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第十八色 動揺と拒否

 妙に汐らしい吸血鬼は俺の目まぐるしく変化する顔を面白そうに見ていた。熱のせいかほんのりと赤みがかったその頬と、溶けるように潤んだ瞳は事を知らぬ人間からすると彼女を人間と判断せざるを得ない。


「既に貴方様の身体は人間としての機能は保っておらん」

「…………」


俺は何も言えなかった。喉が砂漠のように干からび、心臓が大地震の如く全身に動揺を伝える。


「貴方様はわらわの心臓によって生かされておるんじゃよ」


 彼女は悪びれもせず、ただ淡々と事実を呆気なく晒しているだけの様だった。そこに他意や悪意の類いは一切感じられない。

 俺は生かされている? 言葉を理解しても、それを脳は頑なに認めようとしない。身体が急に小刻みに震えだしたかと思えば、この熱帯夜の中、俺は寒気を感じていた。


「従って貴方様から本来、妾の所有物であるその心臓は取り出せぬ、と言う訳じゃ。……理解してもらえたかの?」


 その言葉は短い、俺の人間としての存在を否定するものにしては余りに短く、簡素なものだった。

俺は、どこか、心の奥底で薄々は気付いていたのかも知れない。


「妾のせいと怒り狂うかの? それとも人生の理不尽さに涙するかの? それも良かろう。しかし貴方様がどう足掻こうが既に妾達の定めは決まって……」


 そこまで言って吸血鬼は力尽きて眠りについてしまった。小さくて健気な寝息が静かな部屋に流れている。俺の悪寒やら喧しい程の振動の鼓動も止まることを知らない。それでも俺は決してそれが嫌じゃなかった。


 一度は死した身体。自分の身体の事なのにまるで分かっていなかった。俺の身体がそこまで傷ついていた事、既に市井の人間の領域にはいないと言う事。生かされている身体と言う事。

 全てを理解したとき、身震いに似た振動が全身を襲った。そっと深呼吸をしてみる。今を生きていければそれでいい、彼女が俺の隣でいつまでもこんな寝顔を見せてくれればいい。少し上気した頬を人差し指で撫でた。でもそこに温もり、体温はない。

 

 そんな風に自分と言うアイデンティティーについて考え込んでいると、暗闇の中で急にぼおっと光が発生した。俺は音をたてないように光の辺りを探した。そしてその光の正体が椎名アランからのメールだと分かって安堵の溜息をついた。メールの無い様は簡素な物だった。

 

 今すぐ会いたいと。


 椎名が面会場所として指定したのは今ちょうど修繕工事を行っている元俺の家、学校の貸し出し寮の目の前だった。既に時計の針はとっくに日を跨いでいて、日が変わって一時間が経とうとしているところだった。

 

 彼女の真意は全く不明だった。予想すらつかない。しかしよっぽどの事があっての事なんだろう。そもそも彼女が俺にメールを寄越すなんて滅多にある事ではない。俺は一抹の不安を感じていた。しかし俺はぐっすりと眠る吸血鬼を起こさない様にそっと隣から離れて、少しばかりの金と携帯を持って寮の部屋を抜け出した。


 噂に聞いているほど寮の警備は厳重な物ではなかった。逆に拍子抜けしたくらいだ。俺は寮からある程度離れると、心臓を庇いながら脚を急がせた。


 熱い息を吐きながら咄嗟に心臓を庇った自分の事が急におかしくなった。さっきまでこの心臓は俺の物ではないと吸血鬼に諭されたばかりだったのに、俺はいままでとなんら変わらずにアスファルトの道を走っていた。吸血鬼の心臓が人間の心臓とどう違うのか俺には分からなかったが、使い勝手は同じようなもので走れば鼓動は早まるようだった。


 しかしあの欠陥持ちの心臓から変わったせいか、随分と身体に疲れがたまらない事にも驚いた。それこそ走る事に関しては全く問題もなく、もしかしたら現役の頃の様に走ることができるかもしれない。まぁ今更、陸上部に戻ろうなんて微塵も思わないが。

 そのまま休むことなく国道を抜けて、約束の場所に着いたのが午前一時二十分。まだ呼び出した本人は来ていなかった。


 冷たくなった夜風に頬を冷やしながら俺は携帯を仕舞ってふと夜空を見上げた。そこに広がるのは少しばかりの星達と真っ暗な空。それ以外は何もない。あの夜もそうだった。吸血鬼と出会い、生きる事となったあの夜も同じ様な夜空が広がっていた。あの時と違うのは俺の身体だけ。それ以外は何も変わらない。


 暫く空を見ていると遠くの方から小さな足音が聞こえてきた。そのたどたどしく頼りない感じが、彼女にそっくりだ。


「まっ、待ったぁ?」


 息を切らしながら彼女は再び俺の前に姿を現した。頼りない外灯が俺たちを照らす。


「そんなに。で、なんの用だ?」


 走ってきたのか肩で息をして頬を朱色に染めた彼女に俺は胸の高鳴りを覚えた。それを隠すようにそっけなく答える。


「良かった、その、ありがとうね。こんな時間に会ってくれて」


 アランは俺と目を合わせていつもの笑顔を見せてくれた。その笑顔に俺も安堵する。


「別にいいけどよ、さっきまで一緒に居たのにまたどうしたんだって。言っとくが今日の吸血鬼云々の話に関してはあれ以上は一切話さないからな」


 両手をポケットに入れて目の端でさっきからちらつく半壊状態だった寮に視線を向けた。もう修復工事も本格的に始まり、白いシートに包まれた家の全貌は既に窺う事が出来ない。


