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第二十一色 未知の存在と彼の初めての願い

 未だかつてここまで自分が無力だと思い知らされた事があっただろうか。


 嫌なことからは逃げて、汚い事からは目を背けた。

 そんな風に傷つかないように、自分の心を守る様に、何かに怯えながら生きてきた。


 他人のやる事、成す事を否定し続けて、俺の中に残ったのはちっぽけで本当に下らない、塵の様なプライドだけだった。


 守りたい物一つも守れずに、それすらも自分と比べて取るに足らないと、罵倒し、軽蔑し、捨ててきた。故に俺におおよそ人脈と言ったものがほとんどない。皆無に等しい。


 俺に同情の目を向けてきた他人もいた。俺を見下して、なんとか「自分」を保っている奴もいた。俺に差別の目を向けてきた奴もいた。


 でも俺にとってはそんなことは些細なことでしかない。


 だって世の中の全ての人が、自分が一番可愛くて、自分の事が一番分かっていないのだから。


 そんな事、分かっている。俺が捻くれている事なんて、分かりきっている。嫌と言う程に。でも俺はこれで良かったと思う。やっぱり俺も一部が吸血鬼とは言え、根は人間で自分が一番好きだから。

 自分勝手だから。それでも世界は俺を中心に回っていると思うから。


 俺は常に俺自身のために生きているし、だからこそ、いつ死んでもいいと思っている。


 人間にとっての終わりとは即ち、「死」。


 生気が失われ、心身は朽ち果て無残に地へと還る。そして生命を血肉とした大地がまた新たな血肉を生む。それの繰り返し。


 それが輪廻転生。それが命の循環。

 俺もその中の歯車の一つに過ぎない。

 ……否、だった。


 こんなどうでもいい、自分を説得するための無理やりこじつけた説教交じりの解説なんか糞食らえだ。


 俺は生きたい。


 何もせず、何も考えずにただ堕落を貪っていると、なんで自分が生きているのか分からない。そんな世界だけど、まだ俺は死にたくない。こんな短い、こんなに山も谷もない、平行線な人生で終わりにしなくない。


 別に親のためとかじゃない。本当に自己中心的な考え。俺はただ、生きたいのだ。


 なにか大きな夢がある訳でもない。希望も野望もない。

 ――それでも。


 もし一つだけ、たった一つだけ、生きる以外の意味が俺にあるとしたら、


 『あの吸血鬼と一緒にまたあの狭い部屋で一緒に生活したい』


 それだけで俺は満足だ。あとはどんなに馬鹿で屑な人生でも構わない。

 神はそんな些細な夢すらも俺から奪ってしまうのか。


 俺から唯一の希望の脚を奪って、それでも飽き足らずに俺の小さな、こんな糞みたいな生活の中の小さな幸せですら、俺は奪われ逃してしまうのか。


 また俺は逃げてしまうのか。傷つくのが怖い、でも、守りたい。


 だから俺は走っている。背中に小さな、でも重い、どこまでも重い、この世界に一つしかない物。たとえ、特異な身体だとしても生きて欲しい。俺が守ったたった一つの命だから。


 守りたい。

 そんな弱々しくて実に女々しい感情が、今の俺の全てだった。


 だから逃げてきた。


 真っ赤な血のイメージと真っ黒な感覚が脳裏にべっとりと張り付き、頭から離れない。生臭い匂いは鼻を鈍く貫き、視界の全てを鮮血に彩られ、身体に思うように力が入らない。

 俺は背中に背負った虫の羽音の様な呼吸をする、アランを支えるのが精一杯だった。


 目の前で次々と罪のない一般人が血を流しながら死んでいく中、俺はそれに怯えながら、その凄惨な現場をただ見届ける事しかできなかった。


 あの口の悪い小さな吸血鬼は踊る様に、はたまた何かに動かされる様に俺たちを取り囲む人たちの首元に喰らい付いては、全身から血の気を奪い去ってまた辺りに血をまき散らす。それに呼応するかのように脱力人間達も彼女に向かっていくのだ。


 そこにヒトの意思はない。瞳は濁って虚ろ、身体からは生気が全く感じられない。人々は人形の様に何かに操られて、小さな吸血鬼へと襲い掛かる。俺は眠るを抱えながら、その大群に飲み込まれないよう、人々の死から目を背けるように何とかその場に立っていた。


「あっひゃっひゃっひゃぁあああ!!」


 吸血鬼は完全にヒトの様な容姿からは逸脱した動きで、手当たり次第に人を食らう。それを見ながら俺は心底、なまの死の接近に恐怖した。


 身体に誰のとも分からぬ血を浴びながら、俺は必死で脱力人間の流れに逆らった。その中で見たのはヒトの中で生まれる死の恐怖。人として産まれる恐怖、弱者の恐怖。

 まだどこかにヒトとしての感情を持つのだろうか――。


 それに同情の様な感情を震わせながら、俺はそれでも彼らを助けようとすらしない自分に軽蔑して、笑った。


 死にたくない……助けてくれ……こんなところで、無意味に死にたくない。

 脚は勝手に動いていた。


 踊り狂う幼き吸血鬼になんとか動きを合わせながら、ヒトの根をかき分けて道を開いた。俺達の町に帰れば、あの見慣れた景色に戻れば、あの何の変哲もない生活が返ってくると、そう信じて。


