われる筋合いはない気もする。
「周りの選手は苦しそうにしたり、それでもやりきったって顔してるのにその中で春樹は無表情で平然と一位を取ってた…」
いつの間にか泣き止んで、クッションを見つめながら淡々と言葉を口にしていた。
「悲しかった。春樹が何も感じない心になったんじゃないか…って」
芽衣の言葉は続く。
「変な話、唯一春樹は陸上のお陰で何とか人間でいられている。そんな気すらしたわ」
随分な言いようだった。これじゃまるで常日頃から俺を見ているストーカーみたいだ。
「だから私は…」
「…それだけか」
ふと砂まみれのベンチから立ち上がる。
「へっ…春樹…?」
芽衣も後ろのベンチで不安そうにしている。それに背を向けて俺はそっと口を開いた。
「言いたい事はそれだけかって」
「う、うん?」
更に分からなくなってきたのか芽衣も立ち上がってきて俺の俯いた顔を覗いてきた。
握った汗で滑る拳を精一杯握った。
「…お前が気にすることじゃない。これは俺の問題だ。別にお前が泣く必要もないし、況しては重荷に感じる事もない」
「でも…」
やっと落ち着いた涙やらを拭いて眉毛を八の字にする。
「もう終わった事なんだよ、俺はもうトラックには戻らない…それだけ」
ダボダボのティーシャツを夏風に翻して振り向いた。
「…帰るぞ、芽衣」
俺はゆっくりと歩を進めた。やけに日差しが痛くて居たたまれない。
「はるきっ!」
女特有の高い声が無人の公園に響く。
その声にふと足を止めた。
「それでも私は…春樹に走ってもらいたいよ?」
彼女の口をへの字に曲げた苦しい笑顔が目に浮かぶ。それでも振り向きはしなかった。
「どんなに春樹の思う事がなかったとしても春樹が走っているなら私はそれで満足。今の春樹…溜め息ばっかりしてる」
こんな時に限ってなぜか頭の中は吸血鬼でいっぱいだったりする。
「………」
「それってやっぱり春樹の中で走る事が支えになっていた証拠だと思うの。だから…」
「だからまた陸上に戻れってか?」
女子相手になんて口をきいているんだ。そう思う自分がどこかに居ても口調は全く尖ったままだった。
「そんな事は…」
「同情なんてまっぴらだッ!」
ビニール袋を握る拳に更に力が入る。
「もう棄てたんだ、そんな気持ち」
「春樹…」
「もう終わったんだ…終わったんだよ…ッ」
思わず公園を後にした。
まだ警戒が解けないので今日は芽衣の家で一夜を過ごすことになった。
何となく家でじっとしている事が出来ずに何となく家の辺りに足を運んでいた。
うちの玄関先を中心に近所三軒程に渡って封鎖されている。封鎖範囲の家でも出入りは出来るがなぜか うちだけ半壊状態で相変わらず入ることは叶わなかった。
それにしてもアスファルトは完全に地割れを起こして隆起しているし、家々を隔てる塀も発泡スチロールの様に粉々になっている。こんな事がなぜ起こったのか、依然として判明していないらしい。芽衣も言っていたが昨日の深夜に巨大な爆発音がうちの辺りから聴こえてきたらしい。誰もこの原因を見た人はおらずただ不思議な光景を目の当たりにしただけの様だった。
その時間帯に不審人物を見掛けた人も皆無であり、そもそもこんな状況を誰にもばれずに行うことが出来る時点でそいつは人間かどうか怪しい。
極めて稀な局地的な大地震が発生したとか最もらしい理由を警官は俺に伝えてきたが、その時間帯に地震を感じた人も全くおらず、その予兆すら感じなかったらしい。
俺も事情聴取されたがその時間帯にうちに居なかったとだけ伝えておいた。
つまりはその時間帯の記憶がさっぱり飛んでしまっているため何とも言えないのだ。しかし実際には最も被害にあっているのは他ならぬうち(一応は学校が手配した賃貸である)であるからして警察のしつこい質問攻めは長く続いた。記憶がないなどと口を滑らせて変に事件に巻き込まれたらそっちの方がよっぽど面倒なのだ。
その時間帯の記憶がないのと、この事件に何か因果関係があるのではと考えはしたもののそんな事あるわけもなく、俺の記憶喪失の原因究明はすっかり難航していた。
「…はぁ……」
辺りはすっかり暗くなっていて夜空にちらほらと星が見え始めていた。
今日のあの芽衣の言葉…どういう意味だったのか未だに理解できていない。しかしもう同情の生暖かい雨にあたるのは十分だった。もう俺の道の先には陸上はないのだから。
半分近くまで欠けた月がぼんやりとした雲に隠れてふとうちの方を見ると不意に視界に人間が入った様な気がした。
しかし向こうは浸入禁止区域で、入ろうとすれば見張りの警察に…。
「……っ!?」
その偉そうに両端に立っていた警官の姿が見当たらない。…始めからそこには誰も居なかったかのように暖かい風が吹くだけ。そう言えば人の姿もめっきり見なくなっていた。
俺がしきりに驚いているとまた視界の端の方に今度はハッキリと人間の姿が映った。確信をもって隆起したアスファルトの道を見るとそこには荒廃した町に立つ少女宛らに一人の女性が立っていた。
丁度最も隆起したうちの前で空に手を透かして見ている。夜の暗さに消えない真っ白なワンピースを着て、少し下から見える色白の細い足を見事に隠していた。
髪は黒く、肩に付くか付かないかくらいの長さだ。少女と言う歳よりも見た目は女性の方が似合っている感じだ。
その女性は俺に気づくと挙げた手をそのまま振ってきた。
「…そこ、危ないですよー」
一瞬、動揺を隠せなかったが俺は一人の善民として彼女に注意を促した。しかし
「だいじょーぶですよー」
連日報道されるニュースを見てやってきたミーハーなのかは知らないが、可愛らしい声を挙げてこのおかしな道路や半壊した家も気にしなかった。そのまま夜空観察は続く。
「貴方も此方に来ませんかー?」
俺を誘っている様だが、普通に何が起こってもおかしくない場所なので浸入には誰でもおっくうになってしまう。それに休憩中の警官が戻ってきた時に中に入っていたら確実にまた質問攻めだ。
運が悪ければ何かと勘違いされて署まで連行なんて事にもなりかねなかった。さっきから言っているとおり面倒事には巻き込まれたくないのだ。
「だから、そこは危ないですよー」
溜め息が漏れる。また何となくだけどこの人はここから出さないと危険な気がした。
「へへっ心配してくれるんですねー。優しいですねー?」
なんて見た目とは正反対のおとぼけキャラのその人は一向に動こうとしない。
「心配とかではなくですね…」
と何とか説得出来ぬものかと視線を下げて頭を掻いてから目線を上げるとその女性はその場に倒れていた。
「だっ大丈夫ですかっ!?」
……何かまた厄介事に巻き込まれた気がした。