「分かってるよ、私だってそこまで空気が読めない訳じゃないさ。きっと春樹にとってもそこは触れてほしくないんでしょ?」

「まぁ、な。いや、分かってんならいいんだけどよ」

「どしたの? あっ……」


 椎名も俺の視線に気づいたのか申し訳なさそうに視界の端で俯いた。


「また、ここに戻ってこれる、よね?」


 それは俺に向けた言葉と言うよりもこの修復中の家への言葉の様だった。可笑しな質問に視線を彼女に戻した。

「それはどうかな、もう俺、陸部じゃないし。学校側も俺の事なんかもう気にしちゃいないだろうさ」


 そんないかにも慰めて欲しいよ的な意味の籠った言葉にもアランは何も言わなかった。そこが彼女の同じ同級生と大きく違ったところだ。本当に彼女に空気を読む力が無いだけかもしれないが、それとは別にそこには椎名アランとしての他人とは違った考えがある様に思われる。だから彼女は不要な慰めや同情なんかしないのだ。


「そうだよね、私も私でよりにもよってなんでこんなところに呼び出しちゃったんだろう。自分でも自分が分からないや、へへっ」


 と彼女はあどけない笑顔を見せた。その意味深な言葉に俺は全くついていけない。


「分かったから、早く要件をはなせよ。こんな時間に女と男が会ってちゃ、まずいだろうが」


 そんな風に言ってから、いつの間に湧いていた邪心に気付いて俺は大きくかぶりを振った。


「えっ、何がまずいって?」


 そう言ってアランは俺との距離をぐっと縮めた。身体が密着寸前だ。また心臓の鼓動が高鳴る。白い外灯に反射して俺の目に映る彼女の顔はどこか妖艶としてまるで魔女の魔法にかかったかのように俺はずっとその柔らかそうな唇ばかりに視線を送っていた。


「どどっどうしたよ、急に」

「あの時の」

「へ?」


 あまりの距離の近さに彼女の吐息が顔にかかる。身長差から生まれた彼女の俺を見上げる顔は俺の理性を今にでも破壊しそうだった。


「答え、聞いてない、よ?」

「答えって……」


 するとアランはまたしても俺と唇を交わした。今度はじっくりとまるで俺の唇の味を確かめるよう文字通り舐め回す様に、彼女の唾液が俺の口内に入り込んで気付かぬうちに俺は時間に身を任せていた。するとアランは俺を受け止めるかのようにゆっくりとその舌で俺の口を開かせた。


 ぐちょぐちょになった気持ちが彼女の舌に吸い取られていくような感覚を覚えた。頭もぼーっとして上手く身体が動かない。


 アランは長いキスを終えて俺から唇を離した。


「受けとめてあげる……」


 そう言ってまた俺に顔を近づけてくる。既に俺もその状況に可笑しさを感じなくなっていた。素直に瞼を……。


「ぐぁ……うえぇえ……」


 いきなり俺は口の中にいままで感じたことの無い様な違和感を感じて思わず、まだ新しいコンクリートの上に口内にあふれた違和感を吐き出した。

 俺の吐いた物はまさしく血だった。真っ赤な鮮血。鮮やかに周囲に広がっていく。それらは喉を伝ってまだ血の池の中へと消えていく。ぽたり、ぽたりと。


 しかしアランはそれに全く反応する事無く顔に俺の吐血した血がべっとりとついているにも関わらず、まだキスをしようと顔を近づける。その異様な風景にまだ血の絡まった喉で声をだす。


「おい、大丈夫か、アラン。お前何かおかし――」


 また吐血。今度は至近距離にあったアランの顔にぶちまけてしまった。彼女の白い顔が真っ赤な液体に浸食されていく。画用紙が真っ赤に染められていくかの様に。


「受け止めてあげる……」


 また一言そう言ってアランは顔から滴る血に目もくれずに俺と唇を重ねようとする。


「おい! アラン、しっかりしろって!」


 唐突に彼女の身体が力が抜けたように、よろける。咄嗟の判断で血の付いた身体を支える。前のめりになった彼女の身体が俺と重なる。その時俺はまた身体に違和感を感じる事となる。


「ア、ラン……?」


 いきなり視界が霞み始める。真っ赤な血と真っ黒な空。そして真っ赤な女。


「ごめんね、ごめんね、ごめんね」


 また吐血。アランを支えていた腕を離して、熱くなった左胸部を抑える。そこにはパックリと大穴が開いていた。べっとりとした感覚と共に。


「笑わないでね、笑わないでね、笑わないでね」


 俺の支えなくしても立つ真っ赤な女を前にして、俺は血の池に跪く。もう呼吸も苦しくなってきた。

 少し視線を上げるとそこには真っ白な腕とそれに握られた真っ赤に鼓動する物体。


「この心臓は私のだから」



 その言葉と共に霞む視界に広がったのは閃光の様な光。一筋の真っ黒な光だった。

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