 どこからか、助けを呼ぶ声が聞こえたような気がした。それでも振り返る事はしなかった。震える脚が止まってしまいそうだったから。ちっぽけな勇気が握りつぶされてしまいそうだったから。待っている人の元に戻りたかったから。


 そうしてどれだけ走ったのだろうか、ふと辺りを見渡すともうそこは俺の見慣れた町ではなかった。しかし目の前に立っていた人物は俺のよく知る人だった。


「大丈夫かの? 貴方様よ」

「……お前、なんでここに……?」


 不思議と身体に疲れは感じなかった。残っていたのは非日常の中で見た、恐怖と絶望だった。


「迎えにきたのじゃ、貴方様よ」

「身体は、大丈夫……なのか?」

「なーにあの程度、本当は放っておけばよいんじゃよ、仮にも我々は吸血鬼だぞ? 回復力に関しては並大抵のものでは殺せんよ」


 すっかり本調子にもどった様で、アリスは流暢に人間の言葉を話すのだった。しかしその姿に俺は得体の知れぬ不安感を感じていた。


「そうか……ならいいんだ。そんな事より、アランを家に届けに行かなくちゃいけない。早くしてくれ」


 そういって俺はアリスの細い腕を掴んで目を閉じだ。歯を食いしばってあの形状しがたい苦しみに備える。


「…………」


 しかしいつまでたってもその時は来なかった。恐る恐る目を開けるとそこにはピクリとも動かずにその場に立ち尽くアリスの姿があった。


「どうしたよ、迎えに来たんじゃなかったのか」


 彼女の無気力さに少し口を尖らせるとアリスは地に足のついていない様な笑顔でこう口にした。


「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」


 次の瞬間、あの衝撃がまた身体を襲いかかった。ぐるぐると脳みそを攪拌機でぐちゃぐちゃにされる感覚。待てども待てどもその終わりが見えない恐怖、普段なら思い出せもしない過去の心の傷を穿り返されるような痛みと気持ち悪さ。それが頭の中をぐるぐると目まぐるしく記憶と共に全身に伝わる。


 目を開けた時、そこには巨大な壁が立っていた。


「おい……アリス、ここはどこ……」


 あまりの不気味さに幼女に助けを求めても辺りに彼女の姿は無かった。ついでについさっきまであった背中の確かな重みも全く感じられない。


「どこなんだ、ここは……」


 辺りは真っ白だった。本当に真っ白。俺とその不自然な壁だけしか存在しておらず、あとは地平線まで何も見えない。いや、オレが認知できないだけか。


 仕方なくその壁に近づいてみると、その壁には楔形文字の様な物が刻まれ、それを囲むように天使のような人間の絵が無数に彫られている。色は白とも黒ともいえない、とにかく人間の言葉では表現できないような色をしていた。しかし初めてみる色でもない。俺がこの色の名を忘れているだけなのだと気づいたのは暫く経ったあとだった。

 

 勿論、楔形文字なんて読めるはずがない。そっと壁に触れてみても冷たく、動物的な温かみは感じられない。なんでここにだけ壁があるのか、そんな事にすらこの時の俺は疑問に思えなかった。


 その壁を見ていると底知れぬ、親近感が込み上げてきた。本当に孤独、何もない。まさしく俗世に生きる俺の様だ。周りに同志と呼べる者がいても心のどこかに人と隔たりを作って、絶対にそれ以上の侵入は許さなかった。

 ……たとえそれが自分自身であっても。

 だからなのかこの空間は壁以外なにもないけれど、不思議と焦燥感は無かった。いままでそうして送ってきた人生になんの弊害もなかったように。


 とても大きな壁だった。幅は50m以上、高さは計り知れない。少なくとも俺の目に端は見えなかった。


「ここで死ぬのも悪くないな、なんて」


 さっきまでの生への渇望はどこへやら、そうぽつりと呟くと急に胸が苦しくなった。寂しさ、悲しさ、苦しさ。いままで目を逸らしてきた心の痛みがぐっと俺の心に吸い寄せられてきた。


 つうっと頬を何かが通って行くのを感じた。その滴が真っ白な地面に堕ちるとそこから澪が広がっていく。地面は水の様に波紋を打って、俺の姿を映しだした。その姿はあまりに小さくて頼りない。


「どうした、いつもの威勢は?」


 頬を伝う涙をふいて顔を上げるとそこにはハーフの女の笑顔があった。夏休みの間、幾度となく見たその表情に俺はどれほど救われただろうか。


「えへへ、なんか迷惑かけちゃったみたいだね」


 彼女はいつもの調子で話す。


「…………」


 しかし、その眩しすぎる笑顔は今の真っ黒な俺の心には逆に毒だった。彼女の言葉に気の利いた返事を返すことは愚か、口を開くことも出来なかった。


「ねぇ、覚えてる? 貴方が私を奪った事」

「いつだって、春樹は私の味方だったよね――――」


 それでも彼女は口を淡々とまるで業務のように動かすのだった。

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